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2014年1月29日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(51)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(25)

河合栄治郎事件で無罪判決を書いた石坂修一判事は、平沼騏一郎内閣当時、枢密院議員であった軍人(駐独大使の父)の発言に圧力を受けた司法省によって左遷された。この人事が左遷であることについて、史料に異論は全くない。つまりこれは、司法の独立に対するあからさまな介入である。

しかし、左遷された当の石坂修一判事は、戦後の司法改革で司法権独立の徹底を主張する内藤頼博らのグループと袂を分かって、保守色の強い多数派に属し、昭和33年に最高裁判所裁判官に就任した後は、砂川事件(昭和341216日)、東大ポポロ劇団事件(昭和38522日)、苫米地事件(昭和3568日)等、政治色の強い事件において、いわゆる「逆コース」や「政治に対する司法の不介入」を追認する多数意見に与している。

これを石坂の変節ととらえたり、司法権独立の不徹底と考えるのは、いささか単純な見方ではないかと思う。石坂のような、戦後司法の本流を歩いた者の思想は、もう少し複雑であり、より精緻な観察が必要だ。

さて、無罪判決を理由に左遷されたことが明らかな石坂修一の件から、帝人事件に戻ろう。

平沼騏一郎による政治的でっち上げとされ、起訴された被告人全員が無罪となった帝人事件において、裁判長裁判官だった藤井五一郎は、その後、蒙古連合自治政府の司法部次長に赴任した。この人事が左遷と思われることは、従前述べたとおりだが、異論もある。異論の主は石田和外もと最高裁判所長官であり、帝人事件で藤井の陪席を務めた。

石田は、藤井の葬儀において、弔辞としてこう述べている。「藤井裁判長は行政部に疎んぜられて蒙古へ左遷されたのだと言う説は、大変な誤りでその様なことは絶対にないことを、当時に事情を熟知している私が茲に断言しておく。熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍転進されたのである。まさに男児の本懐であろう[1]

「この俺が言うのだから間違いない」といわんばかりだが、この弔辞をどう解釈するべきだろうか。


[1] 『藤井五一郎の生涯』198

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