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2013年11月 5日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(45)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(19)

石坂修一の任官は大正8年であり、藤井五一郎の一年後輩にあたる。昭和10年の帝人事件では、機械的に配点されず、藤井に裁判長の白羽の矢が立った。これに対して石坂修一がなぜ河合栄治郎事件(昭和15年)の担当裁判長になったかについては、記録がなく、分からない。

但し、陪席裁判官の兼平慶之助と三淵乾太郎は、河合栄治郎事件を担当するために異動させられている。兼平は、「(石坂裁判長の)部に行ってみたら、河合事件があるというので、唖然とした。とても僕には、と言ったら、石坂さんに、逃げる奴があるか、と一喝された」と述懐しているし、当時東京民事地方裁判所にいた三淵乾太郎は、「二年でいいから刑事に行ってこい、と言われて刑事に行き、石坂さんの部にやられたら河合事件が配点になっていた。正直言って、とんでもないところに来たものだと思ったね」と述べている[1]

兼平慶之助と三淵乾太郎を河合栄治郎事件に配点した当時の東京刑事地方裁判所長は島保。昭和22年から35年まで最高裁判所判事を務めたが、河合栄治郎事件への関与については記録がなく、帝人事件における三宅正太郎東京地方裁判所長(当時)の関与に比べ、地味な印象がある。

1回公判は昭和15423日、結審は723日、その間十数回の公判を行って、107日に判決がなされた。判決まで半年以内というスピード審理は、当時としても珍しかったようである[2]

スピード審理であったにもかかわらず、二人の陪席裁判官が口を揃えて難事件だという理由は、事実認定で大半の決着がつく通常の刑事事件と異なり、基本的な事実関係には争いなく、専ら、出版物に記載された文言の法的評価が問題となる事件だった点にある。

もちろん、極めて政治色の強い事件であったことも、「難しい」と言わしめた一因であろう。


[1] 石坂豊一・修一追悼集 金隆史『石坂裁判官の追憶』99

[2] 石坂豊一・修一追悼集 金隆史『石坂裁判官の追憶』100

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