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2013年12月 4日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(48)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(22)

昭和14年(1939 年)、ファシズム批判の論陣を張り出版法違反に問われた河合栄治郎東京帝国大学経済学部教授に対して無罪判決を下した石坂修一裁判官は、平沼騏一郎内閣下、枢密院顧問であった大島健一中将のあからさまな圧力によって、姫路支部長に左遷された。

帝人事件の担当裁判官が左遷されたか否か、今ひとつはっきりしないのに対して、石坂の左遷されたことが明らかな理由は二つある。一つは、左遷の直接の圧力が枢密院議員の公的発言だからであり、一つは、石坂自身が、左遷されたと公言してはばからないからである。

石坂はいう。

「(河合事件判決)から一年足らずたってから『姫路へ行け』と言われました。…どうして一体そういうことになったかというと、当時平沼内閣だったですよ。司法大臣が柳川平助、次官が三宅(正太郎)さんでしょ。判決の年でなくその翌年のいつか知らないが、枢密院に大島(健一)という陸軍中将がいたでしょう。大島浩というドイツ大使のお父さんですね。『いやしくも政府が治安を乱すとかそれから国憲を棄乱するとか、という理由で発禁にし、検事も同意見に立って起訴しているのだから、事実は決まっているのだ。それを裁判官が無罪だと言っているのはけしからん。司法省は、そういうけしからん裁判官をなんとか処置しろ。司法省は処置する意思はないのか』と質問したのですね。…そしたら司法省はあわてたのでしょう。それで私をなんとかしなければならないということになったのですね。そこで、私に『姫路へ行け』ということになったわけです。東京においておくと私のことですから、またやる。やるに決まっておりますよ。今でもやるんだから昔でもやりますよ。昔ならなおやりますよ。(笑い)またそういうことがあれば同じことをやりますからね。『あんなものをおいたらどうなるか分からん』ということで、しかし、これは考えてみると、三宅という人は非常に情のもろい人です。ですから、私に対しては非常な同情をもって見ておって、『あいつをそのまま置いておくと、あいつはそういう男だからまたやるのではないか。そうなったら収拾つかんことになってえらい目に遇う。その時には却ってあれに大変な不利益だ。だからかわいそうだけれどもしばらくどこかにやっておいたほうが、石坂のためだ』と思ったのでしょう。そこで姫路へ行けということになったのですね。」

石坂が姫路に左遷されたことについては、少なくとも表だった抗議は行われなかった。丁野暁春判事は、「石坂氏は姫路の裁判所へ左遷されたが、これを抗拒する運動はまるで行なわれなかった。当時の東京刑事地裁の所長も、東京控訴院長も、いっこうに表に立って堂々とその不当を責めることはなかった。司法行政権の大通りのみを歩いて、出世出世と勇み立つ長官たちは、なによりも自分の地位の保全、昇進が重大で、かかる場合に普通の人間、市井の平民の持つくらいの情義も意気地も持ち合わせがなかったのである。」[1]と辛辣に批判している。


[1] 『司法権独立運動の歴史』99

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