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2017年7月10日 (月)

予約キャンセルデータベースの適法性について

飲食店を大人数で予約しながら無断でキャンセルする迷惑な客の電話番号を店舗側で共有して、リスクを軽減するサイト「予約キャンセルデータベース」が話題になっている。

飲食店の無断キャンセルは、キャンセルした客側の違法行為となる可能性があるし、店側の怒りも自衛の気持も理解できる。だが、客の電話番号を無断で共有することに、法律上の問題は無いのだろうか。

このサイトによれば、サイト運営者は弁護士から法律上問題ないとの回答をもらったという。また、記者が個人情報保護委員会に問い合わせたところ、「電話番号しか確認できないシステムですと法律(個人情報保護法)の対象外になる可能性が高い」との回答を得たという。

これらの回答は、電話番号は個人情報にあたらないとの理解を前提にしていると思われる。以下便宜上、携帯電話番号に限定して考えてみよう。

日置巴美氏、板倉陽一郎氏共著の『個人情報保護法のしくみ』によると、大要、「携帯電話番号は、個人契約だけでなく法人契約もあり、プリペイドカード式のものもあるし、短期で変更されることもあるので、「現時点において一概に個人識別符号に該当するとはいえない」とある。

だが、個人情報か否かの問題は、個人識別性の有無の問題だから、契約者が法人であることは本来関係ないと思う。要は、「この電話番号にかけたらこの人と話せる」ということがポイントなのであって、その電話番号を契約している人が誰か、ではない。それに、契約している法人にとって個人情報ではないとしても、個人契約者にとっては個人情報であることはありうる。プリペイドカード式の場合、本人到達可能性は低くなるが、それは顔写真も同じである。顔写真を見ただけで、どこの誰かがわかるのは、本人が有名人でなければ、その人の家族や知人に限られるのだから。顔写真が個人情報であるならば、プリペイドカード払いの携帯電話番号も個人情報ではないのか。また、短期で変更されることもあるから個人情報ではないというなら、旅芸人の住所(居所)だって個人情報ではない(もっとも、個人情報保護委員会のガイドライン上は、住所だけなら個人情報ではない、ということになっているが)。

このように考えてくると、上記の理由で「個人情報ではない」というのは、いささか苦しいのではないだろうか。私としては、「容易照合性」がないゆえに、それだけでは個人情報ではない、という理由付けの方がよいように思う。すなわち、その電話番号と「どこかの誰か」が結びついているとしても、そいつがどこの誰であるかを調べて特定することは、一般的にかなり困難である、という意味において、個人情報ではない、と考える。それならば顔写真も容易照合性がないという点では同一ではないか、との批判もありうるが、顔は取り替えがきかない、という点が違うと考えるべきではないだろうか。

携帯電話番号が個人情報ではないとすると、何も問題は無いだろうか。たとえば、名誉毀損にはならないか。飲食店の無断キャンセルをした、という事実は、キャンセルしたとされる本人の社会的評価を低下させるおそれのある事実だから、名誉毀損の成立するおそれはある。これを否定する論拠としては、「当該携帯電話番号の主が誰であるかを特定していない以上、名誉毀損にならない」との考え方もあろうが、本人特定性がないから名誉毀損にならない、と考えた場合、たとえば、無断キャンセルの事実がないのに悪意で登録したような場合にも、名誉毀損にならないことになるが、それでよいだろうか。私としては、「飲食店の無断キャンセルという、違法の疑いの強い行為が事実である以上は、その番号を登録され共有される程度のことは、電話番号主の受任すべき限度内にある」と考える。

電話番号主が代わったときどうすべきか、という問題もある。なにしろ、その携帯電話番号は、飲食店の予約をしようとしても、ことごとく満席との返事が返ってくるという、「呪いがかかった番号」なのだ。番号主が代わったときには、この呪いを解く仕組みが必要ではないだろうか。

 

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2017年7月 5日 (水)

70期司法修習生に贈った言葉

6月末、司法修習委員会の副委員長として、弁護修習を修了した70期司法修習生に対して挨拶を述べた。そのとき言ったことを、記しておく。

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弁護修習の修了おめでとうございます。これで皆さんは、刑事裁判修習、検察修習、弁護修習を終え、裁判所、検察庁、弁護士を一通り回ったことになります。

この機会に、一つ考えてほしいことがあります。皆さんは、裁判所でも、検察庁でも、修習先の法律事務所でも、たいへんよくしてもらったことと思います。でも不思議だと思いませんか。皆さんの大半は、弁護士になるのに、裁判官も検察官も、親身になって、実務を教えてくれたり、内部事情を見せてくれたりしたことと思います。

それは、修習担当の弁護士も同じです。皆さんは、その事務所に就職するわけでもないのに、担当の弁護士は、忙しい時間を割いて、様々な経験をさせてくれたことと思います。もちろん無償です。考えてみれば、不思議なことだと思いませんか。

私は皆さんに恩を売っているわけではありません。私たちも、同じことを先輩にしてもらったのですから。でも、このような好意は、なぜ先輩から後輩に受け継がれているのでしょうか。そこを不思議に思ってほしいのです。

司法修習生になった者に対して、その志望にかかわらず、裁判所、検察庁そして弁護士会が共同して指導することを「統一修習」といいます。この制度は、昭和22年に始まりました。同時に、司法修習生に対する給費制も始まりました。これらの制度設計を行ったのは、内藤頼博という裁判官です。日本の財政が破綻していた当時のことですから、民間人となる弁護士にまで国費で修習を行い給費まで支給することについては、大蔵省が頑強に抵抗しました。内藤頼博裁判官は、これを押し切って統一修習と給費制を導入したのです。

もとより、大蔵省の抵抗を抑えたのは、内藤頼博裁判官一人の功績ではありません。その背後にはGHQがいました。そして、GHQが日本政府の決定に介入できた法的根拠であるポツダム宣言には、「日本の民主主義的傾向を復活すること」と書いてあります。つまり、GHQは、日本の民主主義的傾向を復活させるために、統一修習と給費制を導入しようとする内藤頼博裁判官を後押しした、ということになります。

皆さんには、ここで新たな疑問を持ってほしいと思います。GHQが日本の民主主義的傾向を復活するというのは分かる。でも、そのために例えば普通選挙制度を導入するというのならともかく、統一修習や給費制度が、日本の民主化と何の関係があるのか、という疑問です。

私は、その正解を申し上げるつもりはありません。ここで申し上げたいのは、第一に、GHQと内藤頼博裁判官、そして、戦後の司法改革を実践した法律家たちは、その疑問に対する答えを明確に持っていた、という点です。第二に、その答えは、われわれ現代の法律家の間では、すっかり失われてしまった、ということです。

われわれは、統一制度と給費制がなぜ日本の民主化のため必要なのか、その答えを忘れてしまいました。しかし、それで別に困りませんでした。なぜなら、先輩から受け取ったものを、後輩に受け継いでいけば、それでよかったからです。

しかし、皆さんは違います。皆さんは、われわれ先輩から何かを受け取るでしょうが、それを後輩に受け継ぐことは、おそらくありません。皆さんがわれわれの立場になるころ、司法修習制度は、残っていたとしても、現在の姿ではありません。内藤頼博裁判官らが導入した司法修習制度は、崩壊しつつあります。そのことは、給費を受けることのできなかった皆さんが、肌で理解していることと思います。

皆さんは、先輩から受け取ったものを、後輩に受け継ぐことのできない世代として、是非、これらの疑問の答えが何か、考えてください。戦後の司法修習制度が終わりを迎えつつある今、皆さんの世代に課せられた使命であると考えます。

 

 

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2017年7月 3日 (月)

法律家からみた『ハクソー・リッジ』

ハクソー・リッジ』を観た。ネタバレとなるが、感銘を受けた点と、残念だった点を一点ずつ述べたい。

感銘を受けた点は、主人公が軍法会議で無罪となった理由である。

時は第二次世界大戦。「汝、殺すなかれ」との聖書の教えにとりわけ忠実であるが故に、良心的兵役拒否者であることを認められていたデズモンドは、自分だけ戦火を避けて生きていけないと考え、衛生兵を志願して入隊する。だが、衛生兵も銃の撃ち方を習得しなければならないのに、それすら拒否したため、軍法会議にかけられるが、無罪となる。感銘を受けたのは、無罪の理由だ。

「自らの良心に基づいて兵役を拒否する自由が合衆国憲法上の権利である以上、兵役に就きつつ銃に触れない自由も憲法上の権利である。」映画館で一度聞いただけであるゆえ不正確だと思うが、おおむねこんな理由である。

この理由は、法律家からみても、極めて論理的である。ただし、法論理的には、唯一無二の結論ではない。「自らの良心に基づいて兵役を拒否する自由が合衆国憲法上の権利である」との同じ前提から出発しても、「良心的自由を守るためには兵役拒否の自由を認めれば足り、兵役に就きつつ銃に触れない権利まで認める必要はない(から有罪)」との結論も採りうるからだ。つまり、法論理的には無罪有罪どちらの結論もありうるのであり、どちらを選ぶかは法論理を離れた価値選択の問題となる。

では、「良心的兵役拒否の権利」から「兵士でありながら銃に触れない権利」を導き出した価値観とは何か。それは、多数の意思に反していても、個人の信念を尊重するという、「多様性の尊重」の徹底である。いうまでもなく、金輪際銃に触れない兵隊が一人でもいることは、軍にとって迷惑至極であり、他の兵士の命にかかわる問題だ。それにもかかわらず、多様性の尊重を徹底した米軍の判断は、もはや信仰に近い。「多様性教」の原理主義者である。

ところが、この原理主義的判断は、戦場で意外な結果をもたらす。自分の命を顧みず負傷兵の救助に奔走するデズモンドは、兵士の厚い信頼を獲得する。もはやデズモンドの従軍なしでは戦えないと言い出す始末。デズモンドは宗派上の安息日であるにもかかわらず従軍を承諾し、かくして部隊は最後の決戦に挑むのだった。

だが、この展開は矛盾をはらんでいる。デズモンドが助けてくれると思うからこそ、兵士は勇敢に戦うことができる。いいかえれば、人殺しに専念できるということだ。つまりデズモンドは、「汝殺すなかれ」との教義を徹底することによって、他人の人殺しを助けていることになる。部隊は決戦で勝利し、負傷して搬送されるデズモンドを、まるで十字架の上のキリストのようなアングルから撮影した画面で、映画は終わる。

上記の矛盾は、映画の中では明確には指摘されない。しかし、メル・ギブソン監督ら制作陣が、この矛盾に気づいていないとは思われない。むしろ、この矛盾をはらんだ多様性を受容する寛容さこそ、力の源泉である、と主張したいのだと思う。

残念な点は、戦闘シーンのリアリティがいささか欠けたことだ。突撃の際、固まりすぎる。機関銃の一連射で5人も6人も倒されるようでは、兵隊がいくらいても足りない。しかも自動小銃を撃ちながら走り回るのでは、誤射される味方の数は半端ないだろう。米軍が「ハクソー・リッジ(=ノコギリ崖)から、縄梯子を残して全員退却してしまうのも、やや興ざめであった。崖の上を守る日本軍としては、縄梯子を切り落として当然なのに、それもしない。演出の意図としては、おそらく、崖の上の戦いの宗教的意味を強調したかったのだと思う。

結局のところ、『ハクソー・リッジ』は戦争映画でも、ヒューマンドラマでもなく、宗教映画なんだと思う。その宗教とは、合衆国憲法(の精神)であり、その法解釈論が縦軸になっているという点で、とても印象深い映画であった。

 

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