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2014年6月16日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(61)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(2

「木戸幸一日記」を全ページスキャンしてOCRをかけ、「内藤頼博」で検索した作業だが、実際のところ、木戸幸一日記に内藤頼博が登場したのは3回しかない。

一回目は、昭和7921日である。「午後7時より、内藤(頼博)、明石(元長)両君其他3氏来訪、桜友会の改革につき意見を聴く。理想のみに走らず実行可能なるものより徐々に着手することを勧む。」とある。

昭和711月といえば、明治41年生まれの内藤は24歳。昭和5年に司法試験に合格し、昭和712月から東京地裁で予備判事として勤務する直前ということになる。

桜友会とは、学習院の同窓会である。桜友会ホームページによれば、「弘化4年(1847)京都で主に公家対象の学習所としてスタートした学習院が、維新後の明治10年(1877)東京・神田錦町に再興されて間もなく、卒 業生有志によって「学習院同志会」が設立されました。その学習院同志会は、明治33年(1900)に、規模を拡大「学習院同窓会」と改称、さらに21年後 の大正10年(19211月には抜本的な組織改変が行われ、今日の学習院同窓会である「桜友会」が誕生しました。」とある。内藤自身、昭和55526日から昭和621130日まで、桜友会会長を務めている。

平成2年に発刊された『櫻友会史』に内藤頼博が登場するのは、昭和5年から7年までの理事就任(841頁)及び昭和8年のことである。『桜友会史』183頁によると、従前卒業生相互の親睦組織であった桜友会が、「時代の変遷とともに大学進学等後輩指導の必要性を生じ、昭和81018日開催の通常総会において事業の一つとして、学生部を新設するに至った」とある。そして、初代学生部委員は「吉田清風、戸田吾郎、松平乗光、渡邊八郎、戸沢冨壽、岡部長景木戸幸一浅野長武三宅正太郎、内藤頼博、長崎守一柴山昌生、林秋義、相澤忠男、榊原政春、山根三郎、鮫島武久、杉浦正三」とある。なお、「時代の変遷とともに大学進学等後輩指導の必要性を生じ」とあるのは、その後の学生部の活動から推察するに、当時熾烈となってきた受験戦争の中で、東大や京大を志望する学習院学生を確保する必要性が生じてきたことを意味するようだ。

桜友会学生部の初代理事には、蒼々たる名前が続くが、注目すべきは木戸幸一、三宅正太郎、内藤頼博の3名であろう。内藤は任官前から、木戸や三宅と知己があったことを裏付けている。

そして、昭和711月に内藤が木戸を訪問したことは、当時桜友会理事であった内藤が、学生部創立の企画や、委員就任について、大先輩(19歳上)の木戸に意見具申や要望を行ったことを示すと思われる。これに対して木戸が「理想のみに走らず実行可能なるものより徐々に着手することを勧む」と応えたのは、若く理想に燃える内藤を、木戸が多少諫めた、というところだろう。

これは、昭和7年の時点で、内藤と木戸がかなり親しかったことを示すエピソードと思われる。

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