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2017年7月 3日 (月)

法律家からみた『ハクソー・リッジ』

ハクソー・リッジ』を観た。ネタバレとなるが、感銘を受けた点と、残念だった点を一点ずつ述べたい。

感銘を受けた点は、主人公が軍法会議で無罪となった理由である。

時は第二次世界大戦。「汝、殺すなかれ」との聖書の教えにとりわけ忠実であるが故に、良心的兵役拒否者であることを認められていたデズモンドは、自分だけ戦火を避けて生きていけないと考え、衛生兵を志願して入隊する。だが、衛生兵も銃の撃ち方を習得しなければならないのに、それすら拒否したため、軍法会議にかけられるが、無罪となる。感銘を受けたのは、無罪の理由だ。

「自らの良心に基づいて兵役を拒否する自由が合衆国憲法上の権利である以上、兵役に就きつつ銃に触れない自由も憲法上の権利である。」映画館で一度聞いただけであるゆえ不正確だと思うが、おおむねこんな理由である。

この理由は、法律家からみても、極めて論理的である。ただし、法論理的には、唯一無二の結論ではない。「自らの良心に基づいて兵役を拒否する自由が合衆国憲法上の権利である」との同じ前提から出発しても、「良心的自由を守るためには兵役拒否の自由を認めれば足り、兵役に就きつつ銃に触れない権利まで認める必要はない(から有罪)」との結論も採りうるからだ。つまり、法論理的には無罪有罪どちらの結論もありうるのであり、どちらを選ぶかは法論理を離れた価値選択の問題となる。

では、「良心的兵役拒否の権利」から「兵士でありながら銃に触れない権利」を導き出した価値観とは何か。それは、多数の意思に反していても、個人の信念を尊重するという、「多様性の尊重」の徹底である。いうまでもなく、金輪際銃に触れない兵隊が一人でもいることは、軍にとって迷惑至極であり、他の兵士の命にかかわる問題だ。それにもかかわらず、多様性の尊重を徹底した米軍の判断は、もはや信仰に近い。「多様性教」の原理主義者である。

ところが、この原理主義的判断は、戦場で意外な結果をもたらす。自分の命を顧みず負傷兵の救助に奔走するデズモンドは、兵士の厚い信頼を獲得する。もはやデズモンドの従軍なしでは戦えないと言い出す始末。デズモンドは宗派上の安息日であるにもかかわらず従軍を承諾し、かくして部隊は最後の決戦に挑むのだった。

だが、この展開は矛盾をはらんでいる。デズモンドが助けてくれると思うからこそ、兵士は勇敢に戦うことができる。いいかえれば、人殺しに専念できるということだ。つまりデズモンドは、「汝殺すなかれ」との教義を徹底することによって、他人の人殺しを助けていることになる。部隊は決戦で勝利し、負傷して搬送されるデズモンドを、まるで十字架の上のキリストのようなアングルから撮影した画面で、映画は終わる。

上記の矛盾は、映画の中では明確には指摘されない。しかし、メル・ギブソン監督ら制作陣が、この矛盾に気づいていないとは思われない。むしろ、この矛盾をはらんだ多様性を受容する寛容さこそ、力の源泉である、と主張したいのだと思う。

残念な点は、戦闘シーンのリアリティがいささか欠けたことだ。突撃の際、固まりすぎる。機関銃の一連射で5人も6人も倒されるようでは、兵隊がいくらいても足りない。しかも自動小銃を撃ちながら走り回るのでは、誤射される味方の数は半端ないだろう。米軍が「ハクソー・リッジ(=ノコギリ崖)から、縄梯子を残して全員退却してしまうのも、やや興ざめであった。崖の上を守る日本軍としては、縄梯子を切り落として当然なのに、それもしない。演出の意図としては、おそらく、崖の上の戦いの宗教的意味を強調したかったのだと思う。

結局のところ、『ハクソー・リッジ』は戦争映画でも、ヒューマンドラマでもなく、宗教映画なんだと思う。その宗教とは、合衆国憲法(の精神)であり、その法解釈論が縦軸になっているという点で、とても印象深い映画であった。

 

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コメント

私もこの映画は初日に見ました。
なかなか見ごたえがあり感銘を受けたのですが、
じわじわと評価も上がってきているようですね。

投稿: やっこさん | 2017年7月 3日 (月) 11時38分

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