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2014年1月31日 (金)

弁護士の就職率と修習辞退率の相関関係について

やや旧聞に属するが、昨年末の一括登録日時点での弁護士未登録者数は推計570人だった。知らない人のため解説すると、司法試験に合格した後、一年間の修習を終え、卒業試験に合格するのが12月半ばであり、合格と同時に、就職が決まっている人は、判事・検事・弁護士のいずれかに登録する。平成2512月半ば現在、判事にも、検事にも、弁護士のいずれにも登録しなかった人の数は、卒業試験合格者2034人中、570人だったということだ。判事・検事は確定しているので、この570人は弁護士未就職と言うことになる。割合にして28.02%だ。

日弁連は、「前年同時期と同水準」と、暢気なことを言っているが、事態はそう楽観的ではない。この未就職率は、例えば本年度の大学生の未就職率である23.4%より悪いのだ。大学卒業後、4年以上の年数と、数百万円の学費と貸与金を負担し、司法試験不合格のリスクを冒して、なおかつ大学卒業生並みの就職率を確保できない職業を目指す物好きは、そう多くない。現に、法科大学院志望者はもちろん、大学法学部志望者は激減しており、その偏差値も当然下がっている。

つまり、法曹を目指す人材の質は劣化し、司法の権威は急激に色あせている。いいかえれば、知的職業人としての法曹に対する尊敬は、失われつつある。しかし、日弁連は、これを危機と認識することさえ、やめてしまったように見える。

『日弁連新聞』2014年1月号は、「日弁連は、引き続き、」若手法曹センターを中心に、未登録者への採用情報提供、即時独立支援、さらには登録後のフォローアップを続けるとともに、今後の法曹養成・法曹人口の議論において、かかる就職難の状況も踏まえた検討がなされるよう働きかけていく」と述べているが、この文言は、『日弁連新聞』2013年1月号の「日弁連は、今後、法曹養成制度検討会議等において、このような就職難の状況も踏まえた検討がなされるよう働きかけていく」や、2012年1月号の「日弁連は、今後、若手法曹サポートセンターを中心に、未登録者への採用情報提供、即時独立支援等のフォローアップを続けるとともに、今後の法曹養成・法曹人口の議論において、かかる就職難の状況も踏まえた検討がなされるよう働きかけていく」と、ほとんど変わらない。これはつまり、滝川クリステル風に言うと、「う・つ・て・な・し」ということだ。

統計的に不気味なのは、司法試験に合格しながら、司法研修所に行かない人の割合である「修習辞退率」と、就職未定率との相関関係だ。

すなわち、修習辞退率は年々増加しているが、増加率にはばらつきがあり、

平成21年合格者の修習辞退率は1.08%だが、
平成22年合格者の修習辞退率は2.51%と2倍以上になり、
平成23年合格者の修習辞退率は3.01%と2割増、
平成24年合格者の修習辞退率は3.19%と6分増と落ち着き、
平成25年合格者の修習辞退率は3.90%と3割増になっている。

これに対して、就職未定率は、
平成22年合格者の就職未定率は20.09%と、前年度の2倍になり、
平成23年合格者の就職未定率は26.25%と3割増、
平成24年合格者の就職未定率は28.02%と前年比6.7分増と落ち着いている。

この相関関係は、考えてみれば当たり前のことで、修習が1年しかないのだから、司法試験合格者は冷静に自分の将来を見極め、修習しても意味がないと判断すれば修習を辞退するわけだし、その判断の正しさは、就職未定率によって証明されるわけである。

この相関関係が平成25年度合格者にも当てはまるとするならば、平成25年合格者の就職未定率は、前年度比2割ないし3割増、すなわち680人ないし740人となり、就職未定率は3分の1を超えることになる。

日弁連幹部には、12月には就職できなくても、1月、2月とだんだん就職できているから心配ないと豪語する者もいるが、3分の112月に就職できないということは、就職した中でも半分は、満足な待遇で就職していないことを意味する。

そして彼らの苦労と愚痴は、彼らの後輩が冷静に観察し、自分の進路を決める材料にしているのだ。

普通に考えて、それでも法曹を目指す若者は、よほどの物好きか、就職が保証されている二世か、どちらかである。

そのような若者が多数を占める組織に、未来がないことは、歴史が証明している事実である。

市場原理により法科大学院が淘汰されるとかされないとか、喧しいが、市場原理により司法試験が受験価値を失う日も、近いかもしれない。

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2014年1月29日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(51)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(25)

河合栄治郎事件で無罪判決を書いた石坂修一判事は、平沼騏一郎内閣当時、枢密院議員であった軍人(駐独大使の父)の発言に圧力を受けた司法省によって左遷された。この人事が左遷であることについて、史料に異論は全くない。つまりこれは、司法の独立に対するあからさまな介入である。

しかし、左遷された当の石坂修一判事は、戦後の司法改革で司法権独立の徹底を主張する内藤頼博らのグループと袂を分かって、保守色の強い多数派に属し、昭和33年に最高裁判所裁判官に就任した後は、砂川事件(昭和341216日)、東大ポポロ劇団事件(昭和38522日)、苫米地事件(昭和3568日)等、政治色の強い事件において、いわゆる「逆コース」や「政治に対する司法の不介入」を追認する多数意見に与している。

これを石坂の変節ととらえたり、司法権独立の不徹底と考えるのは、いささか単純な見方ではないかと思う。石坂のような、戦後司法の本流を歩いた者の思想は、もう少し複雑であり、より精緻な観察が必要だ。

さて、無罪判決を理由に左遷されたことが明らかな石坂修一の件から、帝人事件に戻ろう。

平沼騏一郎による政治的でっち上げとされ、起訴された被告人全員が無罪となった帝人事件において、裁判長裁判官だった藤井五一郎は、その後、蒙古連合自治政府の司法部次長に赴任した。この人事が左遷と思われることは、従前述べたとおりだが、異論もある。異論の主は石田和外もと最高裁判所長官であり、帝人事件で藤井の陪席を務めた。

石田は、藤井の葬儀において、弔辞としてこう述べている。「藤井裁判長は行政部に疎んぜられて蒙古へ左遷されたのだと言う説は、大変な誤りでその様なことは絶対にないことを、当時に事情を熟知している私が茲に断言しておく。熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍転進されたのである。まさに男児の本懐であろう[1]

「この俺が言うのだから間違いない」といわんばかりだが、この弔辞をどう解釈するべきだろうか。


[1] 『藤井五一郎の生涯』198

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2014年1月22日 (水)

顔認証技術の現在について(5)

近い将来の実用化が予想される顔認証技術だが、プライバシー権などの侵害はないのだろうか。また、法規制はどうあるべきだろうか。

本年4月から大阪駅で実施される顔認証技術の実証実験のプレスリリースでは、「得られた映像データは、施設内において、特定の個人が識別できない形に処理を行ったのち、処理後のデータを用いて、人の流量や滞留の度合い等の時間毎変化の集計や統計処理を行」うという。また、画像データ等は実験に必要な範囲内でのみ使用し、画像データについては施設内でただちに不可逆処理を行ってもと画像が復元不可能かつ識別不能にするとしている。

個人情報保護法上、「個人情報」とは、「生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)をいう」とされている。

防犯カメラの撮影した画像データは、被撮影者が誰かを見分けることができるほど鮮明なものである限りは、個人情報に該当する。他方、その画像に基づき、目鼻口などの位置関係を数値化した顔認証情報は、人間がそれを見ても、誰かを特定することは不可能だから、法律の定める個人情報にはあたらない。もっとも、もと画像が保存されていて、かつ、もと画像との関連性が復元可能であれば、個人情報にあたると解される余地はあるが、上記実証実験では「もと画像は直ちに破棄する」といっている。これが事実であるなら、数値化された顔認証情報自体は個人情報ではありえず、法の規制は及ばないように見える。

しかし、このような考え方は妥当ではないだろう。

顔認証情報のように、人間個人の生体情報を数値化した情報を、生体認証情報という。指紋の分析情報や虹彩認証情報、DNAのゲノム情報などが、これにあたる。これらの生体認証情報は、単なる数字や記号の羅列だから、人間が見ても、特定の個人を識別することはできないので、個人情報にはあたらない。しかし、コンピューターの関与のもと、他の情報と組み合わせ、一定の操作を行えば、個人識別が可能となる。生態情報が悪用される可能性は否定できない。そして、これが最も重要な点だが、生体認証情報は、取り替えることができない。クレジットカードのように、電話一本で無効化することは不可能だ。典型的な個人情報である住所や氏名は、いざとなれば替えてしまうことができるが、生体認証情報は、絶対に変更することができないのである。

このように、生体認証情報は、個人情報ではない場合もあるが、万一悪用されたり、悪者の手に渡ってしまった場合でも、絶対に変更することができないという特性を持つ。

したがって、生体認証情報については、法的にも、個人情報とは別の取扱が求められるというべきであろう。具体的には、第三者による生体認証情報の譲渡は禁止されるべきだと思う。

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2014年1月20日 (月)

顔認証技術の現在について(4)

「顔認証技術が実用化されたら、生活がどのように変わりますか?」という質問を、新聞記者氏から受ける。私は、「たとえば決済が顔認証情報でできるようになります。そうなれば、現金もクレジットカードも持ち歩く必要はありませんし、盗まれる心配もありません」と答えることにしている。ただ、現在の顔認証技術は、長足の進歩を遂げたとはいえ確実性に乏しく、到底、決済手段にすることはできない。

と思っていたら、顔認証技術の未成熟さをいわば逆手にとった、ユニークな決済手段が開発され、実用化されていた。ソフトバンクと米paypal社の合弁企業PayPal Japan が開始した、Paypal Hereというサービスである。

このサービスでは、ユーザーはあらかじめ、自分の顔写真のデータをPayPal社に登録しておく。ユーザーが特定の店舗にチェックインすると、PayPal社はその顔写真データを店舗に送信し、店舗側はその写真と客の顔とを見比べて本人確認を行う。これにより、PayPal社は店舗に対して、その客の支払うべき代金を立替払いすることを約束したことになる。そのため、客は現金を払う必要も、カードを持ち歩く必要もなく、文字通り顔パスで決済できることになる。

このサービスのユニークなところは、技術的に未成熟な顔認証技術にこだわらず、認証作業は人間にやってもらうと割り切ったところだ。

もっとも、他人種を見分けることは不得意な日本人も多いし、女性の場合、まるで別人のようなメイクで登場することもあろう。そこで、将来的には、顔認証技術に人間の補助をさせることになるだろう。たとえ別人にしか見えないメイクをしても、眼球の位置は変えられないから、人間は騙せても、機械は騙せないのだ。

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2014年1月17日 (金)

顔認証技術の現在について(3)

ここ十年で長足の進歩を遂げたとは言え、人間の能力には遙かに及ばない顔認識技術だが、数年後の技術水準を前提にした場合、どのような使い道があるのだろう。

顔認識技術の主流は、顔の輪郭や目鼻口といったパーツの位置関係を計測して数値化し、個人を特定していくものだ。計測箇所は100箇所を超えるので、多少の変装は見破れるし、幼少時の写真から大人の顔を識別することだってできる。ただ、正確に個人を特定する能力はというと、まだまだである。光量や光源、顔の向きや近さなど、あらゆる環境が好条件でも、9割を超える程度だろう。すごい!と思われるかもしれないが、個人を正確に特定する必要のある業務(例えば入管など)では実用に耐えない。

とはいえ、人間が補助することを前提にすれば、様々な使い道が考えられる。たとえば、警察が、保存された防犯カメラの画像から犯人の逃走経路を捜査するとき、現在は、提供された画像データを人間が延々再生している。だが、顔認識技術を使えば、ソフトウェアが犯人に「似た」画像をハードディスクから自動的に探し出してくれる。指名手配犯であれば、防犯カメラシステムにあらかじめ手配写真データを入れておけば、指名手配犯に「似た」人物が写ったらアラートを鳴らすことも可能だ。あとは、人間が画像を見て、犯人であるか否かを確認すれば良い。

この仕組みは、捜査に要する人的資源を大いに節約することになるだろう。実際にも、パチンコ店など、特定の店舗では実用化がはじまっている。ただし、防犯カメラシステムごとに違う画像のフォーマットにどう対応するかなど、技術的なハードルは高い。

グーグルは、顔認証技術をネット上の検索に用いることを研究している。聞いたわけではないが、間違いないと思う。特定の顔写真をネットにアップすれば(ネットに接続したコンピューター内でも同じ)、世界中のウェブページから同一人の画像や関連する画像を検索する仕組みだ。Picasaが個々のコンピューターでやっている作業を、ネット上で行う仕組みと言えば、理解しやすいかもしれない。

「画像検索」なら現在もあるが、これは正確には、画像につけられた名前などや、画像の掲載されたページのテキストを検索しているものであり、画像そのものを検索しているわけではない。

画像検索のメリットはいろいろあるが、その一つは「言語の壁がない」ということだろう。

テキスト検索と、画像検索を組み合わせる技術も、近未来には実用化される(グーグルが研究していることは間違いない)。再び捜査の例でいうと、逃走犯人の写真データがないとき、「30歳代の白人男性、身長約170センチ、金髪で目は茶色、グリーンのデイパックを所持」といったテキスト情報を入力するだけで、該当する画像データを探してくる技術だ。

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2014年1月15日 (水)

顔認証技術の現在について(2)

一方、コンピューターの顔認識能力は、人間のそれに比べると、お話にならないくらい低い。顔の向きや光量、光源など、様々な要因によって左右されるし、まして、別の日に同じ場所を通った二つの顔が同じ顔だと判断するのは、大変なことなのである。

わが国における顔認証システムの公的な実証実験の最初は、平成18年(2006年)に地下鉄霞ヶ関駅で行われ、改札機の斜め上に監視カメラが設置された。「地下鉄テロ防止」などと銘打っているが、地下鉄の改札にカメラを設置した理由は他にある。地下なら光量や光源の位置は一定だし、自動改札を通過する人の向きは同一だし、一人ひとりバラバラに通過するので、当時の低レベルなプログラムが顔認証を行うには、うってつけの環境だったからだ。

本年4月、JR大阪駅のステーションシティにおいて、顔認証技術の実証実験が行われると報じられた。紙面の写真を見る限り、カメラが設置されるのは地下通路であり、光量と光源の位置一定なのは、霞ヶ関駅の時代とかわらない。但し、多数の人間が前後に通行する(横を向く人は、場所の特性上、少ないだろう)ので、そこから一人ひとりの顔を識別するのは、霞ヶ関の駅の実験に比べれば、ハードルが高い。

この8年間で、コンピューターの解析技術が飛躍的に高くなったともいえるが、所詮この程度、とタカをくくって差しつかえないレベルでもある。ネットの世界では、「大阪駅に行くな!顔認証で何してるか全部ばれるぞ!」などといった過激な言葉が飛び交っているが、実際のところ、恐れるほどのものではない。

もちろん、何十年か後には、『マイノリティ・リポート』並の監視技術が普及しているかもしれないし、そのような未来と技術を見越した議論を今から始めるのは大事なことである。ただ、その相手をろくに観察せず、脊髄反射的な反感を行動原理としているうちは、健康な議論は不可能だと思う。

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2014年1月14日 (火)

顔認証技術の現在について

顔認証技術に対する社会の関心が高まり、その種の相談が増えた。ありがたいことだが、中には、「イオンに行っても西武に行っても、店員さんが全員私を知っていて、指さされる。私の顔認証データが流通しているのではないか」といった相談も多い。だが、あなたが007のような国際的なスパイか、オサマ・ビンラディンのような著名なテロリストでないかぎり、この種の心配は無用だ。

現在の技術水準では、顔認証の能力はさほど高くないし、費用対効果も芳しくない。普及を妨げる技術的費用的問題も数多い。そのへんの一般市民を追跡するなら、探偵を一人雇った方がずっと安くて確実だが、それでも年間1000万円を超える費用がかかる。まして、顔認証システムによって、「イオンに行っても、西武に行っても、店員さんが全員私を知っている」状態を作るためには、なん億というお金が必要である。だから、「どこへ行っても私の顔が知られている」と思うなら、「私は赤の他人から、数億円のお金をかけて追跡される価値のある人間だろうか?」と問い直した方がよい。価値がないと思うなら、「顔認証システムに追跡されている」以外の原因を検討した方が現実的だ。

なぜ、顔認証技術の能力はさほど高くないのだろう。

監視カメラが、顔認証を行うためには、まず、画像全体から、そこに写っている人間の顔を切り出して認識する必要がある。最近のデジタルカメラは、自動で人の顔を認識し、四角で囲む機能を備えているが、この機能が「顔認識」だ。

だが、「はいポーズ!」と言ってカメラの方を向いてもらった場合はともかく、カメラ目線でない顔をコンピューターが認識するのは、実はとても難しい。横を向いていたり、強い光によって顔の半分が影に隠れていたり、遠かったり霧に煙っていたりするだけで、顔認識成功の確率は大きく下がってしまう。到底、人間の能力には及ばないのだ。

この問題は、実は「見る」という行為の本質と、大きく関わっている。我々が「見る」のは、網膜に写った画像そのものではない。網膜に写った画像に対して、一定の取捨選択を行ったり、解釈を加えたりして脳が認識するものが、「見る」という行為の本質である。この取捨選択や解釈は、動物の種族によって違う。猫科の動物が、動くものに多大な興味を示すのは、彼らの脳が、進化の過程で、動くものを優先的に認識するよう、チューンナップされてきたからだ。

われわれホモ・サピエンスは、高度な集団生活と社会性の獲得によって、地球の王者になった。その進化の過程で、人の顔を見分ける能力が極度に発達している。遠くても、横を向いていても、その一部しか見えなくても、人の顔と認識するばかりか、知人を見分ける能力があり、さらには、その表情から感情を読み取ることができる。この能力は、極めて発達しているため、しばしば行きすぎるほどだ。たとえば、3つの●が逆三角形に並んでいる様や、自動車のフロントグリルを顔と認識することは、皆経験していることだし、天井の木目や、写真の背景に人の顔を見つけて「幽霊だ!」とおびえるのも、顔認識能力が高度にチューンナップされた脳がもたらす幻想だ。

 

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2014年1月 6日 (月)

天皇の年頭所感は格差・平和問題?

天皇は宮内庁を通じ、ご感想(新年に当たり)を公表された。

極めて政治的な存在でありながら、ナマの政治とは一線を画することを求められる天皇の年頭所感は、簡潔な文章の中に、世相を反映した様々な思いが込められている。これを紹介した主要各紙の見出しは、「荷を分かち持つ年に」(読売)「被災者を深く案じる」(朝日)、「被災者『深く案じられる』」(毎日新聞)「被災者、改めて深く案じられる」(日経)というものだった。

4紙のうち3紙までが、東日本大震災被災者への思いを見出しに掲げている。だが、平成24年、25年と、年頭所感は東日本大震災の被災者を見舞う文章からはじまっている。今年も、同様の文章からはじまっており、その意味で新味はない。ただ、山本太郎議員の「直訴」事件を受け、原発事故の被災者に対するお気持ちをどう述べるかについては、おそらく、宮内庁内で議論があっただろう。今年の該当部分は「放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れずにいる人々」というものであり、昨年の「放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々」と、ほぼ同文であるが、ほぼ同文であること自体が、山本太郎議員問題に対する皇室(宮内庁)の答えと見るべきだろう。

一方、3年連続でかわらない冒頭部分に対し、特徴的なのは、第一に、「国民皆が苦しい人々の荷を少しでも分かち持つ気持ちを失わず,助け合い,励まし合っていく」ことを求める部分である。なぜ特徴的かというと、平成2年以降25回にわたる所感中、「荷を分かち持つ」に類する表現が使われたのは初めてだからだ。この「苦しい人びと」は、文脈上、震災被災者に限定されず、様々な原因で労苦を背負った人びとを指す。所感は「苦しい人々の荷を少しでも分かち持つ気持ちを失わず」と述べるが、もちろん、その気持ちが失われはじめているとの危機感が背後にある。格差社会の問題点は格差そのものではなく、敗者を見捨てて顧みないことにあるというのは、一つの見識であろう。いずれにせよ、主要各紙の見出しの中では読売に軍配が上がることになる。

第二は、「平和」への言及である。具体的には、「国民皆が…世界の人々とも相携え,平和を求め,良き未来を築くために力を尽くしていくよう願っています。」との下りだ。過去25回の「年頭所感」中、平和という言葉を使用した回は12回と多いが、今回の言及は平成22年以来4年ぶりであり、しかも、国民に対して平和への取組を求めているのは、平成12年、13年、22年、26年の4回しかない。

ちなみに、平成21年は北朝鮮による核実験と「弾道ミサイル」発射実験があり、東アジアが緊張に包まれた年であった。その翌年の念頭に、北朝鮮にではなく日本国民に対して、平和希求の努力を求めた年頭所感には、それなりの意味が込められている。

今年の年頭所感における平和への言及箇所は、平成22年のそれとほぼ同文だ。すなわち、天皇が国民に対し、平和を求めるよう願ったことには、それなりの意味が込められていると思う。

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