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2014年5月26日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(59)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

『家永史観』批判(2

戦前戦後の司法権の歴史を学ぶ上で、教科書的位置にあるのが、家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』である。本論考にも、この本の記述を基盤として論を進めた箇所がある。

しかし、戦前の裁判官が時の権力に対抗した一連の裁判を分析してみると、同著に著された歴史観には、異議を唱えざるを得ない。

象徴的なのはこの記述だ。「(裁判所)独立論者は制度の改革に関しては勝利を占めたが、反対論者はそのしかえしとして、細野長良らの最高裁裁判官就任を阻止する策動を行い、その結果裁判所独立のために戦ってきた細野らはことごとく裁判所を追われて下野せざるをえなかったのである。[1]

この記述によれば、細野らを追い落としたのは「裁判所独立の反対論者」だということになる。また、家永によれば、これら「反対論者」は戦争中、消極的にせよ軍部を支持したことが示唆されている。しかし、河合栄治郎事件で無罪判決を書いたため左遷された石坂修一は、反細野派として活動した[2]。資料はないが、石田和外や、岸盛一も、その思想的立ち位置からして、反細野派に属していたものと思われる。また、尾崎不敬事件で軍部に逆らった三宅正太郎は、戦後公職追放されていたが、内藤頼博の述懐によれば、最高裁判所長官の選定では、反細野の立場で活動した。つまり、反細野派は、決して「裁判所独立論」の反対論者ではなかったのであるし、ましてや、戦時中、軍部による裁判所支配を是としていた者でもなかったのである。

家永史観は、故意か過失か、このあたりを全く無視し、反細野派をまるで、裁判所独立を否定する勢力と位置づけてしまっている。しかし、細野派に勝利し裁判所を支配したのが裁判所独立を否定する勢力であるなら、その勢力の中心でとんとん拍子に出世したのが石田和外である説明がつかない。家永史観は、明らかな事実誤認を冒していると断ぜざるをえない。

戦前から戦中にかけて、司法をめぐる勢力分布は、裁判所独立派か反独立派かという二項対立では説明できず、より詳細な分析が必要である。

少なくとも、当時の司法省を牛耳っていた平沼騏一郎と軍部はことあるごとに対立していた。そして、司法内部でも、裁判所は、平沼が支配する司法省との間に、微妙な緊張関係を保ち続けていた。裁判所内部には、進んで平沼に媚を売った両角誠英のような者もいたが、決して平沼になびこうとしない藤井五一郎や石田和外のような裁判官も少なくなかった。また、平沼や軍部に対し面従腹背の態度をとり続け、裁判所独立の機運を伺っていた三宅正太郎は、裁判所の中で隠然たる勢力を持っていた。

細野派と反細野派の対立は、裁判所独立派と半独立派の対立ではなく、裁判所独立派同士による、独立のあり方をめぐる対立と理解するべきである。


[1] 家永三郎『司法権独立の歴史的考察』92

[2] 『ある裁判官の歩み』223

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