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2014年4月 3日 (木)

内藤頼博の理想と挫折(55)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(29)

やや本題を外れるが、石田和外の戦後の経歴を概観しておこう。

石田和外は、敗戦後その職にとどまり[1]、昭和2236日、木村篤太郎司法大臣のもと、司法省人事課長に就任した。最高裁判所発足に伴い、昭和2212月、最高裁判所事務局人事課長に就任する。内藤頼博は、石田を人事課長に推薦したのは自分だと述懐している[2][3]。その後もとんとん拍子に出世するが、最高裁判所長官への道を決定づけたのは裁判官俸給問題である。

『石田和外追想集』の資料編には、「石田さんの司法行政上の仕事の最大なものとして」、冒頭に「裁判官報酬問題」が掲げられている。

それによれば、「裁判官の報酬と検察官の俸給とをどのように定めるかについては、最高裁判所の草創頃から裁判所側と検察庁を含む司法省側との間に、極めて厳しい対立があった。…一触即発の関係にあったといってもよかろう」とされ、戦後の第1回国会以来、裁判官の報酬体系と検察官のそれとを同列にしようとする検察・法務省と、裁判官を優位におこうとする裁判所側との間で、熾烈な闘争が続けられてきた。

昭和3424日の第31回国会において、裁判官の報酬等及び検察官の俸給等に関する一部改正案が、法務省から提出された際、形の上では判事の俸給体系が検察官のそれより上位に設定されたものの、最高裁事務総局と法務事務次官、大蔵省事務次官の3者間において、判事の最高俸給を得るには検事の定年を超えなければならないとの「密約」が交わされ、事実上、判事の俸給体系が検察官と同列におかれることになった。

石田和外は当時東京地方裁判所所長であったが、東京地方裁判所裁判官と協議の上、昭和34217日付「裁判官報酬法の改正についての要望書」を作成し、最高裁判所を経由することなく、直接に衆参両院の法務委員会に提出し、改正案についての強い反対意見を表明するに至った。

要望書の内容は、上記資料によれば、「憲法と裁判所法の上記を引用説明し、法の支配の精神にまで及び、判事の報酬制度のあるべき姿を明確にしたもの」であって、「今回の改正案は、第二国会以来認められてきた裁判官に対する特別な配慮、特に裁判官の待遇と検察官の待遇との間に明確な一線を劃してきた伝統を一挙に破壊し、両者の待遇を全く同列のものとしようとする意図に強く動かされているように思われる。これがなにびとの意図であるかは暫くおき、国会で慎重に審議された上確立された伝統を憲法の精神を無視して破壊するのは大問題である」としている[4]

結局、改正法案は原案のとおり可決されたが、衆参両院の附帯決議により、三者協定は国会において破棄されることになった。これにより、検察官の間に俸給上の明確な優位性を保つ裁判官の面目が保たれたのである。

石田和外は翌昭和355月、最高裁判所事務総長、37年東京高裁長官を経て、昭和386月、最高裁判事に就任した。

昭和44年に最高裁判所長官に就任。昭和485月に定年退官し、戦後日本を代表する最高裁判所長官の一人として、記憶にとどめられることとなった。


[1] 『石田和外追想集』72

[2] 『石田和外追想集』296

[3] なお、おそらく後述するが、内藤頼博は『石田和外追想集』297頁において「昭和47年秋、当時名古屋高裁長官であった私は、石田最高裁長官に呼ばれた。私ただ一人のために設けられた席であった。その席で石田さんは、『岩田裁判官の後任に君を推そうと思う。』といわれた。最高裁長官が高裁長官を最高裁判事に推す場合に、ふつう(濁点あり)こういう手順をふまれるのかどうか、私は知らない。このときの話は、結局実現しなかったのだが、私には、この問題について石田さんが私に寄せる並々ならぬ細やかな心遣いが、しみじみと感じられた。その陰には、石田さんの一方ならぬ苦慮があったことであろう。私は、そのあとで石田さんに、『不徳の後輩がいつまでも先輩にご迷惑をかけて相すいません』といった。石田さんは『いやァ…』といって、例の目をパチパチさせておられた。」と述べている。このやりとりが本当かどうかを確認する手段はもはや存在しないが、少なくとも明らかなことは、この当時、内藤を最高裁判事にすることに反対する勢力が裁判所内部にあったことである。

[4] 矢口洪一は『最高裁判所とともに』の185頁で、「刑事の裁判官はどちらかというと、給与問題にしても、検事との格差の主張に熱心だった」と述べている。これは、石田和外を念頭に置いた発言と思われる。やや冷笑的とも思われるこの発言の真意については、追って検討する必要があろう。

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コメント

冤罪を生み出す裁判官、検察官に対し国ではなく個人賠償を科したほうが有益。同じ法曹資格を持つ弁護士は、すべて自己責任なのだから。
世に残る判例も、弁護士の縁の下の力があってのもの、なにも判決を出した裁判官がすぐれているのではない。

投稿: はるな | 2014年4月 3日 (木) 10時17分

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