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2014年6月23日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(62)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(3

『木戸幸一日記』上、内藤頼博の名前が出てくるのは、昭和7921日につづき、昭和8年(1933年)228日(火)である。やや長文だが、この日の記載を転記すると、次のとおりだ。

「午前九時半、犬養健君来訪、内閣の寿命、将来の政治動向等につき意見を交換す。十時半出勤。

正午、火曜午餐会に出席す。二荒伯と学習院問題につき語る。

同伯は自ら御用掛として改革の衝に当り度き希望あり。考慮を要する問題なり。

午後七時より華族会館に二荒、淺野(長武)、内藤、佐藤、入江(相政)、明石の諸君と会し、学習院の現状につき其の真相を聴き、改革の意見を交換す。要するに現在は山口(魏)事務官、馬場(轍)・石井(國次)両教授、所謂トリオを形成し専横を極むるものの如く、先決問題は馬場氏を勇退せしむることにして、之が空気を作るに寧ろ山口事務官をして其衝に当らしむるを可とすと云ふが余の意見なり。途中より辞去。

蜂屯に於ける原田の海軍大臣以下海軍首脳部招待会に出席、十時過帰宅す。」

二荒とあるのは、二荒芳徳伯爵(18861967)当時47歳。入江相政19051985)は戦後昭和天皇の侍従長を務めた人物として記憶されている方もあろうが、この時点では弱冠28歳だ。浅野長武(1895-1969。当時38歳)は広島藩主の嫡流、明石元長は第7代台湾総督明石元二郎の長男だが、戦後台湾独立運動を支援中42歳で急死した人物らしい。ここから逆算すると生まれは1910年頃、内藤とともに木戸幸一を訪れた折は23歳ということになる。「佐藤」だけでは、誰のことか分からない。いずれにせよ、この会合の中心人物は、名前の順番からしても年齢からしても、二荒芳徳伯爵だったと思われる。

一方、二荒らが糾弾した対象である山口魏とは宮内庁事務官であり、馬場轍石井國次はそれぞれ学習院大学の教授である。後世に残る業績は特にないようだが、国立国会図書館で著書の題名を検索すると、馬場の著書としては『純忠乃木精神』(1944)、石井の著書としては『今上陛下之御聖徳と皇道』(1937)『国民の覚悟 : 戦時教育』(1904)などがあるので、その思想的拠はだいたい知れよう。

さて、二荒らが木戸に訴えたところによると、当時の学習院は上記山口、馬場及び石井が専横を極めており、これを排除することが喫緊の課題であったらしい。同日昼の会談において、二荒は「自ら御用掛として改革の衝に当り度き希望」を木戸に述べたが、木戸は態度を留保し、夜の会談では「馬場氏を勇退せしむることにして、之が空気を作るに寧ろ山口事務官をして其衝に当らしむるを可とす」との意見を述べている。

33日の日記には、次の記述がある。

「午前十時官邸に湯浅宮内大臣を訪問。

学習院問題につき従来の経過を語り、今後の方針として先づ馬場教授を勇退せしむることにつき諒解を得、尚、宅野検挙に伴ひ宮内省内部の粛清の必要を力説す。尚、朝香宮殿下の過日漏されたる内大臣に対する御考へ及び国際聯盟の真相に関する御考へをも話て、対皇族問題の等閑に附し得ざる現状を説明す。」

つまり、木戸は内藤らと会った3日後には、馬場教授更迭を事実上差配している。馬場教授に関しては、翌昭和921日の日記に「朝、加藤鋭五君来訪、馬場(轍)元学生課長の娘の素行問題、之に関聯して昭和寮の風紀棄乱の状を話あり。実に驚き入りたることなり。」との記載がある。加藤鋭五は後に改名して京極高鋭となり、昭和の音楽評論家として名をなした人物だ。「風紀紊乱」の中身は分からないが、馬場教授の身辺には問題のあったことがうかがえる。

また、「宅野」とは、宅野田夫という画家であるが、この宅野の検挙と学習院問題、それに「宮内庁内部の粛清」とは、どういう関係があるのだろうか。

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