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2014年6月 9日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(60)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(1

木戸幸一は、1889年(明治22年)、侯爵木戸孝正の長男として生まれた。明治の元勲木戸孝允(桂小五郎)は、祖母の兄にあたる[1]。学習院高等科では近衛文麿の一学年上で親交があり、卒業後、京都大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。農商務省、商工省を経て内大臣府秘書官長に就任し、1939年(昭和14年)の平沼大臣で内務大臣を歴任。1940年(昭和15年)から内大臣を務め、元老西園寺公望が同年11月に死去した後は、昭和天皇が最も信頼を置く「最後の内大臣」となり、東條英機を首相に推挙したことでも知られるが、戦況悪化後は早期和平に尽力した。終戦後、戦犯として逮捕され東京裁判で終身刑の判決を受けるが、その際証拠として提出された木戸幸一日記は、戦前戦中の実情を記した一級の資料として知られている。

その木戸幸一日記には、内藤頼博との面会記録も記されている。

日記には、戦前戦中に木戸幸一が面会した相手やその内容が克明に記されている。同日記は現在公刊されており、天皇はもちろん近衛文麿など著名人との面会記録については索引が設けられ、検索が容易になっている。ただし、面会の相手は全員が索引に網羅されている訳ではない。そこで、図書館から借りてきた木戸幸一日記の全ページをOCRにかけて文字を読み取り、検索することによって、索引にない人物との面会記録を追うことにした。昨今OCRの性能が上がったとはいえ、「小林」のように画数の少ない漢字は正確に読み取るものの、「内藤頼博」のような画数の多い漢字は誤読しがちである。また、氏名が行をまたぐ場合には認識できない。このような制限付きながらも、いくつかの興味深い記述に巡り会うことができたので、以下、ご紹介したい。


[1] 但し、『木戸幸一日記』3頁には「木戸孝允の孫に当たる」と明記されている。

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