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2013年12月16日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(50)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(24)

昭和15107日河合栄治郎事件に無罪判決を下し、時の平沼騏一郎内閣下のあからさまな圧力によって、東京地裁部長判事から姫路支部に左遷された石坂修一判事は、平成15年(または16年)、姫路支部長に左遷された。『あの人この人訪問記』によれば、終戦前後に大審院判事となり、戦後、昭和2310月に仙台高等裁判所の長官、米国出張、広島・名古屋・大阪高裁の長官を経て、昭和33年(1958年)6月、最高裁判事に就任し、昭和40年(1965年)9月に定年退官した。

一見して明らかなのは、戦前の不遇の時代に比べ、戦後はエリートコースで、最高裁判事への王道を歩んでいる、ということだ。任官当初は横浜地裁勤務もあり、東京から一歩も出ないトップエリートではなかった。また、伊達秋雄判事によれば、石坂の二回試験の成績はトップクラスというほどではなかったようだ。石坂自身、望んだわけではないと述懐し、当時名古屋高裁長官だった五鬼上堅磐(ごきじょうかきわ)に説得されたと言っている。

推測だが、石坂修一判事が最高裁判事にまで上り詰めたのは、一つには、戦前司法省の圧力により左遷された象徴的人物を重用することにより、司法権の独立を誇示するという、最高裁判所の組織としての意思のあらわれと見てよいだろう。

そしてもう一つには、戦後の最高裁判所判事専任をめぐる混乱期に、内藤頼博の所属する急進派と対立し、多数派の立場に立って、現在の裁判所体制の基礎を築いたことに対する論功行賞があったと考える。

この点については、後に触れる機会があるかもしれないが、毛利野富治郎判事は、岩松三郎判事の回想録『ある裁判官の歩み』の中の対談において、「丁野暁春さんと石坂修一さんが大審院から来て、わざわざ東京地裁で立会演説会をしたんだ。二人は互いに反対の立場だった人ですよ」と述べている[1]。丁野判事は前述の通り、河合栄治郎事件において無罪判決が下された際、「当時わたくしは民事地裁の部長をしていたが、何ら交友関係もない(石坂判事に)国民の一人として感謝状を呈した」と記載している[2]。しかしこの二人は、戦後司法のあり方については、袂を分けて対立した。

家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』は、この分野を代表する名著だが、戦前の司法権独立を弾圧する「軍」と、弾圧される「独立派判事」という二項対立の視座で描きすぎていて、わかりやすいけれども、やや実体から外れているように思う。たとえば河合栄治郎事件で見ても、弾圧したのは直接的には平沼騏一郎内閣であり、平沼は軍と対立していたし、弾圧された方の石坂も、戦後は丁野らと対立した。このあたりのニュアンスを理解しない限り、戦前戦後の司法史を正確に論述することはできないように思う。


[1] 『ある裁判官の歩み』223

[2] 『司法権独立運動の歴史』98

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