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2013年11月25日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(47)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(21)

昭和13年(1938年)、ファシズム批判の論陣を張り出版法違反に問われた河合栄治郎東京帝国大学経済学部教授は、石坂修一裁判長のもとで、無罪判決を受けた。判決文で石坂裁判長は、刑罰法規の恣意的運用を厳しく諫めた。

しかし、この無罪判決は控訴審で敗れ、昭和161023日、罰金の有罪判決が下される(担当裁判官は小中公毅、八木田政雄、坂本英雄[1]であった(昭和161023)。さらに上告棄却で有罪判決は確定した。控訴審で有罪判決が出たとき、石坂は兼平裁判官宛の手紙に、「われらの判決敗れて土崩瓦解す」と記し、無念を露わにしたという[2]。大審院で河合栄治郎事件を裁いたのは、三宅正太郎であり、尾崎行雄の不敬事件では無罪判決を下しているが、河合栄治郎事件では有罪の控訴審判決を維持した。石坂自身は、大審院で有罪が維持された理由について、「(控訴審で)罰金になったしね」と述べている[3]

入江曜子『思想は裁けるか 弁護士海野晋吉伝』によると、東京高等裁判所の小中正毅裁判長は、当時人口に膾炙した超国家主義のスローガンを羅列して河合を断罪し、法廷の誰もが実刑判決を予測したその時、「罰金300円」との判決が下されたという。裁判所は、検事と河合、両方の顔を立てたのだ。

そして、一審判決を担当した石坂修一判事は姫路支部長に左遷された。

伊達秋雄判事は、「司法大臣柳川平助中将は、枢密院会議における同顧問官大島健一中将(当時の大島駐独大使の巌父)の、あのような裁判官(筆者注;石坂判事のこと)を東京地裁におくことはけしからんとの弾劾に動かされて、地方転出による昇給を理由として(石坂氏は二回試験の成績の理由もあって、後輩の佐藤藤佐氏や飯塚敏夫氏らよりもおくれ、2級俸にとどまっていたので)石坂氏を姫路に左遷させてしまったのである。…もし大臣を輔佐した三宅正太郎次官が、右の事情を知って大臣の処置に賛成されたとすれば、同氏は私どもが裁判官の模範として最も尊敬してきた人であるだけに、いかに時代の思潮というものが個人の行動に大きな影響を与え、その人の主体性を喪わせるものであるかと空恐ろしくなるのである」と述べている[4]


[1] 中田直人は『国民のための刑事法学 その理論と闘い』の中で、坂本英雄判事を、ファシズム礼賛の思想判事と厳しく弾劾しているが、左陪席であったことからして、河合栄治郎の有罪判決にどの程度影響したかにはやや疑問が残る。

[2] 石坂豊一・修一追悼集106

[3] 石坂豊一・修一追悼集258頁『あの人この人訪問記』より

[4] 伊達秋雄『退官の弁』判例時報263

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