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2016年3月22日 (火)

完全自動運転自動車の事故と法的責任について

3月1日のWIRED NEWSによると、グーグルの自動運転自動車が、初めて「AIの過失による」事故を起こしたという。

Google Carが事故を起こしたのは、これが初めてではない。しかしグーグル社によれば、すべて人間側のミスあるいは相手車両の過失によるものであったという。明白にAIの過失といえるものはなかったらしい。

事故報告書によると、自動車は完全自律走行中、右折するため一番右側の車線に入ったが、前方に複数の土のうが置かれて道が塞がれていることを検出して停車した。そして、その土のうを避けるため左にハンドルを切って動き出そうとしたところ、左後方から追い越そうとした路線バスの右側面に接触したという。同乗していたテストドライバーは、「バスが近づいてくるのを左のサイドミラーで見ていたが、バスは止まるか、速度を落として道を譲ってくれると考えた。その約3秒後、グーグルAVが車線中央に戻る途中でバスの側面に接触した」と報告している。上記WIRED NEWSには、バスの車載カメラが写した事故のビデオ映像が掲載されている。

この映像を見る限り、Google CarのAIの過失は明らかだ。Google Carは、左後方からバスが接近してくるのを何らかの理由で見落としたか、または、バスの接近を見ていたが、先に車線に入れると誤解した、もしくは、バスが譲ってくれると誤信したものと思われる(ちなみに、Google Carはあらかじめ左ウィンカーを点滅させているので、バス側にも一定の過失が問われる可能性はあるが、この点に関する論述は割愛する)。

この事故の法的責任はどうなるだろうか。

第1に、ドライバー(または乗車していた人間)の責任が考えられる。今回の事故では、テストドライバーが乗っていたということだし(運転席に座っていたのだろう)、実験中の事故であるから、ドライバーにはハンドルやブレーキを操作したり、非常停止ボタンを押したりして事故を回避する法的責任があったといえる(だってそのためのテストドライバーでしょう?)。したがって、実験段階である今回の事故に限っていえば、ドライバーは過失責任を免れない。しかし、市販された後のことを考えた場合、完全自律運転中の事故について、乗車していた人間の法的責任を問うことは難しい。

第2に、自動車のオーナーの責任が考えられる。この点に関する法令は存在しないが、民法718条1項は、「動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う」と定めている。もとより自動車は「動物」ではないが、自動運転自動車に関する法律が制定されるまでの間は、この条項が類推適用されると考える。たとえば、左後方のセンサーが故障していることを知りえたのに、運行させたオーナーは、本条により損害賠償責任を負う。

もっとも、同条項ただし書きは「動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない」と定めているので、自動運転自動車の管理を尽くしていたことを立証したときは、責任を免れることになる。事故の原因がAIそれ自体にある場合には、オーナーが民法上の責任を問われる可能性は低い(自賠法の責任は後述する)。

第3に、自動車メーカーの責任はどうか。これも、現行法制度を前提にする限り、難しい問題に直面する。なぜなら、過失責任は「結果予見義務または結果回避義務の違反」とされ、それぞれ「結果予見可能性または結果回避可能性」を前提とすると理解されているが、ディープラーニングで経験を積んだAIの場合、「結果予見可能性または結果回避可能性」があった、とはいえない場合も想定されるし、被害者側がこれを立証できない場合も想定されるからだ。同様に、メーカーまたはプログラマーも、「そのような勘違いをするAIになることを予見できた、または回避できた」とはいえない場合がありうるし、これを被害者側が立証することは至難の業だろう。そうなると、被害者側から見れば、「人間が運転していた場合には賠償金がもらえたのに、自動運転車に轢かれたらもらえない」、という不公平な事態が発生する。

では、「AIを人間に置き換えてみた場合、過失責任を問いうる事故であれば、そのようなAIを生み出したメーカーが賠償責任を負う」という法律を作ったらどうか。この場合、被害者保護は図れるが、メーカーとしては非常に困る。なぜなら、AIの教育方法であるディープラーニングは、「AIまかせ」のところがあるので、プログラマーといえども、細かいところには関与できないし、AIがどのように学習効果を習得するか、具体的場面においてどのような判断をするかを、もれなく予測することはできないからである。そうなると、メーカー側から見れば、先の法律は、事故の無過失責任を負わされるに等しい。それは同時に、自社製自動車が起こした事故の賠償請求が全部メーカーに集中することを意味するし、国によっては懲罰的賠償も覚悟しなければならない。弁護士費用だって馬鹿にならない。そのリスクは車両価格に反映されることになるし、メーカーの開発意欲は相当そがれることになろう。

しかし、自動運転自動車の方が、人間が運転する場合に比べ、事故率は絶対に低くなる。それにもかかわらず、メーカーがリスクを恐れて自動運転自動車を製造しなくなったり、自動運転自動車が高価になりすぎて普及しなかったりするのは、好ましい事態とはいえない。

したがって、メーカーの法的責任に関しては、世界標準となるAIの安全基準を策定し、この基準に合格している限り、事故の責任を問わない、とするしかないと思われる。

そうなると、被害者の救済が宙に浮いてしまうことになる。そこで、オーナーに保険加入を義務づけ、「AIを人間に置き換えてみた場合、過失責任を問いうる事故であれば、賠償責任を負う」ものとして運用することが必要となる。

また、賠償額の基準は、いわゆる自賠基準ではなく、任意保険の賠償額であることを要する。そうしないと、「無人自動車に轢かれた方が損」という事態が起こりかねず、自動運転自動車の普及を妨げかねないからだ。賠償金額を引き上げても、自動運転自動車の方が、事故率が断然低いので、保険料が上がるとは限らない。

このように考えてくると、既存の自動車保険制度、すなわち世界的にも珍しいといわれている自賠責と任意保険の二階建ての保険制度とどう整合させるかという問題に直面しかねないが、この問題を論じるのも割愛させていただく。

以上、自動運転自動車の事故責任を大雑把に論じただけで、2500字を超えてしまった。ことほど左様に、自動運転自動車に関する法律整備は大ごとである。

 

 

 

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2016年3月 7日 (月)

辺野古沖埋立訴訟の和解成立について

沖縄県名護市辺野古沖の埋め立て承認を巡り、国が沖縄県を訴えた裁判について、3月4日に和解が成立し、和解条項関連資料が公開された。この裁判や背景事情について特に詳しいわけではないが、弁護士として和解条項をみた場合、非常に興味深い。

 

和解条項は要するに、次の2点を柱にしている。

 国と沖縄県双方が、本県に関して提起した訴訟等を全部取り下げ、訴訟外での協議を行う。

 一方で、沖縄県が行った埋立承認取消処分については、国と沖縄の双方が必要な法的手続を進め、協議が調わず裁判所の判決が確定した場合には、これに従うことを確約する。

 

市井の弁護士が日常関わる和解条項に比べると、①も②もあり得ない条項だ。まず、①は当事者同士で話し合う、という内容だが、そもそも話し合いができないから裁判になっているのであるし、双方取り下げて話し合うという約束を、通常は和解とはいわない。和解とは、紛争の終局的解決を意味するからだ。

 

一歩譲って、本件訴訟の当事者は国と地方自治体という、それぞれ責任ある公的団体だから、訴訟外で話し合うという和解もありとしよう。

そうだとしても、②はさらにありえない。なぜなら、一般国民や一般弁護士から見れば、裁判結果が出れば従うのが当たり前だから、わざわざ「判決に従います」という和解条項を設ける意味がないからだ。

 

この条項には、裁判所の強い政治的意図が込められていると思う。その意図からすれば、今回和解が成立したことで、最も喜んでいるのは裁判所ではないだろうか。

 

本件訴訟で和解が成立しなければ、裁判所は判決を出さなければならない。沖縄県敗訴の判決を出した場合、県は様々な訴訟を提起して国に対抗してくる可能性がある。これは、沖縄の米軍基地問題というきわめて政治的な訴訟に裁判所が巻き込まれることを意味するし、裁判所がこれをすべて退けた場合、国に対する沖縄県(民)の怒りは政府ではなく裁判所に向けられるだろう。国民全体から見ても、裁判所が政府の走狗に成り下がっているように見られかねない(既になってるじゃないか、という議論は措く)。他方、いかに国を勝たせたいと思っても、そうなるとは限らない。国の処分にミスが出るかもしれないし、知事には広い裁量権があるからだ。もし裁判所が国を敗訴させた場合、政府与党の裁判所に対する圧力が強まるおそれがある。ただでさえ、一票の格差訴訟や婚姻禁止期間違憲訴訟等で、風当たりが強くなっているのだ。つまり、このまま基地問題に裁判所が巻き込まれた場合、裁判所の政治的正統性なり権威なりが低下する可能性が高い。したがって、裁判所としては、本件訴訟で判決を出すことは避けたい。しかし、当事者間での協議がまとまらず、訴訟で決着する事態に再度至った場合には、文句を言わず従ってもらうための布石を打っておきたい。裁判所は、だいたいこう考えたのではないかと思う。

 

紛争が起きたとき、第三者に裁定を委ねる合意を「仲裁合意」という。和解条項の②は、「和解」ではなく「仲裁合意」だ。仲裁合意をとっておけば、文句があっても表向き口に出せない。つまり、国と沖縄県に対し、裁判所が独立かつ終局的な紛争解決機関であること(つまりは裁判所の正統性と権威)を認めさせた点において、裁判所がもっとも実を得たといえる。

 

もっとも、これですべての問題が解決したわけでは、もちろんない。裁判所にとっても同じことである。今回の和解成立は、たとえるなら、大坂冬の陣が終わっただけかもしれないのだから。

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2016年3月 3日 (木)

台湾雑感

弁護士会の会派の親睦旅行で台湾を訪れた日が、たまたま2月28日だった。二・二八事件を記憶するため、台湾が喪に服する日である。

 

1947年2月28日、台北から始まった民衆の暴動は、蒋介石率いる中華民国軍による弾圧と虐殺を招いた。犠牲者数は政府見解ですら、1万8000人から2万8000人とされている。しかし、二・二八事件を知り、台北中心部にある記念公園を訪れる日本人は僅かだ。

 

台湾は、終戦までの50年間、日本の統治下にあった。政治的自由は抑圧されていたが、民主化も少しずつ進んでいたし、経済的にも豊かになりつつあった。終戦後、同胞の中国人から日本を凌ぐ搾取と圧政を受けるとは、思いもしなかったろう。中華民国政府が闇タバコの摘発中に罪なき女性を射殺したことから、台湾人の怒りが爆発する。ラジオ放送を通じて、反乱は台湾全土に広がった。しかし蒋介石は大陸から派兵して暴動を鎮圧し、不満分子やエリートに対する徹底した弾圧を行った。

 

反乱を呼びかけたラジオ放送局は、二・二八記念公園の一角に保存され、公開されている。日本語の解説文もあるし、粛清された裁判官の写真もある。

公園の中央には記念塔があり、円形の基盤には水が張られ、無数の百合が飾られていた。傍に設けられたコンサート会場には大勢の市民が集まり、追悼の演奏会が催されていた。日本の戦前の歌もある。と思って聞いていたら、初老のサックス奏者が『涙そうそう』を演奏しだしたのには驚いた。外国に蹂躙され続けた台湾の哀しみは、沖縄の哀しみと共通するのかもしれない。

後ろでは、「台湾独立」の旗を掲げた若者が、演奏を邪魔しないよう、無言で練り歩いていた。ぴりぴりした雰囲気はないし、カップルや子ども連れも多い。怒りというより、悲しみを静かに共有したいという空気が伝わってくる。

 

二・二八記念公園のわずか2ブロック先には、蒋介石を祀った中正(蒋介石の本名)記念堂がある。白亜の大理石で飾られた本堂には、蒋介石の巨大な座像が安置されている。衛兵の交代式は圧巻で、観光名所の一つであり、日中の観光客であふれていた。対日賠償請求を放棄した蒋介石を、恩人と慕う日本人は多い。

だが、台湾人の評価は複雑だ。蒋介石は数度の戦争で中国共産党を退けて台湾を守り、今に続く経済的繁栄の基礎を築いた。他方、台湾にはわずか13%しかいない「外省人」(中国大陸からの移住者)の頭領にして、二・二八事件の最高責任者であり、80年代まで戒厳令を敷き自由を抑圧した人物でもある。

しかも、彼は台湾を愛していなかった。遺体は台湾の土に還ることを拒み、しかし帰郷も許されず、未だ埋葬されていない。

 

蒋介石の座像の真下、つまり中正記念堂の一階では、「抗日戦争特別展」が開催されていた。会場の中心には、日本と中国大陸を描いた巨大なジオラマが設置され、大陸のあちこちには赤い火柱が立っていて、戦闘や日本軍による破壊、虐殺があったことを示している。一方日本の本土では、ワタでできたキノコ雲が二つ、広島と長崎に貼りつけられていた。解説文には、抗日戦争を戦った蒋介石を讃える文言が記載されている。政権交代を控える台湾人に配慮し、大陸(中国共産党)との連帯を訴える展示だが、階上の蒋介石や、日本と戦った記憶のない台湾市民は、どう見るのだろうか。

 

台湾の心は複雑だ。日本への愛情は本物だが、それは、最愛の同胞に裏切られた悲しさと一体のものだと思う。

 

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