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2014年4月14日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(57)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(31)

帝人事件より後のことだが、藤井五一郎の生涯を語る上で欠かせないのは、退官後の昭和27年(1952年)、公安調査庁初代長官に就任したことだ。

この年発足した公安調査庁は、戦後復活した情報機関の一つであり、破壊活動防止法や団体規制法の規制対象に該当する団体であるかどうかの調査を行う。

破壊活動防止法は、当時所感派の主導を受けて武装闘争路線を採り、「山村工作隊」・「中核自衛隊」などの武装組織建設を進めていた日本共産党に対する規制を念頭に制定された。そのため、同党は、現在でも破壊活動防止法の調査指定団体だそうである。

同庁の設置には、戦後、公職追放されていた陸軍中野学校、特別高等警察、旧日本軍特務機関の出身者が参画したとされている。

公安調査庁の設立は、戦後日本が世界の冷戦体制に組み込まれていく中、いわゆる「逆コース」の象徴的事件であり、その初代長官に誰が就任するかは、世間の耳目を集めていた。藤井の就任は、時の吉田内閣で法務大臣を務めていた木村篤太郎の依頼によるという。当然、国内左派から総攻撃されて然るべき立場であるにもかかわらず、藤井長官就任を悪く言う記事には接しなかった。

たとえば、戦前から戦後にかけ、反体制派を貫いた正木ひろし弁護士でさえ、「破防法の制定が極端に不評だったのに対して、その運用の総元締である公安調査庁長官藤井五一郎は極めて好評である。…破防法大反対の弁護士までが、口を揃えて彼の人格を認め、特に共産党弁護で名高い布施辰治までがニコニコと首を振りながら、藤井の毅然たる裁判長ぶりを褒めちぎったのには驚いた。」と記している[1]

陸軍出身者によって設立されたと言われる公安調査庁長官に藤井が就任したのは、長州出身という理由もあるだろうが、最も大きいのは、右派にも左派にも好かれる人格にあったことは、間違いないと思われる。戦前の著名なマルクス主義者であった河上肇は、藤井の裁判を受けて服役したが、獄中、時折訪ねてくる藤井と親密に交際したことは、その遺稿で世人の知るところとなっていた。

その藤井だが、内藤頼博との関係を示す資料は何一つない。そして、何一つないということが、藤井と内藤との関係を物語っていると思われる。藤井の追悼文集である『藤井五一郎の生涯』賛助者名簿には、最高裁初代事務総長であり、内藤とも親交のあった本間喜一が名を連ねているが、内藤が名前を出さないのは、理由があるからだろう。

その理由と推測されるものとして、藤井が正木ひろし弁護士に語った次の言葉がある。それは、昭和2010月に判事を退官した理由を問われ、「占領下の司法官には外国の圧力が加わる危険を感じましたので」と答えている点だ。

このとき内藤は裁判所に残り、GHQと手を携えて裁判所改革に乗り出す。一方、藤井五一郎と、彼を帝人事件の裁判長に据えた三宅正太郎とは、裁判所を去った。しかし、藤井や三宅に理想の司法を見る裁判官は多数残っており、内藤らの理想と厳しく対立することになる。


[1] 正木ひろし「毅然たる探題―藤井五一郎―」

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コメント

正木ひろしが、どうも五木ひろしと読めてしまう。かなしい

投稿: はるな | 2014年4月14日 (月) 14時19分

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