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2013年10月23日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(43)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

平沼騏一郎と内藤頼博(17)

 

「帝人事件」で被告人全員無罪の判決を出した藤井五一郎裁判長と、岸盛一補充判事は、判決の約2年後、蒙古連合自治政府司法部に転出させられた。一方陪席だった岡咲恕一判事は東京地方裁判所民事部の「司法書記官 民事局勤務」に、石田和外判事は東京刑事地方裁判所の予審判事に、それぞれ異動する。これらは全て「左遷」と評価されるし、無罪判決でメンツを潰された検察による報復人事である可能性が高い。

ところで、帝人事件では、東京地裁の両角誠英予審判事らが被告人らを起訴相当と決定し、その取調等の妥当性については、両角判事自身が公判廷に呼び出されるなど、異例の展開となった。

藤井五一郎裁判長らが左遷されたとすれば、両角判事はどうなったのだろう。

 

『司法大観』によれば、両角誠英判事(明治21年生)の経歴は次のとおりである。

 

大正3年 東京帝国大学法科卒業

同年 司法官試補

5年 判事

6年 検事 

同年 判事

同年 米沢区裁判所判事

8年 秋田地方裁判所判事

13年 仙台地方裁判所判事

昭和2年 東京区裁判所判事

5年 東京控訴院判事

同年 函館地方裁判所部長

7年 静岡地方裁判所部長

8年 東京控訴院判事

9年 東京地方裁判所判事

10年 東京刑事地方裁判所判事

12年 金沢地方裁判所長

14年 甲府地方裁判所長

 

その後、大審院判事に異動したのち、終戦前に退官している[1]

東京帝国大学法科を卒業してはいるが、卒業時の年齢は26歳と遅い。任地も、米沢・秋田・仙台・東京・函館・静岡であり、「どさ回り」というほどではないが、首都から離れないエリートとは全く異なる異動だ。注目すべきは、昭和10年に東京刑事地方裁判所に異動している点であり、これは帝人事件の勃発と時期が重なる。そして、帝人事件終了後の金沢地裁所長、甲府地裁所長への赴任は、明らかに栄転だ。

両角判事は、任官早々、司法界の頂点に君臨していた平沼騏一郎を挨拶に訪れ、恭順の意思を示したことを内外に語って憚らなかった人物である。その人物が、帝人事件の検挙と同時に担当予審判事に異動し、起訴後、金沢地方裁判所長に栄転したとなれば、この人事が意味するところは明らかであろう。

 

 



[1] 『法窓風雲録』293

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