« 来るべき戦争のありかたを具体的に予測することについて | トップページ | 『私たちはこれから何をすべきなのか―未来の弁護士像』(金子武嗣弁護士著) »

2014年7月10日 (木)

内藤頼博の理想と挫折(63)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(4

美術人名辞典によると、宅野田夫(たくのでんぶ)は、「画家。明治28年(1895)東京生。名は清征。岡田三郎助に洋画、田口米舫に日本画、王一亭・呉昌碩等に南画を学ぶ。また、頭山満・後藤新平らとも交際があった。画風は自由奔放で、幻想画・洋画・水彩画・南画を能くした。歿年未詳。」とされている。

交際があったとされる後藤新平18571929)は、「台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。」(wikipedia)とされ、日本の大陸進出や植民地経営を推し進めた人物であった。

東山満18551944)は、「明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。号は立雲。玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、アナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。」(wikipedia)とされる。

また、柏書房株式会社のサイトによれば、宅野は右翼思想家蓑田胸喜(18941946)の盟友として『新聞と社会』という右翼系新聞批評紙の顧問として参加しており、「宅野田夫の手によって蓑田の天皇機関説排撃活動の裏舞台がリアルタイムで報告されて」いるとのことである。その「舞台裏」に触れた別サイトには、宅野は西園寺(公望?)に対して、天皇機関説排除の目的を伝えたとある。

|

« 来るべき戦争のありかたを具体的に予測することについて | トップページ | 『私たちはこれから何をすべきなのか―未来の弁護士像』(金子武嗣弁護士著) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/59956193

この記事へのトラックバック一覧です: 内藤頼博の理想と挫折(63):

« 来るべき戦争のありかたを具体的に予測することについて | トップページ | 『私たちはこれから何をすべきなのか―未来の弁護士像』(金子武嗣弁護士著) »