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2014年2月26日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(53)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(27)

平沼騏一郎を頂点とする思想検事によるでっち上げとされ、当時の政官財界を巻き込んだ大疑獄事件であった帝人事件において、被告人全員を無罪とした藤井五一郎裁判長は、その後、事実上の日本の植民地であった蒙古自治政府司法次官に「左遷」されたが、この事件で藤井の陪席を務めた石田和外もと最高裁判所長官は、藤井の葬儀の席で、「左遷説」は「大変な誤りであり、その様なことは絶対にない」と否定した。しかし、藤井が左遷されたことは、藤井自身の認識や他の史料に照らし、間違いないところと思われる。

では、その左遷説を否定した石田の意図はどこにあったのだろうか。

まず、帝人事件前後の、石田自身の経歴を振り返っておこう。

石田和外は、明治36520日に生まれ、大正1512月に23歳で司法科試験に合格し、翌年である昭和2年任官、昭和312月に福島地裁、昭和7年に長野地裁に赴任し、昭和8年に東京地裁に転勤している。帝人事件の公判開始は昭和106月、判決言い渡しは昭和121216日である。藤井が蒙古自治政府に転出したのが昭和149月であるが、石田が予審判事に異動したのは昭和13年末ころのようだ。この予審判事への異動が降格人事であったことは間違いないと思うが、石田自身は左遷とも降格とも認めていないことは前に述べた。

石田の『私の履歴書』(1972年)には、「藤井裁判長のもとで約三年半陪審判事を務めたのち、そのころ刑事裁判官の進路の一つだった予審掛を命ぜられ、約二年足らずで抜擢されて事実上の裁判長として公判へまわされ、やがて形のうえでも部長判事として正式に刑事第十部の裁判長となった。これは昭和1691日のことで、このとき私は39歳。今では思いもよらぬ若さであった」と述べている。

この経歴でまず注目すべきは、初任地が福島、次が長野という点だ。これは、司法試験の成績と、二回試験の成績が、良くなかったことを示している。例えば帝人事件を担当した予審判事の両角誠英が、初任から米沢、仙台、秋田と地方を回ったことに近い人事であり、両角が甲府地裁所長で終わったように、石田も、地裁所長クラスで定年を迎えることが「予定」されていた、と見て良い。

ところが、東京地裁に転勤した後、藤井五一郎によって、帝人事件という世紀の大事件の陪席に抜擢されたことが、その後の石田の人生を大きく変えることになった。

明治大学の和田英夫教授『最高裁判所論』は、「最高裁長官へのいわばエリート・コースを歩んだ代表的なもの」として、司法大臣官房人事課長(最高裁発足直前)→最高裁人事課長→最高裁人事局長→最高裁事務次長→東京地裁所長→最高裁事務総長→東京高裁長官→最高裁裁判官→最高裁判所長官と出世街道を驀進した石田和外を挙げる。

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