« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014年2月26日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(53)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(27)

平沼騏一郎を頂点とする思想検事によるでっち上げとされ、当時の政官財界を巻き込んだ大疑獄事件であった帝人事件において、被告人全員を無罪とした藤井五一郎裁判長は、その後、事実上の日本の植民地であった蒙古自治政府司法次官に「左遷」されたが、この事件で藤井の陪席を務めた石田和外もと最高裁判所長官は、藤井の葬儀の席で、「左遷説」は「大変な誤りであり、その様なことは絶対にない」と否定した。しかし、藤井が左遷されたことは、藤井自身の認識や他の史料に照らし、間違いないところと思われる。

では、その左遷説を否定した石田の意図はどこにあったのだろうか。

まず、帝人事件前後の、石田自身の経歴を振り返っておこう。

石田和外は、明治36520日に生まれ、大正1512月に23歳で司法科試験に合格し、翌年である昭和2年任官、昭和312月に福島地裁、昭和7年に長野地裁に赴任し、昭和8年に東京地裁に転勤している。帝人事件の公判開始は昭和106月、判決言い渡しは昭和121216日である。藤井が蒙古自治政府に転出したのが昭和149月であるが、石田が予審判事に異動したのは昭和13年末ころのようだ。この予審判事への異動が降格人事であったことは間違いないと思うが、石田自身は左遷とも降格とも認めていないことは前に述べた。

石田の『私の履歴書』(1972年)には、「藤井裁判長のもとで約三年半陪審判事を務めたのち、そのころ刑事裁判官の進路の一つだった予審掛を命ぜられ、約二年足らずで抜擢されて事実上の裁判長として公判へまわされ、やがて形のうえでも部長判事として正式に刑事第十部の裁判長となった。これは昭和1691日のことで、このとき私は39歳。今では思いもよらぬ若さであった」と述べている。

この経歴でまず注目すべきは、初任地が福島、次が長野という点だ。これは、司法試験の成績と、二回試験の成績が、良くなかったことを示している。例えば帝人事件を担当した予審判事の両角誠英が、初任から米沢、仙台、秋田と地方を回ったことに近い人事であり、両角が甲府地裁所長で終わったように、石田も、地裁所長クラスで定年を迎えることが「予定」されていた、と見て良い。

ところが、東京地裁に転勤した後、藤井五一郎によって、帝人事件という世紀の大事件の陪席に抜擢されたことが、その後の石田の人生を大きく変えることになった。

明治大学の和田英夫教授『最高裁判所論』は、「最高裁長官へのいわばエリート・コースを歩んだ代表的なもの」として、司法大臣官房人事課長(最高裁発足直前)→最高裁人事課長→最高裁人事局長→最高裁事務次長→東京地裁所長→最高裁事務総長→東京高裁長官→最高裁裁判官→最高裁判所長官と出世街道を驀進した石田和外を挙げる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月24日 (月)

ヒトゲノム情報や顔認証情報は個人情報保護法上の「個人情報」か

以前のエントリ顔認証技術の現在について5)で、「指紋の分析情報や虹彩認証情報、DNAのゲノム情報など…(は)…個人情報にはあたらない」と書いたところ、コメント等で、個人情報のあたるのではないか、との御指摘をいただいた。

このご指摘については、当方の言葉足らずの点もあり、誤解の部分もあると思うので、再確認しておきたい。

まず、個人情報保護法の定める個人情報の要件は、「生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)」とされている。これは一般に、個人識別性、容易照合性と言われている要件であり、要は、その情報から(あるいは他の情報と容易に照合することにより)特定の個人が識別できることが、必要なのである。

ところが、個人識別性の要件は、具体的な当てはめが難しい。たとえばメールアドレスについて、総務省は、「記号を羅列したもの(例えば『0123ABCD@soumu.go.jp』)のように、それだけでは特定の個人を識別できない場合には、個人情報には該当しません」と述べている。もちろん、メールアドレスを発行している会社は、特定の個人との対応表を持っているから、その会社からみれば、上記のようなアドレスも個人情報にあたる。しかし、対応表を持たない第三者から見れば、誰のアドレスか識別のしようが無いので、個人情報にあたらないということになる。このように、同じ情報が、保有者によって個人情報になったりならなかったりするわけである。

この総務省の見解は、特定個人の識別性を要件とする個人情報保護法の解釈としては、おそらく正しい。だが、この見解を敷衍すれば、電話番号も、単なる数字の羅列に過ぎず、それだけでは特定の個人を識別できないから、第三者にとっては個人情報ではない、ということになる。だが、メールアドレスについては異論がなくても、電話番号が個人情報ではない、という見解には、感覚的にヘンだ、と思うヒトも多いだろう。

それはさておき、たとえばヒトゲノム情報は、双子でない限り、世界に一つしかないとされている。しかし、それ自体は、無数の塩基の配列に過ぎない。塩基数等から、他の動物のものでなく、ヒトのゲノム情報だと分かったとしても、分かるのは、生者も死者も含む誰かの遺伝子情報だというだけで、人種と性別くらいは分かるかもしれないが、それだけで特定の個人を識別することは、すくなくとも現代では不可能である(映画『プラチナデータ』のように、ヒトゲノム情報だけから人相まで再現できる時代が来たら別だが)。記号を羅列したメールアドレスが個人情報でないなら、ヒトゲノム情報が個人情報にあたらないことは当然、ということになる。

同様に、顔認証情報も、1人あたり100個前後の特徴点を数値化したものにすぎず、それ自体からもとの画像を再現できるものではないから、やはり、個人情報にはあたらないと考える。

ただ私は、ヒトゲノム情報や顔認証情報は個人情報にあたらないから、法的保護に値しない、と述べているのではない。これらの生体認証情報は、個人情報にあたらない場合もあるが、それでも、法的に保護するべきだ、と考える。むしろ、生体認証情報は、個人情報保護法より強い保護が必要とされる場合もあろう(例えば、本人が同意しても、譲渡は無効とすべきである、というような)。個人情報と生体認証情報は、その性質が異なるから、法的保護の程度や内容も違ってくるのである。

何が個人情報にあたるのか、をめぐる混乱の原因は、わが国の法制度上の不備がある。すなわち、プライバシーデータやパーソナルデータと呼ばれる情報を保護する特別法が個人情報保護法しか存在しないので、何でもかんでも「個人情報」にしてしまえ、という傾向があるのだ。

だが私は、このような傾向を好まない。法律家である以上、文言解釈を超える運用はすべきでないと考えるし、何でもかんでも個人情報に含めようとする風潮は、結局、何をどう保護すべきかという議論を混乱させ、適正な情報流通とプライバシー権との調整を妨げることになると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月17日 (月)

自動運転自動車とVOLVOの選択について

自動車のロボット化は、二つの方向へ進んでいる。一つは、Google Carに代表される完全自律自動車であり、ドライバーは不要とするものだ。もう一つは、人間も運転することを前提に、ロボット技術でサポートするものであり、運転支援技術と呼ばれる。後者は日本でも各メーカーがしのぎを削っており、高速道路での自動運転は、ほぼ実用可能な段階に来ている。

だが問題は、事故が起きた場合だ。Google Carのような完全自律自動車の場合、人間が運転していない以上、搭乗者に責任がないことは明らかだが、運転支援技術者の場合、ドライバーと自動車(メーカー)との責任分配という、やっかいな問題が生じる。

たとえば、高速道路自動走行中に何らかの異常が起き、直ちに手動で対応すれば事故を避けられたにもかかわらず、ドライバーが寝ていたため事故になったという場合、法的には誰がどの程度責任を負うのだろうか。もちろん、携帯電話をかけていたり、タブレットPCをいじっていたりした場合も同様だ。

昨年11月7日のエントリで私は、ドライバーが常に100%の責任を負うのはおかしい、と書いた。これに対して二つのコメントがあり、一つは、「監視状態で眠くなったのであれば、その時点でそもそも手動に切り替えて運転するのが道具を扱う者の心得であり、それを怠った以上は、運転者が責任を全面的に負うのはむしろ当然だと思いますがね」というコメントであり、もう一つは、「そんな運転支援装置なら,ない方がいいですね」というものである。

どちらが正しいだろうか。

法論理的には、ドライバーに100%の責任を負わせる前者の考え方が原則論だろう。

だが、結論として前者は間違いだと思う。文体から推して弁護士が書いたと思われる(語尾が妙に辛辣だけど)が、後者の意見が正しいと考える。

考えてみてほしい。ドライバーが100%の責任を負うということは、高速道路で運転する必要はありません、でも寝てはいけないし、携帯電話で話しても、本を読んでも、タブレットPCを操作してもいけない。常に周囲を監視し、異常が起きたらただちに手動運転に切り替えなさい、ということだ。そんな状態で運転席に座らされて、何が楽しいのか。通常より高い代金を払って自動運転車を購入する意味がどこにあるのだろうか。

しかも、運転もせずに絶えず周囲を監視しなさい、と言われて、はいそうですかと実行できる人がどれだけいるだろう。自らハンドルを握っていてすら、高速道路運転は眠くなるのだ。ハンドルを握らなければ、多くの人が寝てしまうだろう。良し悪しの問題ではなく、それが人間の本質だ。

もちろん、自動航行中の旅客機のパイロットや、電車やバスの運転手が、自動運転中だからと言って寝ることが許されないのは当然のことだ。彼らは、乗客や勤務先を主人として仕えているのであり、報酬と引き替えに、万一に備え常に周囲を監視する法的義務を負うからだ。

これに対して、通常より高い代金を払って自家用の自動運転自動車を購入した人間に、自動運転中の監視を法的に義務づけ、事故の場合の責任を負わせることは、人間に対して、ロボットカーを主人とし、無償で仕える義務を負わせるに等しい。以前のエントリに、「(ドライバーに100%の責任を負わせる考え方は)人間を馬鹿にしている」と書いたのは、こういう意味である。

ちなみに、国交省は20131127日に「国内外における最近の自動運転の実現に向けた取組概要」という資料をまとめている。この資料は、なぜかGoogle Carを紹介していないけれど、国内外の著名な自動車メーカーを紹介しており、いずれも、ドライバーに最終的な責任があることを前提にしているとする。

たとえば、VOLVO車の自動運転システムについて、「運転の責任は常にドライバーにあり、ドライバーのコントロール下へ瞬時に戻すことが可能である」と述べている。

ところが、件のVOLVO122日、「ボルボの考える自動運転」をプレスリリースした。このサイトは、運転席で新聞を読んだり、IPADを操作したりするドライバーの写真を掲載して、こう述べている。「未来のドライバーは…安全に電話やタブレット端末を使用したり、純粋にリラックスすることも可能です」これは、ドライバーを運転や監視から解放し、その責任を問わない、というVOLVOの意思を端的に示している。

すなわちVOLVOは、ドライバーの責任に関する考え方を、最近になって180度転換したのだ。そしてそれは正義であり、経営戦略としても正しいと思う。なぜなら、運転席で新聞を読んでよい車と、何もできない車なら、前者が売れるに決まっているからだ。

国交省のオートパイロットシステムに関する検討会は、委員に法律家がおらず、上記のような法的課題は未検討のようである。また、事故の際の責任論は警察庁の管轄なので、国交省は手を出しあぐねている、という噂もある。だが、VOLVOの選択が正しい以上、世界の自動車メーカーは、間違いなく、VOLVOと同じ道を歩む。日本政府も早く手を打たないと、日本車はガラケーならぬガラカーと化すであろう。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2014年2月12日 (水)

日弁連会長選挙の開票結果について

2月7日に投開票が行われた日弁連会長選挙は、いわゆる主流派に属する村越進候補が、武内更一候補を大差で破って当選したが、全国の投票率は46.64%と、現行制度では史上最低を記録した。

元「法律新聞」編集長氏は、この投票率を、「会員が抱える現実の深刻さと裏腹の無力感、無気力感が広がった今回の選挙こそ、強制加入団体として、末期的ともいえる日弁連の現実である」と指摘している。

私は、編集長氏に正面から異議を唱えるわけでもないが、かといって、全面的に賛成するわけでもない。開票結果をさんざん分析してみたけれど、何か特定の傾向を見いだすことができなかった、というのが、今回の感想である。

たとえば、武内候補について、選挙初挑戦で知名度がないのに善戦した、という見方がある。そこで、武内候補の正統な先輩である高山俊吉弁護士が日弁連会長に初挑戦した平成12年(2000年)の日弁連会長選挙結果と比較してみる。この選挙で、高山候補は3459票を集めたが、7996票の久保井候補に敗れた。ほぼダブルスコアだが、トリプルスコアに近い武内候補よりマシだ。その意味で、武内候補は善戦したという評価は間違いである。

平成12年の日弁連会長選挙結果と平成26年度の日弁連会長選挙結果を比較した場合、最大の差は、会員数だ。平成12年当時の17135人に対し、平成26年は34693人だから、倍である。その意味するところは、会員の半数にあたる17000人が、登録14年目までの若手だということだ。

しかし、今回の選挙において、若手特有の投票行動は発見できなかった。例えば、もし若手の選挙離れが著しいなら、会員増加率の高い単位会ほど投票率低下は著しくなる筈だ。しかし、会員増加率343%で全国一位の島根県弁護士会の投票低下率16.07%に対し、会員増加率140.8%で最下位の沖縄弁護士会の投票低下率は14.82%で大差ないし、他の単位会にも、会員増加率との相関関係は見られない。

また、前回、前々回の会長選挙で見られた、地方対東京、という構図も現れなかった。

近年、法曹人口問題に関する決議を行う単位会がある。しかし、そのような単位会の投票率が高いとか、一方候補者の得票率が高いとか、という相関関係もみられない。

また、投票率が下がったといっても、単位会によって相当差がある。平成12年会長選挙と比較して、投票率低下5傑は愛知県(93.66%23.62%)、札幌(88.5738.11)、兵庫県(86.24%37.20%)、大阪(84.36%42.40%)、佐賀県(72.22%33.33%)だ。平成12年度は大阪出身の会長候補者だったから、大阪の低下は当然として、愛知県の下落ぶりはすごい。だが何故かは分からない。

一方、栃木、高知、岐阜、富山、新潟、京都、山梨、東京は、平成12年と平成26年の選挙とで、投票率の変化がほとんどない。特に東京弁護士会は、平成12年度投票率64.76%、平成26年度投票率64.38%であり、差異が最も少ない。この12年間に、東京弁護士会の会員数が3879人から7136人に増え、増えた人の大半が12年目までの若手であることを考えれば、投票率が維持されていることは驚異的ですらある。

一方、勝利した村越候補の出身母体である第一東京弁護士会の投票率は44.39%であり、平成12年度の68.20%を大きく下回っているばかりか、東京弁護士会の投票率64.38%にも、はるかに及ばない。第一東京弁護士会が前回日弁連会長候補を出したのは平成16年(2004年)の梶谷剛候補のときだが、このときの投票率は63.32%だった。

これらの事実は、村越候補の当選は、出身母体の第一東京弁護士会ではなく、東京弁護士会に負っていることを意味している(ちなみに第二東京弁護士会の投票率は29.27%で、お話にならない)。さらにいえば、東京弁護士会内の最大派閥である法友会(平成22年度会員数2398)が、集票マシンとしての実力を発揮したことを示している。

以上見てきたように、今回の日弁連会長選挙の開票結果は、子細に見れば注目点もあるが、全体としてみれば、史上最低の投票率という以外、何らかの傾向を読み取るべき材料を見いだすことができない。「特段新規な公約を打ち出さなかった主流派候補と、新左翼の対立候補では、勝敗は見えていた」ことが、史上最低の投票率の原因という、実も蓋もない分析結果で、お茶を濁すしかないようだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年2月 5日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(52)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(26)

帝人事件で政治家や大蔵官僚、政財界の有力者であった被告人全員に対して無罪を言い渡した裁判長裁判官の藤井五一郎判事は、その後、蒙古独立政府の司法次官に赴任した。この人事について、当時藤井の陪席判事を務めた石田和外もと最高裁判事は、藤井への弔辞(昭和4410月)において、左遷とする説を「大変な誤りでその様なことは絶対にない」とし、「熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍転進されたのである。まさに男児の本懐」と讃えた。

この弔辞をどう解釈するべきだろうか。

まず、蒙古独立政府司法次官への赴任を、藤井自身がどう受け止めていたかについて、藤井は、赴任前、石原完爾を訪ね、こう言われたと述懐している。

「蒙古人の面倒を見ることに専念せよ。現在の満州国を見るがいい。くだらない日本人の優越感をむきだしにして、日本の満州国建国精神と全く違う。あのザマはなんだ。あんなことを再び蒙古で繰り返しては絶対いけない[1]

藤井は石原の発言を引用した後、「河上(肇)さんにも石原さんにも同じような忠告をされて、僕は大いに考えることがあった。…私は、かの地にあった間、結局何ら新奇な策を弄せず、ひたすら現地の人びとの、日本および日本人に対する不平不満に耳を傾けることに務めました」と述べている。これは、「熱血にもえ、(憂国の情に基づく)勇躍転進、男児の本懐」という石田の弔辞とは、ずいぶんニュアンスが異なる。

また、マルクス主義者であった河上肇は、治安維持法違反で検挙され、藤井による有罪判決を受けた後、藤井と親交を結んだことでも知られているが、藤井によれば、河上は蒙古赴任が決まった藤井に対し、次のような手紙を送ったという。「検事側の圧迫で(帝人事件を無罪にしたため?)蒙古に去られるのは残念至極です」と書いてあったと述べている。つまりは自分の人事が左遷であったと河合が認識していた、としているのであり、それを誤解と否定する文言は一切ない。このことは、藤井自身、左遷されたと理解していたことを示している。

藤井自身は、『法窓風雲録(下)』72頁で野村正男のインタビューに答え、「私が蒙古に行くときは、帝人事件で無罪をやり、検事に排斥されたのだ、というウワサもあったようですが、そんなことは一つもありません。(藤井が帰国した後の)東京控訴院時代、大森洪太さんの次官時代ですが、栄転させる、札幌所長はどうだ、という話もありましたが、裁判所の人事も大事だが、裁判官は裁判をするのが本職ですからというのでお断りした。次には、山口の所長ではどうだ、という話もありましたが、これも同じ時理由でお断りした」と述べている。しかし、帰国後栄転の話があったことが事実であったとしても、それは、蒙古赴任が左遷でなかったことの証拠にはならない。藤井に対する人物評とも一致することだが、藤井五一郎は嘘の下手な人物であったとみえる。この発言はむしろ、当時(おそらく昭和3839年)、藤井が左遷されたことを否定すべき理由があったことを意味していると見るべきだろう。

このように、藤井自身の筆による文章とつき合わせてみると、帝人事件後の蒙古赴任は左遷人事であり、藤井自身、これを左遷と認識していたと見るべきであろう。したがって、この「左遷説」を藤井の葬儀の場で「大変な誤りでありその様なことは絶対にない」と否定した石田和外の認識は間違いであり、ある種の政治的な意図があってこのような発言をしたと考えられる。


[1] 『藤井五一郎の生涯』43

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月 3日 (月)

高木浩光氏によるご批判について

122日のブログ顔認証技術の現在について(5)において、本年4月から大阪駅で実施される顔認証技術の実証実験に関し、「第三者に対する生体認証情報の譲渡は禁止されるべきだ」と書いたところ、高木浩光氏より、「無断顔識別が問題なのに、顔認証情報(生体情報)の提供が問題なのだと、問題を矮小化した主張」とのツイートをいただいた。

著名な高木氏からお言葉をいただいただけでも、光栄なことだし、可能であれば、批判におこたえしたいところだ。とはいえ、ツイートの字数制限のためか、批判の趣旨がちょっと分かりにくい。

まず、高木氏は防犯カメラないし監視カメラについて、どのようなご見解をお持ちなのだろうか。調べてみると、朝日新聞記者との公開ツイッターインタビューネット社会のプライバシーと利便性において、このようにツイートしている。

「防犯カメラが違法ではないのは、防犯目的であることが『取得の状況からみて明らか』なためとされています(消費者庁個人情報保護法に関するよくある疑問と回答Q3-4)。事実を表示せずに防犯目的以外で利用すると違法です。」

だが、この記載には間違いがいくつもある。

第一に、違法適法の判断根拠として、消費者庁のQ&Aを引用した点が間違い。適法違法の判断根拠は、第一に法令であり、第二に裁判例である。行政官庁の作成したQ&Aは、法的には参考意見程度のものでしかない。

第二に、このQ&Aは、個人情報保護法上の適法違法についてコメントしているだけであり、他の法律で違法になるか否かについては全く言及していない。だから、高木氏が「防犯カメラが違法ではないのは」と書き、「個人情報保護法上違法ではないのは」と書かなかったのも間違い。いいかえるなら、高木氏が「防犯カメラが違法ではないのは」と書き、防犯カメラが原則的に違法でないことを前提としたことそれ自体が問題である。

第三に、高木氏のツイートは、目的を表示しない防犯カメラが個人情報保護法上、一般的に適法であるとの誤解を招きかねない。このQ&Aは、防犯目的で監視カメラを設置する場合、原則として「目的の公表」(法181項)を要するが、例外として、画像「取得の状況から見て利用目的が明らかであると認められる場合」には防犯目的の公表は不要(法1844号)と書いている。つまり原則として防犯目的の公表が必要だが、公表がなくても個人情報保護法上違法とならない場合がある、と言っているだけだ。

第四に、上記と多少かぶるけれど、法律的な見地から見ると、防犯カメラの最大の問題点は、防犯目的であることを公表するか、その状況上防犯目的が明らかであったとしても、なお違法とすべき場合があるのではないか?という点であるのに、高木氏にはその問題意識がない。法令や裁判例にあたらず、消費者庁のQ&Aを適法違法判断の出発点にしてしまってことから生じた問題意識の欠落だが、プライバシーを論じる上では、かなり致命的だと思う。

第五に、「事実を表示せずに防犯目的以外で(カメラを)利用すると違法です」の部分も間違いである。災害監視用のカメラなど、防犯カメラでなくても、「取得の状況から見て利用目的が明らかであると認められる場合」はあるからだ。これも、「防犯カメラ」と「個人情報保護法」に限定した消費者庁のQ&Aを、不用意に拡大適用した結果と思われる。

さて、監視カメラとプライバシー問題に関する高木氏の理解を一通り押さえた上で、「無断顔識別が問題なのに、顔認証情報(生体情報)の提供が問題なのだと、問題を矮小化した」というツイートの趣旨を考えてみる。

このツイートによると、高木氏が問題の本質と理解しているのは、「無断顔識別」である。「無断顔識別」は「無断」と「顔識別」の二つに分けられるから、「無断」が問題なのか「顔識別」が問題なのか、はたまた両方が問題なのかは不明だが、上記の高木氏の理解に照らせば、「無断」であることを問題視している可能性が高い。だが、実際には、大阪駅での実験目的は公表されているし、カメラ設置場所においても、公示される予定と聞いている。したがって、「無断」が問題だというなら、明らかに筋違いの批判ということになる。しかも、問題の本質は無断かどうか、目的を公示しているか否かではない、と私は考える。

では、「顔識別」の問題だろうか。「顔識別」とは、Aカメラに写った人物とBカメラに写った人物(あるいは、別の日時にAカメラに写った各人物)が同一人物であるか否かを、顔認証技術を使って識別することを指すと思われる。多くの人は意外に思われるだろうが、現代の水準では、この「顔識別」技術はようやく端緒についたばかりだ。これが実用化されれば、複数の防犯カメラ間での犯人の足取りなどを容易に把握できることになり、捜査の省力化・迅速化に大きく貢献することになるばかりか、商業利用を含めた社会貢献の度合いは大きい。つまり顔識別技術の公益性は高いのであり、一概に違法な目的ということはできないから、高木氏はおそらく、「顔識別」そのものが問題だ、という趣旨ではないと思われる。

そうだとすると、結局、高木氏は私の見解のどこを批判しておられるのか分からない、という結論になってしまう。私自身、自分の見解が100%正しいとまで言うつもりはなく、いくつかの本質的な批判は想定しているし、その中には、「問題の矮小化」という批判もある。だが、高木氏が何を問題とされているかがはっきりしないと、この批判にはお応えのしようがない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »