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2014年12月 3日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(66)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(7

昭和初期、内大臣木戸幸一を悩ませたのは、学習院の赤化問題だった。

すなわち、学習院に学ぶ家族の中に、明治政府体制に公然と反逆し、コミンテルンの指導の下に君主制の打倒を目指す日本共産党の活動に加わり、その結果、治安維持法違反に問われ検挙される者が現れたのである。

浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、維新の志士の一人として、男爵に叙せられた石田英吉の長男英一郎(明治36630日生)は、旧制一高入学後、菊川忠雄の勧誘を受け、校内の社会思想研究家に参加し、マルクス主義の研究に没頭した。同時に貧民街での奉仕活動を熱心に行い、自らの出自と裕福さに悩む日々を送る。京都大学に進学し(浅見雅男によれば、河上肇の講義を聴きたかったからではないかとのこと)たが、大正14121日、京都府警特高課が京大等の学生の住まいを令状無しで捜索し、33名の身柄を拘束した「京都学連事件」で逮捕され、不敬罪で起訴された。石田英一郎は爵位を返上し、京都大学を退学、禁固10ヶ月の判決を受ける。保釈後、非合法組織であった日本共産党に入党する。その後、昭和3315日に全国で一斉に行われた共産党員検挙事件(3.15事件)で逮捕され、懲役6年の実刑判決を受け服役し、昭和9年夏に出所した。転向したわけではないが、服役中に共産主義への失望を深め、出所後は文化人類学者としての道を歩む。戦後は昭和23年に法政大学文学部教授に就任、東大教養学部、東北大学文学部などの教授を歴任し、日本民俗学協会理事長に選ばれるなど、日本の文化人類学研究を主導する一人として、第一線を歩み続けた。

昭和434月、石田英一郎は多摩美術大学の学長となる。当時の多摩美大は、学生運動の嵐が吹き荒れていた。同学の非常勤講師であった奥野健男によれば、石田は、「紛争が起きるや学長室を四六時中学生に開放したばかりではなく、学生の中にとびこんで自ら理論闘争の口火を切った」という。

だが、石田英一郎は昭和43119日、学長就任から僅か7ヶ月にして、肺癌のため死去する。65歳であった。

ちなみに内藤頼博は、昭和50年、同じく多摩美術大学の理事長に就任し、54年には学長に就任している。内藤と石田が直接の知り合いであった文献は見当たらないが、お互い旧華族であり、知己であった可能性は否定できない。

また、石田が師と仰いだとも言われる河上肇の治安維持法違反事件を担当したのは、藤井五一郎裁判官であり、この裁判を若き日の内藤頼博判事が注目していたことは、以前ご紹介したとおりである。

石田英一郎を共産主義の道に勧誘した菊川忠雄は、特に逮捕されることも転向することもなく、全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事を歴任した後、日本社会党から衆議院議員に当選して3期務めたが、1954926日、洞爺丸事故で遭難死した(享年53歳)。この事故で、菊川と共に遭難した冨吉栄二衆議院議員は、戦前の衆議院選挙(翼賛選挙)で落選し、占拠妨害を理由に大審院で選挙無効を勝ち取った人物である。軍部の圧力に負けず、選挙無効の判決を言い渡し、「気骨の判決」賞賛されたのは吉田久判事であり、内藤頼博判事は、吉田を応援する座談会「法律新報」紙上、『戦時下における裁判道』と題する座談会に最若手として出席した。

このように、人々の糸は、どこかで少しずつ繋がっている。

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