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2014年11月19日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(64)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(5

侍従次長河井弥八日記『昭和初期の天皇と宮中』によると、昭和7年(193167日、「日本紙上に宅野田夫の宮内省攻撃の記事あり。陛下より御下問あり。恐懼に堪へず」との記載があるとのことだが、木戸幸一日記に宅野田夫が最初に登場するのは、これに先立つ昭和6930日のことだ。

「宅野田夫、相不変内大臣攻撃の文を新聞日本に掲載す。今回の分は殊に猛烈にして、暗殺の教唆の如き傾あり。之が対策につき、小野(八千雄)、工藤両秘書官と相談す。其結果、段々警視庁の内部を信用し能はざる事情あるを看取したるを以て、先づ之に対し相当の対策を講ずることとし、宮内次官とも相談して同意を得。」とある。

宅野がどのような文章を書いたか未調査だが、その立ち位置からして内容は自明だろう。

その後、昭和7917日「午前十時出勤。十時半、次官室に於て次官と面談す。内大臣進退問題、宅野田夫の件なり」、1116日「帝国新報掲載宅野田夫の記事取消の件につき、村地(信夫)官房主事と打合す。」、昭和8227日「正午、東京クラブに於て藤沼警視総監、近衛、原田、高木、酒井、岡部の諸君と会食す。藤沼君と宅野一派の取締につき懇談す。」昭和832日「正午、アラスカに於て松本警保局長、原田男と会食、松本局長より宅野田夫留置に至る経過につき詳細聴取す。足裏に飯粒のついた様な存在だったが、留置されたので不愉快なデマの無くなった丈気持がよい。」とある。一連の記述からは、警察内部に対する影響力を固めた上で、宅野逮捕にこぎ着けた木戸幸一の政治力を見て取れる。

そして、この昭和832日という日付は、内藤頼博が二荒芳徳伯爵らとともに木戸を訪ね、馬場轍・石井國次学習院大学教授らの専横を直訴した日の3日後であり、これを受け、木戸が馬場轍教授を更迭させた日の前日であった。

つまり、このとき、言論界では右翼策動家であった宅野田夫が宮中の「弱腰」を弾劾しており(宮中にも宅野に呼応する動きがあった)、学習院内部では右派が学内を牛耳っていて、この二つは連動していたため、木戸はその双方を同時に排除するべく行動したことがうかがえる。

宅野の逮捕と、馬場教授の更迭によって、問題は一段落したかに見えた。しかしその後、学習院全体を揺るがす事件が起きることになる。

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