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2016年5月16日 (月)

司法試験統一試験制度廃止の予兆

5月11日の報道によると、今年度の法科大学院志願者数ははじめて1万人を割り、8274人となった。また、同日の報道では、法科大学院の今年度入学者数は過去最低を更新して、1857人となった。このうち、入学定員を満たしたのはわずか2校という。

 

しかし、志願者が8274人もいるのに、入学者が1857人で入学定員を満たしたのがわずか2校というのは、計算が合わない。その意味するところは、志望者一人平均3校以上掛け持ち受験をしているということである。頭数に換算すると、志願者数は3000人前後か、それ以下であろう。

 

私が司法試験を受験したときの志願者数の頭数は、3万人前後だった。当時に比べ、合格者数は3倍を超えたのに、志願者は十分の1以下。予想されたこととはいえ、法曹養成制度の失敗は、目を覆うばかりである。

 

ところで、今年は、2013年に法曹養成関連閣僚会議が5年計画を公表してから3年目になる。この計画が「現状の5年維持と共通到達度確認試験の試行」が柱であり、その先に「共通到達度確認試験合格者の短答式試験免除」があることは、すでに指摘したとおりだ。

 

この指摘に対しては、「深読みのしすぎ」とか、「的外れ」とかいう意見もあったようだが、どっこい、平成27年中、「共通到達度確認試験システムの構築に関する調査検討会議」が文科省で5回開催され、その中で同試験の「平成30年度からの本格実施」が目標とされている。また、平成27年7月6日付「共通到達度確認試験システムの構築に向けた調査検討会議」の文書には、「平成27630日の法曹養成制度改革推進会議では、将来的に確認試験の結果に応じて司法試験短答式試験を免除することを想定することについても記載されており、本格実施の際にはこのことについても十分配慮する必要がある」と明記されている。

 

すなわち、2013年の法曹養成関連閣僚会議が公表した5カ年計画は、「平成30年度の共通到達度確認試験の実施と短答式試験の廃止に向けて、着々と進行している。官僚制度を甘く見てはいけない。「閣僚会議」という行政ほぼ最高レベルの決定である以上、適当な思いつきでも、無責任な問題の先送りでもない。文部官僚は、必ずやこれを実現しようとするだろう。もちろん抵抗はあるから、今後2年間が正念場になる。

 

文科省が目指していることは、例えるなら「法科大学院の大学医学部化」である。すなわち、共通到達度確認試験に合格して卒業した者の大半(おそらく9割以上)が法曹資格を取得する制度だ。そのためには、共通到達度確認試験に合格した者は司法試験を免除されるか、それとも、9割以上の合格率を事実上保障されることが必要となる。

 

しかし他方、司法試験を管轄するのは法務省だから、「法科大学院の大学医学部化」を実現するためには、共通到達度確認試験合格者の質を確保する必要がある。そのためには、試験のレベル設定が重要となるが、現在の志願者激減状況からすると、従前の司法試験並みのレベル設定は、(法科大学院サイドからの反発も予想され)、実現しがたいだろう。文科省にとって「正念場」と書いたのはここからだ。

 

この2年の間に、「共通到達度確認試験合格者の9割は司法試験に合格するようにしてくれ」という文科省サイドと、「司法試験の合格レベルを下げることはできない」という法務省・最高裁サイドとのつばぜりあいが生じる。最終的には、政治決着に持ち込まれる可能性が高い。「閣僚会議」で言質を取った文科省にアドバンテージがあるし、政治力では文科省の方が強いから、法務省・最高裁サイドは、一定の政治的決断を迫られることになる。

 

さて、ここから先は多少大胆な予想であることをお断りしておく。法務省と最高裁は、共通到達度確認試験の本格導入に伴い、裁判官と検察官採用試験を導入する可能性がある、と私は考えている。それはおそらく、共通到達度確認試験合格者には無条件で弁護士資格を与え、裁判官・検察官志望者には論文試験受験義務を課す方法だろう。もちろん、ほかの制度になるかもしれない。いずれにしろポイントは、統一試験制度が廃止される、ということだ。

 

もちろん、法務省や最高裁内部にも抵抗があろう。だが私は、究極の選択を迫られれば、法務省と最高裁は統一試験制度の廃止に踏み切ると予想する。なぜなら、共通到達度確認試験に合格しただけの人材では、キャリア官僚に対抗できないからだ。

 

法務省と最高裁にとって、裁判官と検察官の公認された知的レベルがキャリア官僚と同程度以上であることは、絶対に譲れない最終防衛線なのである。

 

 

 

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2016年5月 9日 (月)

自動運転自動車に関する警察庁の調査研究報告書について(2)

47日、警察庁が『自動走行の制度的課題関する調査研究報告書』を公表したことと、報告書全192ページ中、法律上の責任には3ページしか割かれていないことについては、4月11日のエントリでご紹介したとおりである。

3ページしかない「法律上の責任」の内容を見ると、掲載順に、「刑事上の責任」については27行、「行政法規上の義務」については60行、「民事上の責任」については11行となっている。少なくとも行数からだけみると、警察は、行政法規上の義務について、最も高い関心を持っていることが分かる。民事上の責任に対する関心が薄いのは、警察だから当然としても、行政法規上の義務より刑事責任に対する関心が薄いのは、意外のような気も、正直なような気もする。

それはさておき、「行政法規上の義務」に対する記述は、次の各論点に触れている。

1 車両の点検・整備の義務について

2 自動走行システムのセキュリティ確保に係る義務について

3 運転免許制度等の在り方について

4 交通事故時の救護・報告義務について

5 運転者以外の者に係る義務について

(1)自動走行車に乗車する者に係る義務について

(2)他の道路利用者に係る義務について

それぞれに興味深い論点ではあるが、筆者は天邪鬼なので、どうしても、この報告書が取り上げなかった論点に関心が行ってしまう。なぜなら、道交法等の定める行政法規上の義務は、これだけではないからだ。

道路交通法は、運転者等に対して、数多くの義務を掲げている。たとえば7条は、「道路を通行する歩行者又は車両等は、信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等(前条第一項後段の場合においては、当該手信号等)に従わなければならない」と定めている。これ一つとっても、自動運転自動車との関係では、問題山積だ。

道路交通法施行令によると、青の意味は「直進し、左折し、又は右折することができる」、黄の意味は「停止位置をこえて進行してはならないこと。ただし、黄色の灯火の信号が表示された時において当該停止位置に近接しているため安全に停止することができない場合を除く」、赤は「停止位置を越えて進行してはならない」。だが実際は、「黄色の但書」がとても柔軟に運用されていることは、ドライバーならご承知だろう。また、初心者や自動車教習所の自動車がやたら律儀に信号を遵守すると、円滑な通行をかえって阻害することもある。したがって、自動運転自動車が、道路交通法の規定を律儀に遵守することは、円滑な通行を乱し、かえって、周りの有人運転自動車による事故を誘発する危険がある。

さらに重要な問題は、信号の注視義務だ。法文には明記されていないが、当然の前提として、運転者は信号の表示を「目視」することが求められている。だが、あなたがたとえば普通乗用車の運転者であるとして、直前に大型コンテナを積んだトラックが信号待ちをしていて、信号機が見えないとき、その信号が青に変わったということを、あなたはどうやって認識するだろうか。多くの人は、前のトラックが動き出せば、実際に信号が見えなくても、「青になった」と考えるだろう。

では、自動運転自動車は、自らが青信号を「目視」しない限り、発進してはならないとプログラムされるべきだろうか。それとも、「前の自動車が動き出したら、信号が青に変わったと考えてよい」とプログラムすることは許されるだろうか。道路交通法の趣旨に合致しているのは後者だが、さらに後ろの運転者がイライラするのは自明だし、実際、追突事故が多発するだろう。また、もし万一、前の自動車が信号無視をしていたときは、どうなるのだろう。

一つの解決方法として、信号機に、表示する色に合わせた電波を発信させる、ということが考えられる。これは送受信機の規格を統一することと、全国の信号機に発信器を取り付ける膨大な工事が必要だ。予算措置が伴うので、警察庁としては歓迎だろう。

いずれにせよ、信号機一つとっても、自動運転自動車と行政法規との調整には、大変な問題がある。その重要度は、車両の点検整備義務なんかより、遙かに高い。もちろん警察庁も、分かっているに違いない。分かっているけれども、監督官庁としての方向性が決まっていないので、報告書に取り上げなかったものと思われる。

 

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2016年5月 4日 (水)

憲法記念日の日経社説の詭弁について

 

憲法記念日の日本経済新聞は、「憲法と現実のずれ埋める『改正』を」と題する社説を掲げた。

最高裁判所が出した過去10件の違憲判決の半分が、21世紀になってなされた、つまり憲法施行後69年中、過去16年間になされたのは、「現憲法と現実のずれが年々大きくなってきていることのあらわれといえまいか」としている。

この論理は正しいだろうか。

まず、過去10件の違憲判決と判決年は、次のとおりである。合わせて、憲法違反とされた法律と、該当する憲法条文を掲げる。

尊属殺人重罰規定違憲判決 1973年 刑法 憲法14条1項
薬事法距離制限規定違憲判決 1975年 薬事法 憲法22条1項
衆議院定数配分規定違憲判決 1976年 公職選挙法 憲法14条
衆議院定数配分規定違憲判決 1985年 公職選挙法 憲法14条1項
森林法共有林分割制限規定違憲判決 1987年 森林法 憲法29条
郵便法免責規定違憲判決 2002年 郵便法 憲法17条
在外邦人の選挙権制限規定違憲判決 2005年 公職選挙法 憲法15条1項、3項、43条1項、44条
非嫡出子の国籍取得制限違憲判決 2008年 国籍法 憲法14条1項
非嫡出子の法定相続分規定違憲判決 2013年 民法 憲法14条1項
女性の再婚禁止期間制限違憲判決 2015年 民法 憲法14条、24条

確かに、過去5件の違憲判決は、2000年以降に出されている。

しかし、10年刻みで見ると、1947年から69年までは0件、1970年代が3件、80年代が2件、90年代が0件、2000年代が3件、2010年代(6年)に2件だ。折れ線グラフにすると右肩上がりではなくM字型となるから、「現憲法と現実のずれが年々大きくなってきている」とはいえない。

また、これらの判決が「現憲法と現実のずれ」を示すものか、についても検証が必要だ。社説の論旨によれば、後の違憲判決になるほど、「現憲法と現実のずれ」を象徴しているものになるはずであるが、はたしてそうだろうか。

女性の再婚禁止期間制限違憲判決(2015年)は、女性についてのみ再婚禁止期間があること自体は合理的としつつ、「医療や科学技術が発達した今日においては」100日を超える部分が長すぎるとしたものだ。非嫡出子の法定相続分規定違憲判決(2013年)は、非嫡出子の法定相続分が嫡出子の半分とされているのは、平等原則に反するとしたものだ。非嫡出子の国籍取得制限違憲判決(2008年)は、国籍取得制度が国によって違うため、無国籍になってしまう場合があることを非合理としたものだ。在外邦人の選挙権制限規定違憲判決(2005年)は、在外邦人の選挙権を制限する公職選挙法の規定を、憲法の民主主義原理に反するとしたものだ。郵便法免責規定違憲判決は、郵便物の事故につき、国の損害賠償責任を大幅に免除・制限した郵便法の規定が、国家賠償責任を定めた憲法17条に違反するものとしたものだ。

結論から言うと、21世紀に入ってからなされた5件の違憲判決は、「現実と憲法のずれ」を示すものでは全くない。5件のうち、非嫡出子の国籍取得制限違憲判決、郵便法免責規定違憲判決の2件は、法理論に照らせば、現行憲法施行後、いつ問われても憲法違反を免れなかった事案である。他の3件のうち、非嫡出子の法定相続分違憲判決は、昭和の時代、あるいは20世紀であれば違憲判決は出なかったかもしれない。これは夫婦や家族の在り方に対する社会認識の変化が、違憲判決を促した例ともいえる。在外邦人選挙権制限規定違憲判決と、女性の再婚禁止期間違憲判決は、郵便事情や妊娠検査技術が成熟していなかった時代には一定の合理性があった規定も、技術の成熟により合理性が維持できなくなった事例である。後3者をまとめると、「法律が現実とずれ」たのに、法改正をしなかったため、憲法違反とされたものだ。「現実が憲法とずれ」たからではない。念のために付け加えると、20世紀になされた5件の違憲判決も、「現実が憲法とずれ」たから出たものではない。

日経社説の論破としては、これで十分だろう。一見もっともらしいが、その実誤った理屈を述べることを「詭弁」という。「現憲法と現実のずれが年々大きくなってきている」との日経社説の主張は、典型的な詭弁と言うほかない。それから本稿は、憲法を改正すべきとの結論に対しては、全く言及していないから念のため。

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