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2016年12月26日 (月)

司法修習生に対する給付制度新設について

12月19日、法務大臣は記者会見で、平成29年度から司法修習生に対する給付制度を新設すると発表した。内容は、基本給付として一律月額13.5万円、住宅給付として月額3.5万円、プラス移転給付であるという。初年度予算は10億円だが、平成30年度以降は30億円前後になるという。つまり基本給付13万5000円プラス住宅給付3.5万円、これに旅費約3万円を足すと合計20万円、これに修習生1500人と12ヶ月を乗じると36億円となるが、住宅給付と旅費が不要となる修習生も相当数いることから30億円と試算しているのだろう。これは給費制の事実上の復活ともいえるが、法務省はあくまで「給付制度の新設」と言っている。

記者から、平成23年度に廃止された給費制が僅か6年で事実上復活する理由を問われた法務大臣は、「最近,法曹界に志を持つ若手が減少傾向にあるという話も聞きます。そういう状況をそのままにしておくわけにはいかない」と述べた。下の表からも明らかなように、司法試験に合格しながら修習を辞退した者の割合は、貸与制が実施された平成23年度を機に、それ以前の1~2%から3%台へと上昇しているから、給費制の廃止が修習辞退率の増加につながった可能性は否定できない。その意味では、給付制度の新設が修習辞退率を下げ、「法曹界に志を持つ若手の減少傾向」を食い止める可能性はある。

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だが、修習辞退率が仮に2%下がるとしても、1500人の2%、すなわち数にして30人前後の問題である。30人を呼び戻すために30億円というのは、ちょっと計算が合わない。

ところで、法曹志望者の減少傾向を端的に示しているのは法科大学院の入学者数だ。その数は、平成18年度の5784人から、平成28年度の1857人へと、10年間で実に3分の1以下へ減少している。将来的には、法科大学院生の司法試験全員合格も視野に入るほどだ。学生数の減少に伴う平均学力の低下は、かなり深刻と想像される。給付金制度新設予算の30億円は、むしろ、法科大学院入学者数減少を食い止めるカンフル剤として用意された、と考える方が自然だろう。弁護士の中に、法科大学院制度廃止を唱えながら「給費制復活」を喜ぶ者がいるが、矛盾しているというほかはない。

もっとも、この程度の対策で法科大学院入学者の減少が食い止められるかは、大いに疑問である。下のグラフが示すように、法科大学院入学者は平成20年以降、ほぼ一貫して減り続けており、貸与制実施(給費制廃止)の前後で減少率に変化はない。このことは、法科大学院入学者減少の原因が、貸与制にはないことを示唆している。

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12月23日の読売新聞『論点スペシャル 司法修習生給費、復活の是非』で阪田雅裕元内閣法制局長官は、「法曹志望者の減少や、質の低下という深刻な課題を解決する上では、本質から外れていると言わざるを得ない。給費制復活によって、現状が大きく改善するとは考えにくい」と述べている。私も、予想としては同意見だ。もっとも、やってみなければ分からないことだから、やってみたら良いと思う。

給付制新設の目的が、法科大学院入学者数減少にブレーキをかけることにあるとすれば、喜ぶのは修習生の次に、法科大学院ということになる。「政府決定の背景に法科大学院と文科省がいるのではないか?」と聞いたところ、大阪弁護士会の某有力者は「それはない」と断言していたが、どうだろうか。

司法修習生への給付制新設が報じられる前日、NHK、大学や短大への進学者一人あたり月額2万円から4万円の給付型奨学金制度を導入されると報じた給付条件は司法修習生に比べるとかなり複雑なようだが、12月19日付東京新聞によれば、予算措置としては「将来的に年200億円を超える」という。修習生への給付金に比べれば、予算規模は約7倍である。

大学生への給付型奨学金制度が新設される理由は二つあると思う。一つは、選挙権年齢の引下げに伴う「選挙対策」だ。米大統領選で、苦学生のサンダース票が一部トランプに流れたという噂も、給付型奨学金制度新設の動機の一つかもしれない。しかし、重要なのはもう一つの理由で、大学の経営補助と考える。わが国の大学進学率は平成20年以降、ほぼ50%で横ばいだが、母数となる若年人口が減少の一途なので、進学率が同じであれば進学者数は確実に減り、大学経営を圧迫する。大学入学者を増やし、大学の経営を助けることが、制度新設の最大の目的であろう。

司法修習生に対する「給付制度の新設」と、大学生に対する「給付型奨学金の創設」。発表時期がほぼ同時なのは、予算編成時期だからなので、そこから直ちに関連性があるとはいえない。しかし、それなりの時間をかけて検討してきたであろう二つの制度の開始年度が同一であること、名称が微妙に似ていること、予算規模のバランスなどから考えて、無関係とも思われない。

最後に感想めいたことを付け加えると、私自身は、今回の給付制度新設については、特に感慨はない。その理由の一つは、「司法修習生はなぜ特別扱いされなければならないのか」に関する本質的議論が置き去りにされたままであること、もう一つは、法曹人口問題を風呂釜にたとえると、すでに底が抜けているので、いまさら蛇口まわりを整備しても、どうにもならないからである。

 

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2016年12月12日 (月)

人工知能と身体性について

11月8日のNHKニュースによれば、国立情報学研究所の開発する人工知能で東京大学入試合格をめざす「東ロボくん」が東大挑戦をあきらめた理由は、「意味の理解」にあるという。

たとえば、「センター試験の模試で東ロボくんが間違った問題は、『暑いのに歩いたの?』『はい。のどが渇いた、だから…』というやりとりに続く文章を(呈示された単語を並べ替えて)英語で答えるもの」だという。

英語のできる人間なら” (so) I asked something cold to drink”と回答するところだが、東ロボくんは”(so) cold I asked for something to drink”と誤答することがあるという。東ロボくんは、「暑いのに歩いたの?」から始まる会話の流れを無視して、呈示された単語から、使用される確率の高い組合せを回答するため、ときとして文脈を無視した回答をしてしまう。

研究チームを率いる新井紀子教授自身、東ロボくんに限らずどのAIも、基本的に言葉のパターンを見て統計的に妥当そうな答えを返しているに過ぎません言葉の意味を理解しているわけではないのですと述べている。

問題は、AIがなぜ「言葉の意味を理解できないのか」だと思う。上記の例に則していうと、「暑い」の意味が、なぜ理解できないのか。「たとえば気温30度以上を暑い、と教えればいいじゃないか」という問いに、どう答えるか、ということだと思う。

もとより、「気温30度以上を『暑い』と定義する」とAIに教えることは可能だし、同様に「冷たい」言葉について、「気温または物の温度が10度以下」と定義して教えることも、「同一の会話文では、原則として、発話者の意見が対立する意味で言葉を用いない」というルールを教えることも可能だ。そう教えれば、現代のAIも上記の問題で正答できそうに見える。だが、この教え方では、あらゆる単語について複数の意味と膨大な会話パターンを想定して「定義」と「ルール」を教え込まなければならなくなる。教える側の人間に膨大な作業を強いるうえ、コンピューター側の処理能力も足りない。このやり方では、AIが人類を超える日は、永遠にやってこない。

しかも、このやり方には根本的な欠点がある。それは、たとえば「暑い」という言葉を「気温○度以上」と定義することが間違い、ということだ。旭川の人間と、沖縄の人間とでは、「暑い」と感じる気温は違うだろうし、同じ人間でも、運動中であるか、とか、風邪を引いているか、といった状況によって、「暑い」と感じるか否かは異なる。いいかえると、「暑い」という言葉の意味は、きわめて相対的かつ主観的なものであり、温度計のような客観的な尺度によって定義することが不可能なのである。

「ちょっと待てよ。暑いという言葉が『きわめて相対的かつ主観的なもの』だというなら、なぜ違う人間同士で同じ『暑い』という言葉を使って会話が可能になるのか?」という疑問をお持ちになるかもしれない。それは、人間同士の会話だからである。身体の構造や感覚器の精度が基本的に同じであるうえ、基本的な人生経験(両親がいて、社会があって、赤ちゃんから順に成長する、といったもの)を共通にする者同士だから、相対的で主観的な感覚であっても、相手の意味するところを理解できるのである。

言葉の「真の意味」を理解するには、「身体性」と「経験」が必要だ、ということになる。いいかえれば、「身体性」が異なる生物間のコミュニケーションは、とても困難なものになるだろう。オオコウモリ人は「静か」の意味を理解できないだろうし、テナガグモ人は、「かゆいところに手が届く」の意味を理解できないだろう。

問題はAIである。AIには身体がない。ヒューマノイドの体を与えることはできても、人間の感覚を与えることはできない。したがって、AIは、主観的で経験をもとにした言葉の意味を、人間と同様に理解することはできない。

近い将来、技術革新が起きて、AIの知力が飛躍的に進化することはあるかもしれない。だが、人間と同じ身体性を備えないAIの知力が、人間と同じ方向に進化するとは限らない。人間は、進化の頂点と自惚れているが、それは手足が二本ずつで目が二つ、といった「枠」の中で、それなりに進化したに過ぎない。別の身体を持つテナガグモ人は、人間とは別方向の知力で頂点を極めるかもしれない。

人間と同じ身体をもたないAIの知能は、人間と同じ方向に発展するとは限らない。というより、人間とは違う方向に発展することになる。そのAIが、いつか「人格」を備えたとき、人間との会話は成立するのだろうか。

 

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