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2014年4月21日 (月)

ターミネーターと鉄腕アトムと顔認証について

近未来。核戦争後の世界を支配するコンピューターのスカイネットは、反乱軍のリーダーであるジョン・コナーを歴史から抹殺するため、1984年のロサンゼルスにターミネーターを送り込み、母親を殺害しようとする。だが、ターミネーターが持つ情報は、サラ・コナーという名前と、住んでいた街のみ。そこでターミネーターは、その街に住むサラ・コナーを片っ端から殺害していく…。

この話の眼目は何か。それは、このターミネーターは顔認証ができなかった、ということである(そうか?)

ターミネーターがもともと顔認証機能を有していなかったのか、それとも、未来世界にはサラ・コナーの写真が全く残っていなかったのか(映画では、たった一枚しか写真が残っておらず、それはジョン・コナー自身が持っていたとされている)分からないが、いずれにしても、顔認証ができなかったため、ターミネーターは、同姓同名の人間を片っ端から殺害するという、不細工な方法しか採れなかったし、そのため本命のサラ・コナーは、同姓同名の人間が次々殺されるというニュースを見て、先手を打って逃亡を試みることができた。また、偶然にも最初に、本命のサラ・コナーが殺害されたとしても、ターミネーターは他のサラ・コナーを殺害し続けただろう。ターミネーターが顔認証できなかったため、他のサラ・コナーは、大変な迷惑を被ったわけである。

顔認証システムが成熟してきたためか、最近急に、話題に上ることが多くなった。だが、大阪駅構内での実証事件が延期に追い込まれるなど、顔認証システムにとっては、逆風ともいえる環境となりつつある。顔認証技術と聞くだけで、プライバシーを侵害する危険な技術、という固定観念ができつつあるように思う。

だが、顔認証技術は、人の行動監視にのみ用いられるわけではない。なにより、コミュニケーションロボットといわれる、次世代ロボットの一つのカテゴリに必要不可欠な技術である。人間との会話を通じて、介護や生活支援を行う次世代ロボットは、カメラで相手を認識し、その人の情報を参照しながら、必要な活動を行っていくからだ。

鉄腕アトムもドラえもんも、顔認証機能がなければ存在しえない。もちろんプライバシーとの調整は必要だが、顔認証と聞くだけでアレルギーを起こす最近の風潮も、問題だと思う。言い古された言葉だが、問題は技術ではない。技術を鉄腕アトムに実装するのか、ターミネーターに実装するかは、人間の選択の問題なのだ。スカイネットに支配されない限りは。

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2014年4月18日 (金)

永遠に0

司法試験に失敗して人生の目標を失いかけていた健次郎は、実の父親である宮部久造が、旧司法試験や医師国家試験など、あらゆる資格試験に合格して「資格の撃墜王」と呼ばれていたことを知り、興味を持つ。旧友を訪ね歩いて知った父の人生は、壮絶なものだった。

「資格の撃墜王」と呼ばれ、弁護士として成功していた久造は、ある法科大学院から教授就任を要請される。設立以来、一人の司法試験最終合格者すら出せず、存亡の危機に立たされていた法科大学院は、起死回生のため、破格の待遇で久造を迎えたのだ。期待に応えようと久造は、学生相手に、あらゆる知識と技能を伝授するが、不利な戦況を挽回できず、最終合格者を出すことはできなかった。

ある旧友は、このころ、久造の独白を聞いたという。

「私は、法科大学院制度の設計者の気持ちが理解できない。なるほど、制度の理念は立派だ。優れた教育をほどこせば、優れた人材が育つのは道理だろう。だが、司法試験は教育だけでは合格できない。なによりも才能だ。努力は誰にでもできるが、才能の有無は、自分自身にすら分からないのだ。合格できると信じて、無駄な努力を重ねる若者の人生を、制度設計者は考えたことがあるのだろうか」

久造の奮闘も虚しく、その法科大学院は廃校が決まった。その日、佐藤幸司院長は、久造を呼び出し、卒業証書を渡すとともに、司法試験の受験を命じた。

「自分は一度司法試験に合格しております。なぜ、再び受験する必要があるのか、理解できません」と抗議する久造に対して、佐藤院長はこう言い放ったという。「君に愛校心はないのか。君が受験して合格しなければ、当校出身の司法試験合格者は永遠にゼロになってしまう。」

命令は絶対である。しかし再受験に意味を見いだせず、悶々とした日々を送った久造は、受験会場で突然立ち上がり、爆弾を抱えて窓から飛び降りた。爆弾は不発で、久造は爆弾と地面に挟まれて即死した。

父の無念を知った健次郎は、その死を無駄にしてはならじと、来年の受験に向け、闘志をたぎらせたのであった。

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2014年4月16日 (水)

司法試験合格者数に関する自民党と公明党の提言について

平成2649日、自民党政務調査会司法制度調査会・法曹養成制度小委員会合同会議と公明法曹養成に関するプロジェクトチームは軌を一にして、司法試験合格者数等に関する提言を公表した。どちらも、司法試験合格者数を年1500人程度に減少させることを提案している。

自民党は、司法試験合格者数急増がもたらしたさまざまな問題、特に司法界への人材離れに対する危機感を背景に、異論を併記しつつも、「平成28年までに1500人程度を目指す」としている。

一方公明党は、①法科大学院の統廃合と連携、②予備試験受験資格制限、③法曹養成課程の経済的支援の充実等と並列して、④司法試験合格者数を「まずは1800人程度とし、その後…1500人程度を想定する必要もあるのではないか」と述べている。

一本調子の自民党提言に比べ、やや腰の引けた感のある公明党提言だが、それでも、よくぞここまで踏み込んだ、という評価もありえよう。

だが、公明党が1500人に言及したのには、背景と条件がある。

まず背景としては、創価大学法科大学院出身合格者の躍進がある。平成22年から25年までの4年間、同院出身合格者数、対出願者合格率とその順位、同順位までの累積合格者数は次のとおりだ。

22年度 18人 14.88% 26位 1633
23
年度 12人 8.96% 38位 1879
24
年度 12人 9.60% 41位 1881
25
年度 22人 19.30% 17位 1440

つまり、平成25年度の合格者数を前提にする限り、司法試験合格者数を1500人にしても、創価大学法科大学院は生き残るし、それなりの合格者を出せるのだ。

もちろん、今年度以降の合格者が再び低迷する可能性も否定できない。だが、低迷しても合格者数1800人程度の範囲なら何とかなりそうである。これが、公明党提言が「まずは1800人程度とし、その後…1500人程度を想定する」と述べた背景である。

次に条件は予備試験受験資格の制限だ。すなわち、平成24年度、25年度で最も合格率が高かったのは予備試験組であり、その数は平成24年で58人、平成25年で120人いる。いいかえれば、予備試験がなければ、平成25年度の創価大学法科大学院の順位までの累積合格者数は1320人だったことになる。これなら合格者数を1500人に減らしても余裕だ。

つまるところ、「1800人から1500人を視野におく」とする公明党提言は、創価大学法科大学院出身合格者を含む累積合格者数が1800人ないし1500人以内に収まることが条件であり、この条件を満たすためには、予備試験合格者数をそれなりに減らすことが条件となっている。

これを日弁連側から見れば、司法試験合格者数年1500人を実現するためには、与党である自民・公明に共同歩調をとらせる必要があり、そのためには、予備試験受験資格を制限する必要がある、ということになる。

法曹人口問題に関心のある弁護士のブログには、「1500人でもまだ減らしたりない」とか、「自民・公明党の提言は評価するが、予備試験受験資格の制限には賛成できない」とか言っているものもあるようだが、木を見て森を見ないというか、それぞれの論点の関連性を一顧だにしないというか、近視眼的で、書生論の域を出ていない。

いずれにせよ、1500人の実現は、予備試験受験資格の制限と、創価大学法科大学院出身受験生の頑張り次第ということになる。だが、唯一の勝ち組ルートと言って過言でない予備試験受験資格を制限することは、法曹の魅力をさらに失わせ、人材離れを加速するリスクが高い。

いいかえるなら、1500人の実現は、法曹養成制度の崩壊にとどめを刺しかねない、危険な賭だということになる。

それから、公明党提言には注目すべき点がもう一つある。それは、給費制の「き」の字すらなくなった、ということだ。

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2014年4月14日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(57)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(31)

帝人事件より後のことだが、藤井五一郎の生涯を語る上で欠かせないのは、退官後の昭和27年(1952年)、公安調査庁初代長官に就任したことだ。

この年発足した公安調査庁は、戦後復活した情報機関の一つであり、破壊活動防止法や団体規制法の規制対象に該当する団体であるかどうかの調査を行う。

破壊活動防止法は、当時所感派の主導を受けて武装闘争路線を採り、「山村工作隊」・「中核自衛隊」などの武装組織建設を進めていた日本共産党に対する規制を念頭に制定された。そのため、同党は、現在でも破壊活動防止法の調査指定団体だそうである。

同庁の設置には、戦後、公職追放されていた陸軍中野学校、特別高等警察、旧日本軍特務機関の出身者が参画したとされている。

公安調査庁の設立は、戦後日本が世界の冷戦体制に組み込まれていく中、いわゆる「逆コース」の象徴的事件であり、その初代長官に誰が就任するかは、世間の耳目を集めていた。藤井の就任は、時の吉田内閣で法務大臣を務めていた木村篤太郎の依頼によるという。当然、国内左派から総攻撃されて然るべき立場であるにもかかわらず、藤井長官就任を悪く言う記事には接しなかった。

たとえば、戦前から戦後にかけ、反体制派を貫いた正木ひろし弁護士でさえ、「破防法の制定が極端に不評だったのに対して、その運用の総元締である公安調査庁長官藤井五一郎は極めて好評である。…破防法大反対の弁護士までが、口を揃えて彼の人格を認め、特に共産党弁護で名高い布施辰治までがニコニコと首を振りながら、藤井の毅然たる裁判長ぶりを褒めちぎったのには驚いた。」と記している[1]

陸軍出身者によって設立されたと言われる公安調査庁長官に藤井が就任したのは、長州出身という理由もあるだろうが、最も大きいのは、右派にも左派にも好かれる人格にあったことは、間違いないと思われる。戦前の著名なマルクス主義者であった河上肇は、藤井の裁判を受けて服役したが、獄中、時折訪ねてくる藤井と親密に交際したことは、その遺稿で世人の知るところとなっていた。

その藤井だが、内藤頼博との関係を示す資料は何一つない。そして、何一つないということが、藤井と内藤との関係を物語っていると思われる。藤井の追悼文集である『藤井五一郎の生涯』賛助者名簿には、最高裁初代事務総長であり、内藤とも親交のあった本間喜一が名を連ねているが、内藤が名前を出さないのは、理由があるからだろう。

その理由と推測されるものとして、藤井が正木ひろし弁護士に語った次の言葉がある。それは、昭和2010月に判事を退官した理由を問われ、「占領下の司法官には外国の圧力が加わる危険を感じましたので」と答えている点だ。

このとき内藤は裁判所に残り、GHQと手を携えて裁判所改革に乗り出す。一方、藤井五一郎と、彼を帝人事件の裁判長に据えた三宅正太郎とは、裁判所を去った。しかし、藤井や三宅に理想の司法を見る裁判官は多数残っており、内藤らの理想と厳しく対立することになる。


[1] 正木ひろし「毅然たる探題―藤井五一郎―」

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2014年4月10日 (木)

小保方氏問題と手続的正義と弁護士会広報について

小保方氏は、アウトだと私は思う。

理研の調査では「悪意」「ねつ造」の有無が問題となっているようだが、本質ではない。悪意の有無にかかわらず、彼女は、プロとして決して許されないことをしたのであり、その職を剥奪されてもやむをえない。真犯人だから、あるいは冤罪だからといって、検事や弁護士が証拠を偽造するのと同じことであり、悪意がなかったでは済まされない。30歳は未熟だからとか、女性だからとかいって、その責を減免されるはずもない。STAP細胞が実在してもしなくても、その罪に変わりはない。問題は研究の手続的正義であり、結果的正義ではないからだ。

だが、彼女は許されない、ということと、彼女に弁護士が必要だ、ということとは、全く別問題だ。彼女の弁解が、どれほど非常識で、身勝手極まりないものだとしても、それを彼女のために主張する職業人の存在は、少なくとも適切な処罰と、彼女の納得のため必要だし、組織的病巣や、もっと悪いヤツがいた、という新事実が明らかになるかもしれないし、万が一だが、アウトという私の考えを根本から覆してくれるかもしれない。そして、現在の彼女に自ら弁解する能力のないことは明らかだ。逆説的に言うなら、弁解しようのない人ほど、優秀な弁護士が必要なのである。

彼女の代理人に、もと大阪弁護士会長以下そうそうたる弁護士がついたことを、盗人たけだけしいと批判する世論もあるけれど、残念なことだと思う。小保方氏の正当性を主張することが許されないなら、確定死刑囚の代理人として冤罪を主張することは、もっと許されない。彼女は罰せられるべきだ、という結果的正義の問題と、彼女に最高の弁護人がつくべきだ、という手続的正義の問題は、違う。「被害者や無辜の代理人の意見ならよい、加害者や犯罪者の代理人の意見はダメ」というのは、結果的正義に囚われて、手続的正義を知らない者の意見である。

ヴォルテールの言葉とされる、「君の意見に反対だが、君が意見を言う権利は命に代えて守る」は、表現の自由を守る趣旨と理解されているが正確ではない。反対意見の存在は、手続的正義の要諦であり、結果の正統性(正当性ではない)を担保するからこそ、命に代えて守るに値するのだ。

わが国では、近代司法の歴史が浅いせいか、手続的正義の重要性や、逆説的な弁護士の役割は、あまり理解されていない。そうだとすれば、その役割を弁護士会が広報することは、弁護士会の責務である。

先日、大阪弁護士会ホームページのブログに、小保方氏の代理人を務める弁護士の投稿が掲載された。「弁護士会が、嘘つき女の肩を持つとはなにごとか」といった批判がネットに溢れているようだが、弁護士会は、小保方氏を支持しているわけではない。

「中立たるべき弁護士会が、一方当事者の代理人の意見を掲載するのは間違っている」との意見もある。中立たるべきなのはその通りだが、だから沈黙すべきだというなら誤りだ。いいかえるなら、個別事件の結果的正義がどちらにあるかについて、弁護士会は中立を保つべきだが、手続的正義の正当性を訴えることについては、雄弁でなければならない。そうであるなら、著明事件で当事者代理人の意見を一定の配慮のもとに広報することは、極めて有効だし、必要不可欠といってよい。また、一方当事者の代理人の意見を掲載していけないというなら、犯罪やDVの被害者代理人、冤罪を訴える被告人や受刑者の代理人の活動や発言も掲載できなくなるだろう。弁護士の仕事の本質が弁護である以上、一方当事者代理人の活動を広報せずして、弁護士会広報はなり立たないといってよい。

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2014年4月 8日 (火)

顔認証による万引防止システムと法の支配について

顔認証関係で刺激的なニュースが報じられた。

4月5日の読売新聞朝刊によると、店舗の防犯カメラで撮影された客の顔が顔認証で解析され、無断で115店舗にわたり共有されているという。

一方、LYKAON株式会社は、上記記事が「仮に当社製品リカオンを指しているのであれば、明らかな誤報」であるとして、読売新聞に対し、損害賠償を請求するという抗議文書を公表した。

もっとも、この抗議文書は、急いで作ったためか、文脈の乱れがひどく、不明な点が多くある。読売新聞の記事も、仔細に見ると、意味の通らないところがある。したがって、以下の分析は、想像で補った設定であることを前提にお読みいただきたい。

さて、読売新聞は、顧客の顔データを店舗間で無断共有していることを、問題の筆頭に掲げている。しかし他の場所では、「他の店舗では顔画像そのものは閲覧できない」と述べている。それなら、これは「顔データの共有」ではない。

実際のところ、読売新聞が問題とするシステムは、顔画像や顔認証情報の「共有」なしで実現可能だ。ブラックリストとなる顔認証情報は、システム運営者が保有するサーバーにだけ置いておき、各店舗の防犯カメラを統括するコンピューターから、来店者の顔画像がそのリストに掲載されているか否かだけを問い合わせるようにすればよいからである[1]。ここには、システム運営者と各店舗との一対一の関係があるだけで、「店舗間の共有」は存在しない。しかも、システム運営者と各店舗の関係は、委託関係(個人情報保護法22条)として処理すれば、個人情報保護法違反にはならない。

したがって、「店舗間の顔認証情報共有」を「個人情報保護法に違反するおそれがある」とする読売新聞の記事は、間違いか、そうでなくても、問題の本質ではないことになる。

では、法的な問題はないのだろうか。

このシステムの本質は、万引犯等として一度登録されると、同一のシステムに所属する店舗において、警報が発せられる点にある。その警報は、具体的なものではないとしても、万引の前歴などを持つ、好ましからざる人物であることを意味するものだ。いいかえるなら、このシステムは、システム運営者が万引犯など問題顧客のブラックリストを保有していて、加盟店に「今来たお客さまは問題顧客ですよ」と教えて回ることと同じだ。そうだとすれば、この警報は、当該人物の名誉ないしプライバシー権を毀損するものとして、民法及び刑法上、違法とされる可能性が高い。人は、指名手配犯でない限り、その犯罪歴を明らかにされない(たとえそれが事実であっても)権利を有するというべきだからである。

つまり、このシステムは、「顔認証情報を共有すること」によってではなく、「被登録者の名誉等を侵害すること」によって、違法と評価される疑いが強い。

ところで、LYKAON社のホームページによると、同社のシステムは、「万引犯を現行犯人として拘束(した際に)本人からの同意等を得ることによって、他店間との共有[2]」を行うから問題がないという。

だが、現行犯で捕まった万引犯人の同意を得れば、システムのサーバーに登録し、警報を発することは許されるのだろうか。法律家の間でも意見が分かれるだろうが、答えは原則として否であろう。「行く先々の店舗で警告が発せられ、自由に買いもの等ができなくなる利益」は、同意(しかも、同意しなければ警察に突き出すぞ、という脅しのもとでの同意)によっては処分できない権利と考えるべきだし、冤罪だった場合はもとより、そうでないとしても、店舗側の利益に比較して、余りに大きな利益を失わせるものだし、なにより、当該システム運営企業とその加盟店舗とが、一種の自警団と化すことを許すことであって、社会的な危険性がとても高いからである。いいかえるなら、いかに犯罪防止目的でも、公的な司法機関の関与なくして、個人の権利を不当に奪ってはならないのである。これもまた、法の支配の意味するところだ。

この件は、さまざまな法的問題を含むが、ちょっと長くなってしまったので、続きはまた今度。


[1] もちろん、単なるリスト掲載有無の情報を超えて、例えば、当該「万引常習者」の住所氏名や「犯歴」を店舗側に提供すれば、明白な個人情報保護法違反となるが、LYKAON社の説明を読む限り、リスト掲載者について、具体的な個人情報の提供は予定していないようである。

[2] この声明によると、LYKAON社は顔認証情報の店舗間共有を認めているようだが、顔認証情報の店舗間共有が不要なことは上述したとおりだし、実際、共有していないのではないかと思う。その意味では、この声明は勇み足ということになる。

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2014年4月 7日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(56)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(30)

昭和12年(1937年)1216日、平沼騏一郎の陰謀といわれる帝人事件で被告人全員無罪の判決を出した裁判長、藤井五一郎は、昭和12年(1939年)926日に蒙古連合自治政府司法部次長に赴任したが、これは事実上の左遷であった。昭和17年(1942年)320日、東京控訴院部長判事に帰任した後、昭和20年(1945年)1012日大審院判事に任じられ、翌日退職している。昭和21年(1946年)には弁護士として東京裁判被告の星野直樹の弁護を担任するなどした後、昭和27年(1952年)、公安調査庁初代長官に就任、昭和37年(1962年)223日に公安調査庁長官を退職し、昭和44年(1969年)1029日急逝した。葬儀は115日、青山葬儀所にて執行された。

昭和441029日当時、石田和外は最高裁判所長官に就任した最初の年を迎えていた。同年4月、自民党の「裁判制度に関する調査特別委員会」が設置され、公務員の労働基本権に対する裁判所の立場が厳しく問われようとしていた。9月、長沼ナイキ事件に関する平賀書簡問題が起き、1015日、『悪徳の栄え』事件に関する最高裁判所大法廷判決、1224日には、安保反対でもを取り締まる警察の写真撮影行為の合法性が問われた「京都府学連デモ事件」の大法廷判決が為されている。

昭和44年は、日本にとって激動の時代であり、最高裁においても内外の不安要素を抱えた、激動の時代であった。戦前蒙古自治政府に派遣された藤井のことを、「藤井裁判長は行政部に疎んぜられて蒙古へ左遷されたのだという説は、大変な誤りでその様なことは絶対にないことを、当時の事情を熟知している私が茲に断言しておく。熱血にもえる藤井さんが当時の国情に安閑たり得る筈なく、時の政府の懇請を機に、勇躍挺身されたのである。まさに男児の本懐であろう」と弔辞に述べた石田和外最高裁判事の発言は、昭和4411月時点における国情と、石田和外の置かれた立場抜きにしては、理解できないだろう。

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2014年4月 3日 (木)

内藤頼博の理想と挫折(55)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(29)

やや本題を外れるが、石田和外の戦後の経歴を概観しておこう。

石田和外は、敗戦後その職にとどまり[1]、昭和2236日、木村篤太郎司法大臣のもと、司法省人事課長に就任した。最高裁判所発足に伴い、昭和2212月、最高裁判所事務局人事課長に就任する。内藤頼博は、石田を人事課長に推薦したのは自分だと述懐している[2][3]。その後もとんとん拍子に出世するが、最高裁判所長官への道を決定づけたのは裁判官俸給問題である。

『石田和外追想集』の資料編には、「石田さんの司法行政上の仕事の最大なものとして」、冒頭に「裁判官報酬問題」が掲げられている。

それによれば、「裁判官の報酬と検察官の俸給とをどのように定めるかについては、最高裁判所の草創頃から裁判所側と検察庁を含む司法省側との間に、極めて厳しい対立があった。…一触即発の関係にあったといってもよかろう」とされ、戦後の第1回国会以来、裁判官の報酬体系と検察官のそれとを同列にしようとする検察・法務省と、裁判官を優位におこうとする裁判所側との間で、熾烈な闘争が続けられてきた。

昭和3424日の第31回国会において、裁判官の報酬等及び検察官の俸給等に関する一部改正案が、法務省から提出された際、形の上では判事の俸給体系が検察官のそれより上位に設定されたものの、最高裁事務総局と法務事務次官、大蔵省事務次官の3者間において、判事の最高俸給を得るには検事の定年を超えなければならないとの「密約」が交わされ、事実上、判事の俸給体系が検察官と同列におかれることになった。

石田和外は当時東京地方裁判所所長であったが、東京地方裁判所裁判官と協議の上、昭和34217日付「裁判官報酬法の改正についての要望書」を作成し、最高裁判所を経由することなく、直接に衆参両院の法務委員会に提出し、改正案についての強い反対意見を表明するに至った。

要望書の内容は、上記資料によれば、「憲法と裁判所法の上記を引用説明し、法の支配の精神にまで及び、判事の報酬制度のあるべき姿を明確にしたもの」であって、「今回の改正案は、第二国会以来認められてきた裁判官に対する特別な配慮、特に裁判官の待遇と検察官の待遇との間に明確な一線を劃してきた伝統を一挙に破壊し、両者の待遇を全く同列のものとしようとする意図に強く動かされているように思われる。これがなにびとの意図であるかは暫くおき、国会で慎重に審議された上確立された伝統を憲法の精神を無視して破壊するのは大問題である」としている[4]

結局、改正法案は原案のとおり可決されたが、衆参両院の附帯決議により、三者協定は国会において破棄されることになった。これにより、検察官の間に俸給上の明確な優位性を保つ裁判官の面目が保たれたのである。

石田和外は翌昭和355月、最高裁判所事務総長、37年東京高裁長官を経て、昭和386月、最高裁判事に就任した。

昭和44年に最高裁判所長官に就任。昭和485月に定年退官し、戦後日本を代表する最高裁判所長官の一人として、記憶にとどめられることとなった。


[1] 『石田和外追想集』72

[2] 『石田和外追想集』296

[3] なお、おそらく後述するが、内藤頼博は『石田和外追想集』297頁において「昭和47年秋、当時名古屋高裁長官であった私は、石田最高裁長官に呼ばれた。私ただ一人のために設けられた席であった。その席で石田さんは、『岩田裁判官の後任に君を推そうと思う。』といわれた。最高裁長官が高裁長官を最高裁判事に推す場合に、ふつう(濁点あり)こういう手順をふまれるのかどうか、私は知らない。このときの話は、結局実現しなかったのだが、私には、この問題について石田さんが私に寄せる並々ならぬ細やかな心遣いが、しみじみと感じられた。その陰には、石田さんの一方ならぬ苦慮があったことであろう。私は、そのあとで石田さんに、『不徳の後輩がいつまでも先輩にご迷惑をかけて相すいません』といった。石田さんは『いやァ…』といって、例の目をパチパチさせておられた。」と述べている。このやりとりが本当かどうかを確認する手段はもはや存在しないが、少なくとも明らかなことは、この当時、内藤を最高裁判事にすることに反対する勢力が裁判所内部にあったことである。

[4] 矢口洪一は『最高裁判所とともに』の185頁で、「刑事の裁判官はどちらかというと、給与問題にしても、検事との格差の主張に熱心だった」と述べている。これは、石田和外を念頭に置いた発言と思われる。やや冷笑的とも思われるこの発言の真意については、追って検討する必要があろう。

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