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2013年12月 9日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(49)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(23)

昭和14年(1939 年)、ファシズム批判の論陣を張り出版法違反に問われた河合栄治郎東京帝国大学経済学部教授に対して無罪判決を下した石坂修一裁判官は、平沼騏一郎内閣下、枢密院顧問であった大島健一中将のあからさまな圧力によって、姫路支部長に左遷された。

裁判官の人事権を持っていた司法省の当時の次官は三宅正太郎もと東京地方裁判所長であり、その人格識見は当時の裁判官から高く評価されていた。その三宅が政府の圧力に屈して石坂修一判事を左遷する人事を行ったことについて、伊達秋雄判事は失望をあからさまにしているが、石坂自身の言によると、三宅なりの温情人事であったという。おそらく視点が違うだけで、実態としては同一なのだろう。

三宅(明治20年生)は石坂(明治28年生)の8歳年上で、東京地方裁判所において石坂の上司であったこともあれば、石坂が無罪判決を下した河合栄治郎事件について、石坂の左遷人事を司法次官として差配したうえ、大審院で有罪の高裁判決を維持した当時の裁判長でもある。「因縁浅からぬ」関係といってよい。海軍中将の子として東京で生まれ、学習院出身というサラブレッドの三宅に対し、石坂は複雑な感情を抱いていたようだ。回想には、「三宅さんはじつに偉い人でした。英雄でしたね。英雄で私も尊敬しておりました。あの人は都会人で、私はさっき申したように田舎者ですよ。だから、ちょっと私とは肌が合わなかったな。」[1]と率直な感想を述べている。

河合栄治郎事件で石坂の陪席を務めた三淵乾太郎判事が後に語ったところによれば、大審院判決の後、「若手裁判官某氏らが三宅裁判長を訪ねた」ことがあったという。この「若手裁判官」に内藤頼博が含まれていた可能性は高いと思う。また、安村和雄判事によれば、東京地方裁判所の刑事裁判官が三宅判事を招いて催した夕食会の席上、臨席した石坂判事との間にかなり熾烈な応酬があったということである[2]。この会は若手裁判官による三宅裁判官弾劾の趣旨で設定されたと思われるが、それを承知で招待に応じた三宅判事の度量が知れるというべきだろう。

三宅正太郎は、内藤の回想によれば、自ら刑事事件の裁判長のおり、占いに従い身銭を切って死体を捜索させたり、「修身の授業のような」法廷運営をして検察官を辟易させたりしているが、他方、帝人事件では、政治的圧力とはおよそ無縁の精神の持主である藤井五一郎を裁判長に据え、一方、自ら司法次官となった折には、石坂修一判事の左遷を差配し、その後、軍服を着て戦意昂揚の演説を行ったりしている。後に触れるが、公職追放により裁判官の職を退いた後、戦後初の最高裁判所長官選定に関わっていた可能性が高い。これらの事実から明らかなことは、三宅正太郎は極めて複雑、または奥行きの深い人間であり、法律実務家としても、政治家としても傑出した資質の持主だった、ということである。


[1] 『あの人この人訪問記』

[2]石坂豊一・修一追悼集106

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