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2014年4月 7日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(56)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(30)

昭和12年(1937年)1216日、平沼騏一郎の陰謀といわれる帝人事件で被告人全員無罪の判決を出した裁判長、藤井五一郎は、昭和12年(1939年)926日に蒙古連合自治政府司法部次長に赴任したが、これは事実上の左遷であった。昭和17年(1942年)320日、東京控訴院部長判事に帰任した後、昭和20年(1945年)1012日大審院判事に任じられ、翌日退職している。昭和21年(1946年)には弁護士として東京裁判被告の星野直樹の弁護を担任するなどした後、昭和27年(1952年)、公安調査庁初代長官に就任、昭和37年(1962年)223日に公安調査庁長官を退職し、昭和44年(1969年)1029日急逝した。葬儀は115日、青山葬儀所にて執行された。

昭和441029日当時、石田和外は最高裁判所長官に就任した最初の年を迎えていた。同年4月、自民党の「裁判制度に関する調査特別委員会」が設置され、公務員の労働基本権に対する裁判所の立場が厳しく問われようとしていた。9月、長沼ナイキ事件に関する平賀書簡問題が起き、1015日、『悪徳の栄え』事件に関する最高裁判所大法廷判決、1224日には、安保反対でもを取り締まる警察の写真撮影行為の合法性が問われた「京都府学連デモ事件」の大法廷判決が為されている。

昭和44年は、日本にとって激動の時代であり、最高裁においても内外の不安要素を抱えた、激動の時代であった。戦前蒙古自治政府に派遣された藤井のことを、「藤井裁判長は行政部に疎んぜられて蒙古へ左遷されたのだという説は、大変な誤りでその様なことは絶対にないことを、当時の事情を熟知している私が茲に断言しておく。熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍挺身されたのである。まさに男児の本懐であろう」と弔辞に述べた石田和外最高裁判事の発言は、昭和4411月時点における国情と、石田和外の置かれた立場抜きにしては、理解できないだろう。

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