« 内藤頼博の理想と挫折(43) | トップページ | 米NSA、日弁連会長の携帯電話を盗聴していなかったことが判明 »

2013年10月28日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(44)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(18)

さて、帝人事件については一旦筆を置き、無罪判決を出したため左遷された判事の事件として、石坂修一判事の河合栄治郎事件を紹介しておこう。

石坂修一判事は、1895年(明治28年)914日、富山県滑川市に生まれた。父石坂豊一(明治7年―昭和45年)は富山県庁職員から樺太開発計画に携わり、昭和13年に衆議院議員に初当選し、立憲政友会に所属し、戦後は参議院議員となった。名家ともいえるが、石坂修一本人は「井戸や壁すらなくなった」と述べている[1]

大正8年(1919年)に東京帝国大学法学部を卒業して、同年任官。横浜地方裁判所詰、東京地方裁判所予備判事を経て、大正104月東京地方裁判所判事、同年8月横浜地方裁判所判事、大正1312月東京地方裁判所判事、昭和99月東京地方裁判所部長、昭和105月東京刑事地方裁判所部長、昭和1112月東京控訴院判事、昭和148月東京刑事地方裁判所部長というのが、昭和15年までの経歴だ。転勤が東京都横浜の範囲内に限られていること、39歳で東京地方裁判所の部長職に就いていることからして、ほぼエリートコースと言って間違いないと思う。

一方の河合栄治郎(1891(明治24年)-1944年(昭和19年))は、1915年に東京大学法科大学政治学科を卒業した後、農商務省の官僚を経て、1920年に東京大学経済学部の助教授となり、1936年(昭和11年)には経済学部長。Wikipediaによると、学部多数派の領袖としてマルクス主義派と対峙していたという。その後ファシズムが伸張すると、川合はファシズム批判の論陣を張ったが、1938年(昭和13年)に『ファシズム批判』など4点の著作が内務省により発売禁止処分に付され、翌年これらの著作等における言論が「安寧秩序を紊乱するもの」として、出版法違反に問われ起訴された。これが河合栄治郎事件である。

裁判長裁判官が石坂修一、陪席が兼平慶之助と三淵乾太郎である。三淵乾太郎は、戦後初の最高裁判所長官となった三淵忠彦の子であり、内藤頼博との関係では、同じ「さつき会」に所属していた。また、兼平慶之助は昭和37215日、砂川事件の再戻し後控訴審で被告人に逆転有罪判決を下した担当裁判官である。

河合栄治郎の担当弁護人は海野晋吉。戦前・戦後を通じた社会派・人権派の弁護士として著名であり、晩年の内藤頼博とは親交を結んだようである。

昭和15107日、石坂修一裁判長は河合栄治郎に対して無罪を言い渡したが、控訴審で有罪となり、上告も棄却され、有罪が確定した。

これが、河合栄治郎事件である。


[1] 石坂豊一・修一追悼集収録『あの人この人訪問記』

|

« 内藤頼博の理想と挫折(43) | トップページ | 米NSA、日弁連会長の携帯電話を盗聴していなかったことが判明 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/58418942

この記事へのトラックバック一覧です: 内藤頼博の理想と挫折(44):

« 内藤頼博の理想と挫折(43) | トップページ | 米NSA、日弁連会長の携帯電話を盗聴していなかったことが判明 »