プロバイダ等による通信傍受の適法性について
Googleが、ヒューストンに住む容疑者のGmailアカウントに見つけた違法な画像を当局に通報したため、男が児童ポルノ保有の嫌疑で逮捕されたという。これを紹介する記事は、「それでGoogleを批判する者は一人もいないと思われるが、手がかりがあくまでも私信の中から見つけられたものであるだけに、そこで使われた方法について疑念を抱く者がいるかもしれない」が、「それらの疑問は、この逮捕の実現のためにGoogleが用いた技術を、よく理解していないために生じている」としている。
日本では、憲法21条2項が、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない」と定めているし、電気通信事業法は、民間事業者も通信の秘密を守るべきことを定めている。とすれば、Googleの行なったことは、我が国では違法になるように思えるが、これも誤解なのだろうか。
記事によると、「Googleはその無料のサービスを支える広告の適切化(個人化)のために、ユーザのメール中のキーワードやフレーズを、人が介入しない自動化ソフトでスキャンしている。人間がユーザのメールを読んでいる、ということはない。またGoogleの技術者たち…つまり人間…がこの男のメールアカウントの中身を読んで、違法画像が共有されていることを見つけたのではない。さらにGoogleは、窃盗などの犯罪的行為を見つけることを目的としてユーザのアカウントを…自動化ソフト等で…スキャンしていることもない。今回のケース、および逮捕に結びついた技術は、児童ポルノの発見だけを目的とする、きわめて専門的限定的なアクション、ならびに技術だった」という。この日本語記事は「抄訳」とされているが、原文を見ても、特にそれ以上のことは書いていないように思われる。つまり、Googleの行為は、人間がメールを見ているわけではないことと、他の犯罪ではなく児童ポルノ発見だけを目的とするソフトの仕業であることから、正当化される、と言いたいようである。
そうだろうか。少なくとも日本では、極めて乱暴な議論だ。
まず、「人間ではなく、コンピューターがメールの中身をチェックしているだけだから、通信の秘密を害してはいない」という議論は成立しない。たとえば、反原発運動家同士のメールをチェックしたり、野党選挙事務所が送受信するメールをチェックしたりすることが、「人間がやったらダメで、コンピューターならOK」という議論は、絶対に成立しない。
次に、「児童ポルノ画像だけを探知するソフトの行いだから、許される」という議論も成立しない。確かに児童ポルノの蔓延は重要な社会問題だが、テロにしろ薬物問題にしろ、同程度またはそれ以上に重要な社会問題はいくらでもある。重大犯罪だから通信の秘密を侵してもよいという議論がまかり通るなら、憲法の条文は死文化するといって過言ではない。
したがって、我が国で同様のことが許されるためには、少なくとも立法が必要である。
しかし他方、コンピューターを使ったメールのチェックが、人間による盗聴や検閲と同レベルで禁止されるべきか、いいかえると、いわゆる盗聴法と同レベルの条件(犯罪の限定と令状主義)でのみ許されるか、というと、必ずしもそうは言い切れないところがややこしい。
たとえば、朝の電車で化粧に勤しむ若い女性がいる。彼氏の前では絶対にやらないであろう、基礎工事から平気で行っている。この事例は、「赤の他人の前では、プライバシーの意識が薄れる」ことを端的に示している。だとすれば、この女性は、コンピューターしか見ていない場所なら、素っ裸でも恥ずかしいとは思わないだろう。また、街頭防犯カメラについても、「犯罪が起きない限り、画像を人が見ることはないから」許せる、と考える人は多い。
したがって、日本でも、「人間は関与せず、コンピューターしかメールの中身を見ない」という事実は、通信の秘密の侵害を正当化しうる理由の一部にはなりうるのだろう。また、児童ポルノに限らず、テロにせよ薬物問題にせよ、メールをチェックして犯罪等を予防し捜査する社会的要請は、一定程度あると言わざるを得ない。
結局のところ、この問題に関する私の結論は、「人が見ず、児童ポルノ摘発専用ソフトだからOK」という議論はあまりに乱暴であり、法律の根拠がなければ許されないが、その法律は、特定犯罪捜査のため人間が盗聴をする場合に比べ、ある条件のもとでは、緩い要件での運用が許される余地がある、ということになる。その条件とは、適切な運用を担保する制度ということになろう。どんな制度か、という議論になると、さらに難しいので、それはまた別の機会にしたい。
いずれにしろ、通信の秘密に関する限り、米国のプライバシー保護の程度は、日本より遙かに薄い。欧州はどうなのだろうか。「我が国では、いわば、「通信の秘密」が、タブーとなっていて、十分な研究がなされていないところである。しかも、それは、昭和40年代までに比較して、さらに昭和後半などからは、ほとんど研究の対象とされておらず、比較法的な研究というのにいたっては、ほとんど、存在しないものに近い」(高橋郁夫弁護士『「通信の秘密」の比較法的研究・序説』)との指摘もある。プライバシー保護法制の国際比較は一筋縄ではいかない、ということかもしれない。
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コメント
赤の他人の前で素顔をさらしての化粧は、ただの公害。
投稿: はるな | 2014年8月18日 (月) 14時21分