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2014年5月19日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(58)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

『家永史観』批判(1

ここまで、戦時中に時の権力者に対抗する裁判に関わった数人の裁判官を紹介した。時系列に従い簡単にまとめるとこうなる。

藤井五一郎(明治25年-昭和44年)は、平沼騏一郎の政治的策謀である帝人事件(昭和9年)の裁判長を務め、全員無罪の判決を出すが、昭和12年、蒙古連合自治政府の司法部次長に「左遷」された。これを「左遷」というか否かについては争いがあるが、藤井自身は日本政府の占領政策に嫌気がさしており、敗戦後被占領民としてみじめな思いをするのは嫌だと、裁判官を辞している。この帝人事件の陪席を務めた3人の内、岸盛一(明治41年-昭和54年)も藤井と同様蒙古自治政府に「左遷」され(但しすぐ帰国)、石田和外も、一時的に予審判事に「降格」された。

石坂修一(明治28年-昭和44年)は、不敬罪で起訴された河合栄治郎京大教授に対して、昭和13年、無罪判決を下したが、時の平沼騏一郎内閣の圧力を受けて、姫路支部長に左遷された。

吉田久(明治17年-昭和46年)は、いわゆる翼賛選挙下で、軍の露骨な選挙介入が行われた鹿児島二区の選挙に対し、昭和20年、無効判決を下した。判決後すぐ辞職したため、判決後に人事的不利益を受けた形跡はなく、また、判決前から無効判決が予想されたにもかかわらず、更迭などの政治的圧力を受けることはなかった。

細野長良(明治16年-昭和25年)は、廣島控訴院長だった昭和193月、司法は軍に協力せよという東條英機の演説に単身抗議した。批判も起きたし、本人も暗殺を覚悟したと思われるが、しかし人事上の報復は受けなかった。

三宅正太郎(明治20年-昭和24年)は、藤井五一郎らを帝人事件の担当裁判官にする人事や、石坂修一の左遷人事に直接関わった人物であるが、自らは、大審院判事として、昭和19年、石坂修一の無罪判決を覆した高裁判決を支持し、他方、不敬罪で起訴された尾崎行雄に対して、原審を覆し無罪判決を出した。三宅は戦後公職追放を受けるが、それ以前、不利益な人事を受けた形跡はない。

これらの事例を総合すると、明らかに一つの傾向が見て取れる。それは、「軍との関係では、裁判所の独立は保たれていたが、平沼騏一郎ないし司法省との関係では、裁判所の独立は保たれていなかった」という点である。いいかえると、軍との関係では、司法の独立は保たれていたが、司法内部では、裁判所の独立は司法省によってたびたび侵されていた、ということだ。

そしてもう一つ、平沼騏一郎の圧力を受けて「左遷」された岸盛一、石田和外、石坂修一は、いずれも戦後、最高裁判所判事に就任した。また、藤井五一郎は公安調査庁の初代長官に就任している。すなわち、平沼騏一郎の逆鱗に触れ「左遷」された判事たちは、戦後、その不利益を補う人事的厚遇を受けた。戦前から異例の出世を果たした石田和外の例にも見えるとおり、裁判所内部には、司法省の圧力に対抗する勢力があったことが分かる。

さらに、藤井・石田・岸・石坂の4人の裁判官は、いずれも政治的には保守に属し、戦後のいわゆる「逆コース」を担ったことが分かる。

これらの事実を、どう考えたらよいだろうか。

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コメント

司法の圧力に対抗する人は、退官後もしくは退官直前に、自己満足てき暴露本をだす。最近の裁判官は、ストレス発散のために報復的判決を平気で書くし、弁論主義違反なんてなんのその。だから控訴審が増える。
裁判所に絶望していない証拠だ。

投稿: はるな | 2014年5月19日 (月) 10時35分

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