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2015年1月13日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(67)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

木戸幸一と内藤頼博(8

 

『木戸幸一日記』によれば、内藤頼博は、昭和7921日に木戸幸一と面会し、学習院の同窓会である桜友会の理事として、同窓の先輩である木戸に意見具申を行った。また、翌昭和8年(1933年)228日、二荒芳徳伯爵らとともに木戸幸一を訪問し、山口魏宮内庁事務官学習院大学の教授である馬場轍石井國次学習院大学教授を糾弾した。彼らは、かなり強烈な右翼思想の持主として、当時の学習院を差配しようとしていたと推測される。そして、内藤らの意見を受けた木戸幸一は、馬場ら更迭の「黒幕」として行動したようだ。

しかし、当時の学習院を悩ませていたのは右傾化問題だけではない。華族やその子女の「赤化問題」もまた、木戸にとって頭の痛い問題であった。

学習院赤化問題の発端は、浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、大正14年及び昭和3年に行われた石田英一郎の逮捕・起訴が嚆矢であり、内藤が二回目に木戸を訪ねた昭和8年より5年以上前のことだ。だから、石田英一郎の逮捕・起訴は、内藤の木戸訪問とは関係がない。関係があるのは、昭和8年以降に起きた、一連の逮捕事件である。

治安維持法違反で逮捕されたのは、八条隆孟(118日逮捕、47日起訴)、森俊守松平定光327日逮捕)、久我通武と山口定男(328日逮捕)、上村邦之丞岩倉靖子329日逮捕)、亀井茲建420日逮捕)、小倉公宗(422日逮捕)、中溝三郎であった。

昭和8年11月8日の大阪毎日新聞は、「赤色線に暗躍する華族の子弟実に二十名 八条、森は遂に起訴さる 驚くべし学習院にメンバー結成」との見出しのもと、次のように報じている。

「非常時共産党にあっては「理論より実行へ」のスローガンをかかげ「目的の割には手段を選ばず」とてあるいはギャングとなり、あるいは武器を蒐集するなど全く従来にない兇悪性を示したがフランス革命の故智にならって華族階級の赤化を企て多数の華族子弟を獲得していた事実が暴露した、警視庁特高課では、事の重大性に鑑み毛利特高課長は検事局、内務省と、しばしば協議を重ね、その対策を議し断乎一斉検挙の方針に決し本年正月上旬赤阪区青山南町一ノ三三貴族院議員子爵八条隆正氏の次男隆孟(二九)を検挙したのを手はじめとして約二十名の華族子弟を検挙した

この華族赤化の経緯は昭和五年末学習院高等科出身田口一男(二六)が党上部の指導のもとに学習院在学生や卒業生などに働きかけ、間もなく当時学習院在学中の三重県の大地主の息伊藤満(本年四月検挙)や久我通武などを獲得し学習院生徒と卒業生の左翼団体として「目白会ケルン(中核)」なるものを組織し更に学内組織としては「突撃隊(ザリヤー)(曉の光の意で帝政時代のロシアの戦闘艦の名)なるものを組織し桜葉会(学習院校友会)の改革問題の闘争を通じて学習院内赤化に努めるとともに女子学習院にも働きかけて故海軍多少上村彦之丞氏の令孫上村邦之丞の実姉春子(死亡)および公爵家岩倉靖子などを獲得した、目白会ケルンが学習院を中心とした華族の子弟赤化の機関であったのに対し、昭和六年五月、党家屋資金局ブルジョア班のなかに「五月会」なる社交団体を作り、これを足場として学習院関係外の華族子弟獲得を行った、かくて学習院在学生卒業生のなかに多数のメンバーを獲得したが党上部はこれに対して資金調達の活動をなさしめ、その資金活動を通じてかれ等を左翼的に訓練したのであった、党中央部が資金調達にエロ手段をとったのにならってかれ等も長島栄次郎(二六)―学習院高等科卒―をキャップとしてエロ班を組織し十二枚一組のエロ写真を作り華族間の知人の間に一組二十五円で売りつけ三百五、六十円を獲得、これを党資金に提供したほか某代議士の娘をエロ仕かけで手なづけかの女をとりとして大いに資金を獲得せんとしたり上流子弟として全く想像し得ぬ悪辣な暗躍を行い、また男爵家中溝三郎(二七)は京都の華族間にメンバーを獲得し京都班を組織しようと同地で暗躍したが意の如くならず本年八月帰京したところを検挙されたのであった、今回検挙された学習院在学生や卒業生は森昌也(二五)小谷義雄をはじめ四十名にのぼっており起訴者も前記両名のほか数名におよんでいる、上流子弟である学習院生徒や華族の子弟が赤い運動に身を投ずるに至った原因は種々あるが、その大部分は家庭であることは当局を暗然たらしめた、なお学習院の馬場学生課長は学習院からかく多数の赤化分子を出した責任を感じて辞職した。

学習院の赤化運動を指揮していた一人で同院高等科を卒業し東京帝大を卒業した□□□□□は一〇・三〇検挙が開始されるや身辺の危機を感じ昨年末行方をくらましたが最近になって同人が満洲新京に潜伏し満洲国官吏養成所である大同学院在学中であることが判り近く逮捕の手が伸ばされることになった

華族子弟氏名

検挙され華族の子弟のうち重なるもの

男爵令弟山口定男(二五)▲子爵次男八条隆孟(二九)▲男爵長男上村邦之丞(二〇)▲子爵長男森俊守(二五)▲公爵令妹岩倉靖子(二二)▲男爵次男久我通武(二四)▲子爵長男松平定光(二四)▲伯爵長男亀井茲建(二四)▲子爵令弟小倉公宗(二四)▲男爵中溝三郎(二七)

そのうち八条、森の二名は起訴他はいずれも起訴留保の形式で釈放された」

逮捕された10名のうち、八条、森、岩倉以外は起訴留保で釈放された。多くは転向を約束したものとみられている。転向の意思を明らかにしなかった八条と森は起訴され、昭和9125日、八条に3年、森に2年の実刑判決が下された。八条は刑に服し、出所後は「模範転向者」として社会に復帰した。森は控訴し執行猶予判決を受けたが、昭和20629日に死去している。

岩倉靖子は逮捕後、警察はもとより親戚知人の説得も聞かず転向拒否を貫いたが、起訴された後である昭和99月、師と仰いでいた横田雄俊の転向を聞いて転向の意思を表明し、1211日、釈放された。その10日後、自宅の布団に横たわったまま剃刀で右の頸動脈を切断して自殺した。見苦しくないように着物の裾を縛っており、駆けつけた医師は「見事な最期だ」とつぶやいたという。

岩倉靖子はいうまでもなく、岩倉具視の子孫である。岩倉具視の孫には有馬記念で知られる有馬頼寧、曾孫には哲学者の森有正、玄孫には俳優の加山雄三、来孫には参議院議員の亀井亜紀子、女優の喜多嶋舞といった名前が並ぶ。

岩倉靖子を共産主義の道に導いた横田雄俊は、大審院院長(192396日―1927819日)であった横田秀雄の四男であり、長兄の横田正俊は、戦後最高裁長官となった。横田は、前任の横田喜三郎最高裁長官ほどではないにせよ、リベラルな立場をとったとされ、東大剣撃部の後輩である石田和外に次代の最高裁長官の地位を譲った。また、横田秀雄の妻秀野の夫である霜山精一も大審院院長(1944915日―194759日)であった。

 

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