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2016年8月29日 (月)

完全自動運転自動車が想定すべき「乗降時の転倒」について

7月25日の日本経済新聞によると、経済産業省と国土交通省は2018年に、自動運転車を使った送迎サービスの実証実験を始めると発表した。運転できない高齢者が通院や買い物ができるように、高齢者の自宅と病院や商店街の間に自動運転車用の道路を整備する。公共交通網が十分でない地方での実用化の可能性を探る、という。

自動運転自動車には、Google Carなどの完全自動運転自動車と、Teslaのような不完全自動運転自動車がある。このうち、わが国において、完全自動運転自動車の早期実装が求められているのは、高齢者の送迎サービスだ。

昭和30年、40年代、都市近郊に多くの新興住宅地が開発され、一戸建てを求める多数の若夫婦が入居した。彼らは一斉に年を取るので、新興住宅地はいま、急激な高齢化を迎えている。多くの新興住宅地は駅から遠いので、自動車は必需品だが、高齢者の運転には事故の危険がつきまとう。また、多くの場合夫が先発つので、運転免許を持たない妻が遺される。現在はミニバスを巡回させるなどの公共サービスが対応しているが、運転手の確保と人件費が行政の負担となっている。しかも、高齢者が亡くなったり、施設に入ったりして空き家ができても、人口減少中のわが国では、子どもが家を継がない。そのため過疎化が進行し、行政サービスすら維持できなくなってくる。かといって、移動が困難になった高齢者を都心に転居させたり、施設に収容したりする財政的余力はない。

新興住宅地における、完全自動運転自動車による送迎サービスの需要がここに存在する。具体的には、各家庭にコンソールボックスを置き、住人が行きたい場所のボタンを押すと、数分後には迎えの自動車が来る。複数の住人が同じ場所のボタンを押せば、配車役の人工知能が最適ルートを考えて相乗りしてもらう。これをたとえるなら、ビルのエレベーターは「上下」という一次元の世界における、相乗りを前提とする公共交通システムといえるが、完全自動運転自動車の送迎サービスシステムは、住宅地という二次元世界のエレベータシステムといえる。

高齢化した新興住宅地はもともと自動車が少ないうえ、幹線道路とのみ接続する「閉じた」地域であって、外部自動車の進入がまれなので、自動車同士が衝突するリスクは低い。高齢者の送迎が主目的だから、運行速度は時速20㎞程度でよい。車体も、ゴルフカートよりはましという程度でよいから、コストも安い。完全自動運転自動車を社会実装するうえでは、理想的な環境であるともいえる。

もちろん、課題もある。最大のリスクは、「乗降時の転倒」とりわけ「降車時の転倒」だ。新興住宅地の多くは山を削って作ったので坂が多い。道路の舗装も古くなっている。そのため、坂に停車した自動車に乗降しようとする高齢者が、小さな段差につまずいて転倒する事故が想定される。些細な転倒でも、余生を寝たきりで過ごすきっかけになりうるので、軽視できない。

技術的な解決策としては、自動車の人工知能に路面の状態を観察させ、安全な場所に停車させることが考えられる。気の利いたタクシー運転手などは普通に行っているサービスだが、現在の技術水準では、かなり難しい。確実かつ安価な方法としては、安全な乗降場所にRFIDやマーカーを埋め込んでおく方法もある。だが、この方法では、これらのない場所での乗降に対応できない。また、乗降時の転倒、特に降車後の転倒を検知するシステムも必要だ。高齢者が降車したあと転んだのに、送迎した自動運転自動車が走り去ったため死亡したというような事件が起これば、運営主体の法的責任が問われうると同時に、自動運転自動車の普及に対する大きな障害となりうる。

法律家は、自動運転自動車の事故というと、トロッコ問題にばかり目を向けがちであるが、実際には、このような地味なリスクを指摘していくことが大事かもしれない。

 

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2016年8月23日 (火)

弁護士による不祥事と「弁護士自治」との関係について

日弁連事務次長の吉岡毅弁護士が、8月1日付日弁連新聞に『弁護士自治確保への課題~市民や社会の信頼を維持するために~』という文章を寄せている。

論旨としては、「弁護士がその使命である人権擁護と社会正義を実現するためには、いかなる権力にも屈することなく自由独立でなければならない、ということから、『弁護士自治』が認められている。しかし、相次ぐ預り金着服などの不祥事は、弁護士会や弁護士に対する市民や社会の信頼を失わせ、ひいては弁護士自治の基盤が掘り崩されかねないから、被害者見舞金制度などの創設が必要」というものである。

結論の被害者見舞金制度については異論もあるが、結論に至る弁護士自治と不祥事との関係については、弁護士業界内でよく耳にする、常識に属するものといってよいだろう。

だが、私はこの常識を疑う必要があると考える。吉岡弁護士の言う不祥事と弁護士自治の関係は、間違いかもしれない。少なくとも、飛躍があると思う。

日弁連は「市民」が大好きだから、市民目線で素直に考えてみてほしい。預り金の着服は、明らかな違法行為であり、犯罪でもあって、どのような理由があろうが、やってはいけないものである。弁護士には、社会的批判を無視してでも断行すべき職業倫理もあるが、預り金着服とは別次元の問題だ。このような「明らかに違法な」不祥事については、必要に応じ刑事手続に付すべきことはもちろん、当該弁護士の適格性や、弁護士全体としての再発防止、倫理性の維持も、問われなければならない。その実施機関は、弁護士会であってもよいが、なくてもよい。重要なことは、弁護士による法律業務独占を裏打ちするため、一定の質や適格性・倫理性の維持を適切に図ることであって、その実施機関を誰にするか、ではない。いいかえれば、預り金を着服した弁護士の懲戒権を弁護士会が排他的に独占することが、唯一無二の選択ではない。つまり、弁護士の不祥事防止と、弁護士自治(懲戒権の独占)との間に、直接の関係はない。まして、預り金の着服を防止することと、弁護士が「いかなる権力にも屈することなく自由独立でなければならない」こととは、なんの関係もない。だから、不祥事が弁護士自治の基盤を掘り崩すという「常識」には、論理の飛躍がある。平たくいえば、「国家権力による弁護士活動妨害を排除するため、預り金を着服した弁護士の懲戒権を弁護士会が独占しなければならない」と言っても、「市民」に対する説得力はない、ということだ。

もちろん、裁判所や法務省などの他機関に弁護士懲戒権を持たせると、預り金着服のような明らかな違法行為だけではなく、たとえば政治犯の弁護を妨害する目的で、懲戒権を濫用する可能性は否定できない。しかしそれは、適正な運用を図るための制度設計と運用の問題であるから、懲戒権の一切を弁護士会が独占しなければならないことを意味しない。

それでは、「預り金着服」などの不祥事対策に「弁護士自治」を持ち出すという論理の飛躍は、なぜ発生したのだろうか。

「弁護士自治」という言葉を、国立国会図書館の蔵書検索や、論文検索で調べてみると、森長英三郎弁護士による『弁護士自治の獲得と地位向上の歴史』(自由と正義1975年8月号)が最初である。実は、弁護士会の自治という言葉じたいは、明治時代からあった。だが、「自治」というとき弁護士会が想起するのは、1970年代後半の「弁護人抜き裁判」問題をめぐる騒動なのである。

1960年代後半から頻発した、いわゆる過激派による刑事事件の公判に際して、スピード審理を求める検察側に対し、弁護側が法廷不出頭や辞任・解任などの遅延戦術を採ったため、裁判所が弁護士会に対し懲戒請求を行った。ところが、弁護士会の懲戒手続きが放置されたため、法務省などから弁護士会の自治能力欠如が批判され、いわゆる「弁護人抜き裁判」法案の国会提出を招いた。日弁連は当初、弁護士自治に対する不当な介入であるとして、全面対決姿勢を取ったが、後に「世論の動向などに配慮し」、方針転換した(金子武嗣『私たちはこれから何をすべきなのか』)。つまりは、全面対決路線に世論の批判が高まり、このままでは弁護士法が改正され自治権を奪われるとの危惧があると、日弁連執行部が判断したのである。

つまり、「弁護士自治」という言葉は、歴史的には、過激派に対する刑事裁判において、遅延戦術を擁護する文脈と、法廷戦術の濫用をたしなめ、国家権力に介入の口実を与えまいとする文脈の両方において、使われたのである。どちらの立場が正しいかは本稿の趣旨と外れるから触れないが、両者に共通するのは、「政府などの国家権力が、弁護士の法廷戦術の是非を問うことは許されない」という見識だ。私は、この見識は尊重に値すると思う。だが、この見識と、預り金着服などの不祥事防止とは、関係ない。

このように見てくると、預り金着服等の不祥事を防止し、市民の信頼を維持する理屈として、「弁護士自治」という言葉を軽々に使用することは疑問と言わざるを得ない。「弁護士自治」という言葉は、その本質的、歴史的意義を問い直し、「市民」の腑に落ちるように使用する必要がある。先輩弁護士の言葉だからといって、お題目のように繰り返すことは、やめた方がよい。

 

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