« 日弁連会長選挙の開票結果について | トップページ | ヒトゲノム情報や顔認証情報は個人情報保護法上の「個人情報」か »

2014年2月17日 (月)

自動運転自動車とVOLVOの選択について

自動車のロボット化は、二つの方向へ進んでいる。一つは、Google Carに代表される完全自律自動車であり、ドライバーは不要とするものだ。もう一つは、人間も運転することを前提に、ロボット技術でサポートするものであり、運転支援技術と呼ばれる。後者は日本でも各メーカーがしのぎを削っており、高速道路での自動運転は、ほぼ実用可能な段階に来ている。

だが問題は、事故が起きた場合だ。Google Carのような完全自律自動車の場合、人間が運転していない以上、搭乗者に責任がないことは明らかだが、運転支援技術者の場合、ドライバーと自動車(メーカー)との責任分配という、やっかいな問題が生じる。

たとえば、高速道路自動走行中に何らかの異常が起き、直ちに手動で対応すれば事故を避けられたにもかかわらず、ドライバーが寝ていたため事故になったという場合、法的には誰がどの程度責任を負うのだろうか。もちろん、携帯電話をかけていたり、タブレットPCをいじっていたりした場合も同様だ。

昨年11月7日のエントリで私は、ドライバーが常に100%の責任を負うのはおかしい、と書いた。これに対して二つのコメントがあり、一つは、「監視状態で眠くなったのであれば、その時点でそもそも手動に切り替えて運転するのが道具を扱う者の心得であり、それを怠った以上は、運転者が責任を全面的に負うのはむしろ当然だと思いますがね」というコメントであり、もう一つは、「そんな運転支援装置なら,ない方がいいですね」というものである。

どちらが正しいだろうか。

法論理的には、ドライバーに100%の責任を負わせる前者の考え方が原則論だろう。

だが、結論として前者は間違いだと思う。文体から推して弁護士が書いたと思われる(語尾が妙に辛辣だけど)が、後者の意見が正しいと考える。

考えてみてほしい。ドライバーが100%の責任を負うということは、高速道路で運転する必要はありません、でも寝てはいけないし、携帯電話で話しても、本を読んでも、タブレットPCを操作してもいけない。常に周囲を監視し、異常が起きたらただちに手動運転に切り替えなさい、ということだ。そんな状態で運転席に座らされて、何が楽しいのか。通常より高い代金を払って自動運転車を購入する意味がどこにあるのだろうか。

しかも、運転もせずに絶えず周囲を監視しなさい、と言われて、はいそうですかと実行できる人がどれだけいるだろう。自らハンドルを握っていてすら、高速道路運転は眠くなるのだ。ハンドルを握らなければ、多くの人が寝てしまうだろう。良し悪しの問題ではなく、それが人間の本質だ。

もちろん、自動航行中の旅客機のパイロットや、電車やバスの運転手が、自動運転中だからと言って寝ることが許されないのは当然のことだ。彼らは、乗客や勤務先を主人として仕えているのであり、報酬と引き替えに、万一に備え常に周囲を監視する法的義務を負うからだ。

これに対して、通常より高い代金を払って自家用の自動運転自動車を購入した人間に、自動運転中の監視を法的に義務づけ、事故の場合の責任を負わせることは、人間に対して、ロボットカーを主人とし、無償で仕える義務を負わせるに等しい。以前のエントリに、「(ドライバーに100%の責任を負わせる考え方は)人間を馬鹿にしている」と書いたのは、こういう意味である。

ちなみに、国交省は20131127日に「国内外における最近の自動運転の実現に向けた取組概要」という資料をまとめている。この資料は、なぜかGoogle Carを紹介していないけれど、国内外の著名な自動車メーカーを紹介しており、いずれも、ドライバーに最終的な責任があることを前提にしているとする。

たとえば、VOLVO車の自動運転システムについて、「運転の責任は常にドライバーにあり、ドライバーのコントロール下へ瞬時に戻すことが可能である」と述べている。

ところが、件のVOLVO122日、「ボルボの考える自動運転」をプレスリリースした。このサイトは、運転席で新聞を読んだり、IPADを操作したりするドライバーの写真を掲載して、こう述べている。「未来のドライバーは…安全に電話やタブレット端末を使用したり、純粋にリラックスすることも可能です」これは、ドライバーを運転や監視から解放し、その責任を問わない、というVOLVOの意思を端的に示している。

すなわちVOLVOは、ドライバーの責任に関する考え方を、最近になって180度転換したのだ。そしてそれは正義であり、経営戦略としても正しいと思う。なぜなら、運転席で新聞を読んでよい車と、何もできない車なら、前者が売れるに決まっているからだ。

国交省のオートパイロットシステムに関する検討会は、委員に法律家がおらず、上記のような法的課題は未検討のようである。また、事故の際の責任論は警察庁の管轄なので、国交省は手を出しあぐねている、という噂もある。だが、VOLVOの選択が正しい以上、世界の自動車メーカーは、間違いなく、VOLVOと同じ道を歩む。日本政府も早く手を打たないと、日本車はガラケーならぬガラカーと化すであろう。

|

« 日弁連会長選挙の開票結果について | トップページ | ヒトゲノム情報や顔認証情報は個人情報保護法上の「個人情報」か »

コメント

語尾が妙に辛辣だった元弁護士です。

今回もPL法上の「欠陥」がないことを前提に意見を述べさせていただきます。

> 常に周囲を監視し、異常が起きたらただちに手動運転に切り替えなさい、ということだ。そんな状態で運転席に座らされて、何が楽しいのか。通常より高い代金を払って自動運転車を購入する意味がどこにあるのだろうか。

自動車の運転は他人の生命身体の安全にも配慮することが求められる社会的行為であって、運転者の都合である「楽しい」云々を問題にすること自体が無責任と思います。

また「通常より高い代金」についても、これは、運転を楽しくすることに対する対価ではなく、居眠り運転や前方不注視による事故を減らしてくれる機能への対価と捉えれば、通常より高い代金を支払うことを責任の自己負担分の軽減がなくても、不当とは思いません。

他のコメントで「そんな運転支援装置なら,ない方がいいですね」というものがあったそうですが、100%といかなくても、自分の過失による事故が当該装置により相当程度減少するのであれば、通常よりも高い代金を払ってでもあった方が良いに決まっています。自分や同乗者、他者の生命身体の安全の方が大切です。

この問題の本質は、安定性は高いけど突然止まったり想定外の事態に柔軟な対応ができない機械と、不注意は犯すけど想定外の事態において柔軟な対応をすることができる人間の役割分担です。

そもそも機械の開発というのは、不測の事態についてはどこかで割り切らざるを得ないところが出てくるものです。割り切った点については、それを操作する人間の柔軟な判断力に任せるのです。

前回のエントリーを読んだときも感じたのですが、機械に対する期待がいささか過剰ではないでしょうか。飛行機のオーパイについても、通常の着陸はオーパイ任せの方が安全でしょうが、ハドソン川への緊急着陸は人間でなければできなかったと思います。機械を扱う者は、機械が対応できない不測の事態には、人間のもつ柔軟性で対処する心構えを常に持つべきである、そういう社会の方が健全だと思いますが、いかがでしょうか。

ところでPL法の「欠陥」がないとされるとき、メーカーにも損害賠償義務の一部を負わせる法律構成については、何かお考えがあるのでしょうか。

投稿: | 2014年2月17日 (月) 17時05分

「中華航空140便墜落事故」を思い出しました。
私も自動運転機械と考えるよりは、人間による運転の補助機械と
考えるべきだとおもいますが、そうすると今度は機械と人間とで
優先権の奪い合いを始めるっつーか。

投稿: | 2014年2月26日 (水) 21時06分

自動車保険はどうなるのでしょうか?
今でさえ、自損事故に対して過敏反応して、山のような書類書かせて。挙句の果ては、債務不存在なんていう訴訟起こしてくる保険屋も居る。詐欺師はいつたいどっちだ。

投稿: はるな | 2014年3月15日 (土) 16時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/59146086

この記事へのトラックバック一覧です: 自動運転自動車とVOLVOの選択について:

« 日弁連会長選挙の開票結果について | トップページ | ヒトゲノム情報や顔認証情報は個人情報保護法上の「個人情報」か »