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2014年2月 5日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(52)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(26)

帝人事件で政治家や大蔵官僚、政財界の有力者であった被告人全員に対して無罪を言い渡した裁判長裁判官の藤井五一郎判事は、その後、蒙古独立政府の司法次官に赴任した。この人事について、当時藤井の陪席判事を務めた石田和外もと最高裁判事は、藤井への弔辞(昭和4410月)において、左遷とする説を「大変な誤りでその様なことは絶対にない」とし、「熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍転進されたのである。まさに男児の本懐」と讃えた。

この弔辞をどう解釈するべきだろうか。

まず、蒙古独立政府司法次官への赴任を、藤井自身がどう受け止めていたかについて、藤井は、赴任前、石原完爾を訪ね、こう言われたと述懐している。

「蒙古人の面倒を見ることに専念せよ。現在の満州国を見るがいい。くだらない日本人の優越感をむきだしにして、日本の満州国建国精神と全く違う。あのザマはなんだ。あんなことを再び蒙古で繰り返しては絶対いけない[1]

藤井は石原の発言を引用した後、「河上(肇)さんにも石原さんにも同じような忠告をされて、僕は大いに考えることがあった。…私は、かの地にあった間、結局何ら新奇な策を弄せず、ひたすら現地の人びとの、日本および日本人に対する不平不満に耳を傾けることに務めました」と述べている。これは、「熱血にもえ、(憂国の情に基づく)勇躍転進、男児の本懐」という石田の弔辞とは、ずいぶんニュアンスが異なる。

また、マルクス主義者であった河上肇は、治安維持法違反で検挙され、藤井による有罪判決を受けた後、藤井と親交を結んだことでも知られているが、藤井によれば、河上は蒙古赴任が決まった藤井に対し、次のような手紙を送ったという。「検事側の圧迫で(帝人事件を無罪にしたため?)蒙古に去られるのは残念至極です」と書いてあったと述べている。つまりは自分の人事が左遷であったと河合が認識していた、としているのであり、それを誤解と否定する文言は一切ない。このことは、藤井自身、左遷されたと理解していたことを示している。

藤井自身は、『法窓風雲録(下)』72頁で野村正男のインタビューに答え、「私が蒙古に行くときは、帝人事件で無罪をやり、検事に排斥されたのだ、というウワサもあったようですが、そんなことは一つもありません。(藤井が帰国した後の)東京控訴院時代、大森洪太さんの次官時代ですが、栄転させる、札幌所長はどうだ、という話もありましたが、裁判所の人事も大事だが、裁判官は裁判をするのが本職ですからというのでお断りした。次には、山口の所長ではどうだ、という話もありましたが、これも同じ時理由でお断りした」と述べている。しかし、帰国後栄転の話があったことが事実であったとしても、それは、蒙古赴任が左遷でなかったことの証拠にはならない。藤井に対する人物評とも一致することだが、藤井五一郎は嘘の下手な人物であったとみえる。この発言はむしろ、当時(おそらく昭和3839年)、藤井が左遷されたことを否定すべき理由があったことを意味していると見るべきだろう。

このように、藤井自身の筆による文章とつき合わせてみると、帝人事件後の蒙古赴任は左遷人事であり、藤井自身、これを左遷と認識していたと見るべきであろう。したがって、この「左遷説」を藤井の葬儀の場で「大変な誤りでありその様なことは絶対にない」と否定した石田和外の認識は間違いであり、ある種の政治的な意図があってこのような発言をしたと考えられる。


[1] 『藤井五一郎の生涯』43

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