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2013年10月 9日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(41)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(15)

「帝人事件」で被告人全員無罪の判決を出した藤井五一郎裁判長と、岸盛一補充判事は、判決の約2年後、蒙古連合自治政府司法部に転出した。これは左遷であり、無罪判決でメンツを潰された司法省による報復人事と思われる。

では、藤井五一郎裁判長の下、右陪席を務めた岡咲恕一判事と石田和外判事はどうか。

昭和15年に発行された『大日本司法大観』によると、岡咲恕一判事は、昭和1212月東京控訴院判事に、134月に「司法書記官 民事局勤務」となっている。昭和1212月は、16日に帝人事件無罪判決のあった年であること、岡咲判事はもともと民事畑の判事だったことから、同年12月の東京控訴院判事は、民事畑に戻るための「つなぎ」の人事とみるべきだ。したがって、考察の対象になるのは昭和134月の「司法書記官」への異動となる。

次に石田和外判事についてみると、『大日本司法大観』によれば、昭和8年東京地裁判事となったあと、「昭和169月東京刑事地裁部長」と記載されており、その間の異動がない。だが、『私の履歴書』(1972年)には、「藤井裁判長のもとで約三年半陪審判事を務めたのち、そのころ刑事裁判官の進路の一つだった予審掛を命ぜられ、約二年足らずで抜擢されて事実上の裁判長として公判へまわされ、やがて形のうえでも部長判事として正式に刑事第十部の裁判長となった。これは昭和十六年九月一日のことで、このとき私は39歳。今では思いもよらぬ若さであった」と述べている。

帝人事件の公判開始は昭和106月であり、藤井五一郎裁判長が蒙古連合自治政府に転出したのが昭和149月である。石田和外はこれに先立つ昭和13年末ころ、予審掛を命じられたことになる。そして、『私の履歴書』によれば「二年足らず」予審判事を務めたのち「事実上の裁判長に抜擢された」というのだから、昭和15年末ころまでが予審判事時代だったことになる。

さて問題は、岡咲恕一判事の「司法書記官 民事局勤務」と石田和外判事の「予審判事」とへの異動が、帝人事件で無罪判決を書いたことへの報復人事と言えるか、という点である。

正直なところ、この評価はとても難しいし、軽々にしてよいのか疑問もある。戦後の裁判所には相応する裁判官の地位がないので、現代裁判制度に引き直して考えるのも難しい。だが、結論からいえば、これらの人事は「報復人事」と評価してよいと考える。

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