2017年11月13日 (月)

給費制は二度死んだ

平成291017日、日弁連会長名義で各弁護士会会長宛、「司法修習第71期以降の会員に対する社会還元活動を推進するための手当(取組)について(要請)」と題する文書が交付された。

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この文書は、71期以降の修習生に対する「経済的支援制度」の発足を受け、各弁護士会から71期以降の会員弁護士に対して、「社会還元活動の意義・重要性やこれまでの実績を伝えるなどし、社会還元活動を積極的に行うよう要請」することと、「弁護士・弁護士会の社会還元活動を広く市民に認識してもらうため」の広報を行ってほしいと要請するものである。

この要請文を受け、給費を受けられなかった65期から70期までの弁護士(いわゆる谷間の世代)からは、「ボクらは社会還元活動をしなくていいんだね」という声が上がったり、71期の弁護士からも「給費はいらないから、社会還元活動を免除してもらおう」という声が出たりしていると聞く。

情けない話である。情けないのは、修習生ではない。こんな文書を出す日弁連が、情けない。

経緯と背景をおさらいしておこう。

法務省のサイトには、平成281219日付「司法修習生に対する経済的支援について」と題するページがある。これによれば、71期以降の司法修習生に対する「経済的支援となる給付制度を実施すること」が確認されるとともに、「法務省、最高裁判所及び日本弁護士連合会は、新制度の円滑な実施に協力するとともに新たな制度の導入後は同制度について継続的かつ安定的に運用していくこととする。」とされ、確認項目の4個目に、「司法修習を終えた者による修習の成果の社会還元を推進するための手当てを行う。」と記載されている。

冒頭の文書は、この確認事項を受けたものである。

しかし、この文章では、「司法修習を終えた者」は弁護士に限らず、裁判官や検察官を含むし、「修習の成果の還元」も、意味が今ひとつ分からない。

そこで国会の資料を見ると、たとえば、平成29年3月21日の衆議院法務委員会では、國重徹議員(公明党)が「現在のこの厳しい財政状況下において、修習給付金制度の創設に対する国民、納税者の理解を得るためにも、この法曹三者の確認にあるように、修習給付金の支給を受けて弁護士となった者が、修習を通じて得た知識や能力を遺憾なく発揮して広く社会で公共的、公益的な使命を十分に果たしていくべきだ、私もそう考えます。それでは、修習の成果の社会還元を推進するための手当てに関する検討状況について答弁を求めます。」と質問したのに対して、小川秀樹法務省民事局長が、「この修習の成果の社会還元を推進するための手当てといたしましては、裁判官と検察官は公務に従事することになりますので、主として弁護士について問題となるわけでございまして、これまで日本弁護士連合会ともこの点について協議をしてまいりました。 その内容によれば、日本弁護士連合会が新たに定めるモデルプラン等におきまして、新たな経済的支援を受けて司法修習を終えた弁護士につきまして、経済的、社会的弱者に対する各種の法的支援、それから司法過疎地域への法的サービス等、こういうことに従事することを推進する方策を講じることが予定されているものと承知しております。」と答弁している。4月18日の参議院法務委員会でも、同様の問答がなされている。

この問答によれば、「司法修習を終えた者」とは裁判官や検察官を除くこと、また社会還元とは「経済的、社会的弱者に対する各種の法的支援、それから司法過疎地域への法的サービス等」を念頭に置いたものであることが分かる。すなわち、裁判官や検察官は、公務員であるからその職務それ自体が社会還元であるのに対して、弁護士は、その職務それ自体は社会還元ではないから、経済的社会的弱者の支援や司法過疎地域の支援などの活動を別途行いなさい、ということである。

これに対しては、平成29年3月31日の衆議院法務委員会において、山尾志桜里議員(民進党)が、「社会還元というのは、国家が定義をし、これは社会還元に当たる、当たらないと分別するようなことはやるべきではない、そして、これをどう手当てするかは、あくまで弁護士自治に委ねることを貫徹すべきであって、政府が何か法律で義務づけるようなことではありませんよね」とクギを刺している。しかし、内容は何にせよ、社会還元を行う責務を負うのは弁護士だけであって裁判官や検察官が含まれないこと、すなわち弁護士の職務それ自体が司法修習の社会還元ではないこと、については、山尾議員にも異論の無いところのようである。

統一修習と給費制度、すなわち将来弁護士となる司法修習生に対しても、裁判官や検察官と区別せず給費を支給する制度は、昭和24年に開始された。國重徹議員は「現在のこの厳しい状況下」というが、昭和24年は、敗戦直後であって、国家財政は厳しいどころではなく、破綻していた。破綻した国家財政下で、弁護士志望者に国費を支出することには、当時の大蔵省が真っ向から反対した。これを押し切って統一修習と給費制を導入したのは、裁判所法の起草に関わった当時の若手裁判官である。その一人である内藤頼博は、「司法修習生は、いわゆる判検事のみならず、弁護士にもなれる、というように、司法官試補よりも、ひろい資格が与えられたものと考えれば、従来の試補のように給与を受けることは当然であるし、また、その年限を恩給年限に参入してもよいと考えられる。もし、弁護士の地位も、国家機関的なものとすれば、弁護士にも、執達吏の場合と同様、国庫から補助を受けることが必要であるとも言い得るであろう。結局、司法修習生は、裁判官、検察官になるのには、必ず経なければならないものであるから、給与を支給する。また、弁護士も、国家事務を行うものであるから、弁護士になる者についても、同様のことがいえる、ということになる。」と、法制局への説明に向けた自らのメモに記している。

裁判官・検察官であろうが、弁護士であろうが、「国家事務を行うものである」という点において同一である以上、その育成に等しく国費を投じるべきである、というのが、給費制の精神であった。この精神からは、弁護士の職務は裁判官や検察官と違って公益的ではないとか、弁護士だけが職務以外に社会還元活動をやらなければならないとか、いう結論は絶対に、金輪際出てこないのである。

もとより私は、給費制復活に費やした日弁連幹部の努力を否定するつもりはない。しかし彼らが、給費制の復活という目先の目標を獲得するために、給費制の精神を自ら放擲したことは、指摘しなければならない。そして、給費制の精神を放擲したことは、統一修習の精神も放擲したことを意味する。同時に、裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだという、弁護士の矜持をも打ち砕いた。

日弁連は「給費制の復活」と謳うが、政府は決して「給費制」とはいわない。「経済的支援」である。政府の方が正しい。給費制の精神を失った金員の交付は給費制ではない。給費制は、平成23年に死に、今年、二度死んだのだ。

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2017年7月 5日 (水)

70期司法修習生に贈った言葉

6月末、司法修習委員会の副委員長として、弁護修習を修了した70期司法修習生に対して挨拶を述べた。そのとき言ったことを、記しておく。

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弁護修習の修了おめでとうございます。これで皆さんは、刑事裁判修習、検察修習、弁護修習を終え、裁判所、検察庁、弁護士を一通り回ったことになります。

この機会に、一つ考えてほしいことがあります。皆さんは、裁判所でも、検察庁でも、修習先の法律事務所でも、たいへんよくしてもらったことと思います。でも不思議だと思いませんか。皆さんの大半は、弁護士になるのに、裁判官も検察官も、親身になって、実務を教えてくれたり、内部事情を見せてくれたりしたことと思います。

それは、修習担当の弁護士も同じです。皆さんは、その事務所に就職するわけでもないのに、担当の弁護士は、忙しい時間を割いて、様々な経験をさせてくれたことと思います。もちろん無償です。考えてみれば、不思議なことだと思いませんか。

私は皆さんに恩を売っているわけではありません。私たちも、同じことを先輩にしてもらったのですから。でも、このような好意は、なぜ先輩から後輩に受け継がれているのでしょうか。そこを不思議に思ってほしいのです。

司法修習生になった者に対して、その志望にかかわらず、裁判所、検察庁そして弁護士会が共同して指導することを「統一修習」といいます。この制度は、昭和22年に始まりました。同時に、司法修習生に対する給費制も始まりました。これらの制度設計を行ったのは、内藤頼博という裁判官です。日本の財政が破綻していた当時のことですから、民間人となる弁護士にまで国費で修習を行い給費まで支給することについては、大蔵省が頑強に抵抗しました。内藤頼博裁判官は、これを押し切って統一修習と給費制を導入したのです。

もとより、大蔵省の抵抗を抑えたのは、内藤頼博裁判官一人の功績ではありません。その背後にはGHQがいました。そして、GHQが日本政府の決定に介入できた法的根拠であるポツダム宣言には、「日本の民主主義的傾向を復活すること」と書いてあります。つまり、GHQは、日本の民主主義的傾向を復活させるために、統一修習と給費制を導入しようとする内藤頼博裁判官を後押しした、ということになります。

皆さんには、ここで新たな疑問を持ってほしいと思います。GHQが日本の民主主義的傾向を復活するというのは分かる。でも、そのために例えば普通選挙制度を導入するというのならともかく、統一修習や給費制度が、日本の民主化と何の関係があるのか、という疑問です。

私は、その正解を申し上げるつもりはありません。ここで申し上げたいのは、第一に、GHQと内藤頼博裁判官、そして、戦後の司法改革を実践した法律家たちは、その疑問に対する答えを明確に持っていた、という点です。第二に、その答えは、われわれ現代の法律家の間では、すっかり失われてしまった、ということです。

われわれは、統一制度と給費制がなぜ日本の民主化のため必要なのか、その答えを忘れてしまいました。しかし、それで別に困りませんでした。なぜなら、先輩から受け取ったものを、後輩に受け継いでいけば、それでよかったからです。

しかし、皆さんは違います。皆さんは、われわれ先輩から何かを受け取るでしょうが、それを後輩に受け継ぐことは、おそらくありません。皆さんがわれわれの立場になるころ、司法修習制度は、残っていたとしても、現在の姿ではありません。内藤頼博裁判官らが導入した司法修習制度は、崩壊しつつあります。そのことは、給費を受けることのできなかった皆さんが、肌で理解していることと思います。

皆さんは、先輩から受け取ったものを、後輩に受け継ぐことのできない世代として、是非、これらの疑問の答えが何か、考えてください。戦後の司法修習制度が終わりを迎えつつある今、皆さんの世代に課せられた使命であると考えます。

 

 

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2017年1月23日 (月)

弁護士自治必要論について

大阪弁護士会報の2016年12月号が、弁護士自治の特集記事を組んでいる。弁護士自治は「なぜ大切なのか」「どんな利点があるのか」「無くなったらどうなるのか」について考えてみる(前書きより)として、金子武嗣もと会長が弁護士自治の理論的根拠等を、日本を代表する刑事弁護士の一人である後藤貞人弁護士が刑事弁護との関係を、竹岡登美男もと副会長が弁護士法72条との関係を、それぞれ論じている。

特集が組まれた背景には、編集部も言及しているとおり、自治不要論が会員自身から発生している、という危機感がある。だが、不要論に対峙するそれぞれの論考は、首肯しうる内容を含んでいるものの、やや物足りない。問題は、「なぜ自治不要論が弁護士自身から出ているのか」という原因の特定ができていないからだと考える。端的に言えば、自治の対価としての会費が高すぎることが原因なのに、これに正面から向き合っていない。

金子もと会長は論考の中で一カ所のみ会費の問題に触れ、「(弁護士会費は)合理的なものでなければなりませんが、安ければいいということにはならない」と述べている。しかし、この言い回しは論点を微妙にはぐらかしていると思う。「安ければいい」かどうかが問題ではない。「高すぎる」か否かが問題なのだ。知らない人のために付言すれば、年額60万円(東京大阪などの場合)ないし100万円超(地方弁護士会の場合)もの会費を負担するくらいなら自治はいらない、という会員の声に、どう答えるかが問題なのだ。さらにいいかえるなら、弁護士自治は、年会費60万円ないし100万円超に値するのか、という問題である。

金子もと会長は、弁護士自治の理論的根拠として、「弁護士の地位(ステータス)が高いのは、国家権力から独立した弁護士や弁護士会の活動が市民に信頼されているから」であると述べる。ここでいう地位(ステータス)とは何を指すのか、はたして「高い」といえるのか、市民から信頼されているして、その根拠が弁護士会活動にあるのか、など、検証を要する点が多々あることは差し置いても、仮にそうだとして、それが現在の自治制度を論理必然的な前提にしているのか、については、さまざまな批判が可能だろう。たとえば医師や高級官僚の「地位(ステータス)」が高いことや、彼らの社会的意義に異論はないと思うが、だからといって彼らの所属する組織が弁護士会並みの自治権を保障されているかといえば、そんなことはない。

竹岡もと副会長は、最高裁判小昭和46年7月14日判決を引用し、「弁護士は、基本的人権の擁護と社会正義の実現、ひろく法律事務を行うため厳格な資格要件が設けられ、かつ、かつ、その職務の誠実適正な遂行のため必要な規律に服」しているからこそ、法律事務の独占(弁護士法72条)が認められている、と説く。たしかに、この判決は当時の弁護士自治に基づく「規律」の存在を前提としているが、職務独占に必要な「規律」が論理必然的に「自治がされた弁護士会による規律」を意味するわけではない。いいかえれば、弁護士による職務独占を法定する以上、弁護士の質の確保は国民に対する国家の義務であるが、その手段を弁護士自治に委ねるのか、そうでないかは政策問題である。

弁護士自治必要論は、必ず英国における弁護士自治崩壊に言及する。金子元副会長の論考も例外ではない。だが、「弁護士自治が崩壊して誰がどのように困ったのか?」まで調査しなければ、弁護士自治必要論の論拠にはならない。英国における弁護士自治崩壊(2007)から10年経つのだから、評価は可能なはずであるが、寡聞にして「自治崩壊(剥奪)は失敗であった」との論調を聞かない(EU加盟は失敗であった、との論調は聞くのに!)。誰も困らなかったなら、英国の弁護士自治はその程度だったことになる。いうまでもないが、困ったのが弁護士だけだとしても、政策的失敗とは言わない。

弁護士自治必要論は、「基本的人権の擁護と社会的正義の実現のために、わが国は世界最高度の弁護士自治を保障した」と述べる。だが、それならば、弁護士自治獲得からほぼ70年経った今、わが国では弁護士自治によって、世界最高度の人権と社会正義が実現されたのか?という問いに、真摯に向き合わなければならない。もしそうでないとすれば、何が間違っていたのか、何が不足なのか、何が余計だったのかが論じられなければならない。

私の考えでは、弁護士自治は、憲法が定める司法権の独立の一環として、保障されるべきものであろう。その意味では、刑事弁護活動の自由を守るため弁護士自治が必要とする後藤弁護士の論考に異論はない(もとより、刑事弁護に限られる問題ではないが)。したがって、弁護士自治の本質は、弁護士の訴訟活動の独立に存在することになろう。訴訟活動の独立を保障するためには、訴訟に関連する活動の独立も保障されることが望ましい。そして、これらの独立を保障する限りにおいて、弁護士会の懲戒権は、国家権力から独立していなければならない。但し、訴訟活動と無関係な非行に関する懲戒権まで弁護士会が独占することは、弁護士自治の本質的要請ではない。

また、懲戒権の独占を含む自治権が保障されていることを前提とした場合、弁護士会が会員に対する監督を怠り、そのために国民の弁護士に対する信頼が低下すれば、弁護士法72条の廃止が俎上に上ることになろう。しかし、国民の弁護士に対する信頼を確保する手段が、弁護士自治に限られないとすれば、弁護士自治と弁護士法72条は関係がない(少なくとも関係が薄い/直接の関係はない)ということになる。そうだとすれば、弁護士自治がどの程度保障されなければならないか、いいかえれば、世界最高度の弁護士自治まで必要か否かは、会員から見ればコストメリットの問題に帰着することになる。たとえば極端な話、弁護士会が人事権の自治を一部放棄して法務省や裁判所から全国で数百人規模の天下りを受け入れれば、法曹人口問題など、あっという間に解決するだろう。そちらのメリットが大きいということになれば、喜んで自治放棄に応じる弁護士は少なくないと思う。

金子もと会長や竹岡もと副会長には、個人的にも大変お世話になっているので、公然と異論を述べることはやや憚られるが、笑って許してくれるものと思う。なぜなら、これらの論考をまともに読んで批判してくれるだけ、自治必要論にとってありがたいことだからだ。多くの会員、特に若手の大部分は、もはや自治なんてどうでもよいと思っている。要否程度を議論する手間暇が鬱陶しいだけだ。

弁護士自治にとって最大の脅威は、不要論があることではなく、会員の無関心なのである。

 

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2016年12月26日 (月)

司法修習生に対する給付制度新設について

12月19日、法務大臣は記者会見で、平成29年度から司法修習生に対する給付制度を新設すると発表した。内容は、基本給付として一律月額13.5万円、住宅給付として月額3.5万円、プラス移転給付であるという。初年度予算は10億円だが、平成30年度以降は30億円前後になるという。つまり基本給付13万5000円プラス住宅給付3.5万円、これに旅費約3万円を足すと合計20万円、これに修習生1500人と12ヶ月を乗じると36億円となるが、住宅給付と旅費が不要となる修習生も相当数いることから30億円と試算しているのだろう。これは給費制の事実上の復活ともいえるが、法務省はあくまで「給付制度の新設」と言っている。

記者から、平成23年度に廃止された給費制が僅か6年で事実上復活する理由を問われた法務大臣は、「最近,法曹界に志を持つ若手が減少傾向にあるという話も聞きます。そういう状況をそのままにしておくわけにはいかない」と述べた。下の表からも明らかなように、司法試験に合格しながら修習を辞退した者の割合は、貸与制が実施された平成23年度を機に、それ以前の1~2%から3%台へと上昇しているから、給費制の廃止が修習辞退率の増加につながった可能性は否定できない。その意味では、給付制度の新設が修習辞退率を下げ、「法曹界に志を持つ若手の減少傾向」を食い止める可能性はある。

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だが、修習辞退率が仮に2%下がるとしても、1500人の2%、すなわち数にして30人前後の問題である。30人を呼び戻すために30億円というのは、ちょっと計算が合わない。

ところで、法曹志望者の減少傾向を端的に示しているのは法科大学院の入学者数だ。その数は、平成18年度の5784人から、平成28年度の1857人へと、10年間で実に3分の1以下へ減少している。将来的には、法科大学院生の司法試験全員合格も視野に入るほどだ。学生数の減少に伴う平均学力の低下は、かなり深刻と想像される。給付金制度新設予算の30億円は、むしろ、法科大学院入学者数減少を食い止めるカンフル剤として用意された、と考える方が自然だろう。弁護士の中に、法科大学院制度廃止を唱えながら「給費制復活」を喜ぶ者がいるが、矛盾しているというほかはない。

もっとも、この程度の対策で法科大学院入学者の減少が食い止められるかは、大いに疑問である。下のグラフが示すように、法科大学院入学者は平成20年以降、ほぼ一貫して減り続けており、貸与制実施(給費制廃止)の前後で減少率に変化はない。このことは、法科大学院入学者減少の原因が、貸与制にはないことを示唆している。

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12月23日の読売新聞『論点スペシャル 司法修習生給費、復活の是非』で阪田雅裕元内閣法制局長官は、「法曹志望者の減少や、質の低下という深刻な課題を解決する上では、本質から外れていると言わざるを得ない。給費制復活によって、現状が大きく改善するとは考えにくい」と述べている。私も、予想としては同意見だ。もっとも、やってみなければ分からないことだから、やってみたら良いと思う。

給付制新設の目的が、法科大学院入学者数減少にブレーキをかけることにあるとすれば、喜ぶのは修習生の次に、法科大学院ということになる。「政府決定の背景に法科大学院と文科省がいるのではないか?」と聞いたところ、大阪弁護士会の某有力者は「それはない」と断言していたが、どうだろうか。

司法修習生への給付制新設が報じられる前日、NHK、大学や短大への進学者一人あたり月額2万円から4万円の給付型奨学金制度を導入されると報じた給付条件は司法修習生に比べるとかなり複雑なようだが、12月19日付東京新聞によれば、予算措置としては「将来的に年200億円を超える」という。修習生への給付金に比べれば、予算規模は約7倍である。

大学生への給付型奨学金制度が新設される理由は二つあると思う。一つは、選挙権年齢の引下げに伴う「選挙対策」だ。米大統領選で、苦学生のサンダース票が一部トランプに流れたという噂も、給付型奨学金制度新設の動機の一つかもしれない。しかし、重要なのはもう一つの理由で、大学の経営補助と考える。わが国の大学進学率は平成20年以降、ほぼ50%で横ばいだが、母数となる若年人口が減少の一途なので、進学率が同じであれば進学者数は確実に減り、大学経営を圧迫する。大学入学者を増やし、大学の経営を助けることが、制度新設の最大の目的であろう。

司法修習生に対する「給付制度の新設」と、大学生に対する「給付型奨学金の創設」。発表時期がほぼ同時なのは、予算編成時期だからなので、そこから直ちに関連性があるとはいえない。しかし、それなりの時間をかけて検討してきたであろう二つの制度の開始年度が同一であること、名称が微妙に似ていること、予算規模のバランスなどから考えて、無関係とも思われない。

最後に感想めいたことを付け加えると、私自身は、今回の給付制度新設については、特に感慨はない。その理由の一つは、「司法修習生はなぜ特別扱いされなければならないのか」に関する本質的議論が置き去りにされたままであること、もう一つは、法曹人口問題を風呂釜にたとえると、すでに底が抜けているので、いまさら蛇口まわりを整備しても、どうにもならないからである。

 

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2016年8月23日 (火)

弁護士による不祥事と「弁護士自治」との関係について

日弁連事務次長の吉岡毅弁護士が、8月1日付日弁連新聞に『弁護士自治確保への課題~市民や社会の信頼を維持するために~』という文章を寄せている。

論旨としては、「弁護士がその使命である人権擁護と社会正義を実現するためには、いかなる権力にも屈することなく自由独立でなければならない、ということから、『弁護士自治』が認められている。しかし、相次ぐ預り金着服などの不祥事は、弁護士会や弁護士に対する市民や社会の信頼を失わせ、ひいては弁護士自治の基盤が掘り崩されかねないから、被害者見舞金制度などの創設が必要」というものである。

結論の被害者見舞金制度については異論もあるが、結論に至る弁護士自治と不祥事との関係については、弁護士業界内でよく耳にする、常識に属するものといってよいだろう。

だが、私はこの常識を疑う必要があると考える。吉岡弁護士の言う不祥事と弁護士自治の関係は、間違いかもしれない。少なくとも、飛躍があると思う。

日弁連は「市民」が大好きだから、市民目線で素直に考えてみてほしい。預り金の着服は、明らかな違法行為であり、犯罪でもあって、どのような理由があろうが、やってはいけないものである。弁護士には、社会的批判を無視してでも断行すべき職業倫理もあるが、預り金着服とは別次元の問題だ。このような「明らかに違法な」不祥事については、必要に応じ刑事手続に付すべきことはもちろん、当該弁護士の適格性や、弁護士全体としての再発防止、倫理性の維持も、問われなければならない。その実施機関は、弁護士会であってもよいが、なくてもよい。重要なことは、弁護士による法律業務独占を裏打ちするため、一定の質や適格性・倫理性の維持を適切に図ることであって、その実施機関を誰にするか、ではない。いいかえれば、預り金を着服した弁護士の懲戒権を弁護士会が排他的に独占することが、唯一無二の選択ではない。つまり、弁護士の不祥事防止と、弁護士自治(懲戒権の独占)との間に、直接の関係はない。まして、預り金の着服を防止することと、弁護士が「いかなる権力にも屈することなく自由独立でなければならない」こととは、なんの関係もない。だから、不祥事が弁護士自治の基盤を掘り崩すという「常識」には、論理の飛躍がある。平たくいえば、「国家権力による弁護士活動妨害を排除するため、預り金を着服した弁護士の懲戒権を弁護士会が独占しなければならない」と言っても、「市民」に対する説得力はない、ということだ。

もちろん、裁判所や法務省などの他機関に弁護士懲戒権を持たせると、預り金着服のような明らかな違法行為だけではなく、たとえば政治犯の弁護を妨害する目的で、懲戒権を濫用する可能性は否定できない。しかしそれは、適正な運用を図るための制度設計と運用の問題であるから、懲戒権の一切を弁護士会が独占しなければならないことを意味しない。

それでは、「預り金着服」などの不祥事対策に「弁護士自治」を持ち出すという論理の飛躍は、なぜ発生したのだろうか。

「弁護士自治」という言葉を、国立国会図書館の蔵書検索や、論文検索で調べてみると、森長英三郎弁護士による『弁護士自治の獲得と地位向上の歴史』(自由と正義1975年8月号)が最初である。実は、弁護士会の自治という言葉じたいは、明治時代からあった。だが、「自治」というとき弁護士会が想起するのは、1970年代後半の「弁護人抜き裁判」問題をめぐる騒動なのである。

1960年代後半から頻発した、いわゆる過激派による刑事事件の公判に際して、スピード審理を求める検察側に対し、弁護側が法廷不出頭や辞任・解任などの遅延戦術を採ったため、裁判所が弁護士会に対し懲戒請求を行った。ところが、弁護士会の懲戒手続きが放置されたため、法務省などから弁護士会の自治能力欠如が批判され、いわゆる「弁護人抜き裁判」法案の国会提出を招いた。日弁連は当初、弁護士自治に対する不当な介入であるとして、全面対決姿勢を取ったが、後に「世論の動向などに配慮し」、方針転換した(金子武嗣『私たちはこれから何をすべきなのか』)。つまりは、全面対決路線に世論の批判が高まり、このままでは弁護士法が改正され自治権を奪われるとの危惧があると、日弁連執行部が判断したのである。

つまり、「弁護士自治」という言葉は、歴史的には、過激派に対する刑事裁判において、遅延戦術を擁護する文脈と、法廷戦術の濫用をたしなめ、国家権力に介入の口実を与えまいとする文脈の両方において、使われたのである。どちらの立場が正しいかは本稿の趣旨と外れるから触れないが、両者に共通するのは、「政府などの国家権力が、弁護士の法廷戦術の是非を問うことは許されない」という見識だ。私は、この見識は尊重に値すると思う。だが、この見識と、預り金着服などの不祥事防止とは、関係ない。

このように見てくると、預り金着服等の不祥事を防止し、市民の信頼を維持する理屈として、「弁護士自治」という言葉を軽々に使用することは疑問と言わざるを得ない。「弁護士自治」という言葉は、その本質的、歴史的意義を問い直し、「市民」の腑に落ちるように使用する必要がある。先輩弁護士の言葉だからといって、お題目のように繰り返すことは、やめた方がよい。

 

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2016年5月16日 (月)

司法試験統一試験制度廃止の予兆

5月11日の報道によると、今年度の法科大学院志願者数ははじめて1万人を割り、8274人となった。また、同日の報道では、法科大学院の今年度入学者数は過去最低を更新して、1857人となった。このうち、入学定員を満たしたのはわずか2校という。

 

しかし、志願者が8274人もいるのに、入学者が1857人で入学定員を満たしたのがわずか2校というのは、計算が合わない。その意味するところは、志望者一人平均3校以上掛け持ち受験をしているということである。頭数に換算すると、志願者数は3000人前後か、それ以下であろう。

 

私が司法試験を受験したときの志願者数の頭数は、3万人前後だった。当時に比べ、合格者数は3倍を超えたのに、志願者は十分の1以下。予想されたこととはいえ、法曹養成制度の失敗は、目を覆うばかりである。

 

ところで、今年は、2013年に法曹養成関連閣僚会議が5年計画を公表してから3年目になる。この計画が「現状の5年維持と共通到達度確認試験の試行」が柱であり、その先に「共通到達度確認試験合格者の短答式試験免除」があることは、すでに指摘したとおりだ。

 

この指摘に対しては、「深読みのしすぎ」とか、「的外れ」とかいう意見もあったようだが、どっこい、平成27年中、「共通到達度確認試験システムの構築に関する調査検討会議」が文科省で5回開催され、その中で同試験の「平成30年度からの本格実施」が目標とされている。また、平成27年7月6日付「共通到達度確認試験システムの構築に向けた調査検討会議」の文書には、「平成27630日の法曹養成制度改革推進会議では、将来的に確認試験の結果に応じて司法試験短答式試験を免除することを想定することについても記載されており、本格実施の際にはこのことについても十分配慮する必要がある」と明記されている。

 

すなわち、2013年の法曹養成関連閣僚会議が公表した5カ年計画は、「平成30年度の共通到達度確認試験の実施と短答式試験の廃止に向けて、着々と進行している。官僚制度を甘く見てはいけない。「閣僚会議」という行政ほぼ最高レベルの決定である以上、適当な思いつきでも、無責任な問題の先送りでもない。文部官僚は、必ずやこれを実現しようとするだろう。もちろん抵抗はあるから、今後2年間が正念場になる。

 

文科省が目指していることは、例えるなら「法科大学院の大学医学部化」である。すなわち、共通到達度確認試験に合格して卒業した者の大半(おそらく9割以上)が法曹資格を取得する制度だ。そのためには、共通到達度確認試験に合格した者は司法試験を免除されるか、それとも、9割以上の合格率を事実上保障されることが必要となる。

 

しかし他方、司法試験を管轄するのは法務省だから、「法科大学院の大学医学部化」を実現するためには、共通到達度確認試験合格者の質を確保する必要がある。そのためには、試験のレベル設定が重要となるが、現在の志願者激減状況からすると、従前の司法試験並みのレベル設定は、(法科大学院サイドからの反発も予想され)、実現しがたいだろう。文科省にとって「正念場」と書いたのはここからだ。

 

この2年の間に、「共通到達度確認試験合格者の9割は司法試験に合格するようにしてくれ」という文科省サイドと、「司法試験の合格レベルを下げることはできない」という法務省・最高裁サイドとのつばぜりあいが生じる。最終的には、政治決着に持ち込まれる可能性が高い。「閣僚会議」で言質を取った文科省にアドバンテージがあるし、政治力では文科省の方が強いから、法務省・最高裁サイドは、一定の政治的決断を迫られることになる。

 

さて、ここから先は多少大胆な予想であることをお断りしておく。法務省と最高裁は、共通到達度確認試験の本格導入に伴い、裁判官と検察官採用試験を導入する可能性がある、と私は考えている。それはおそらく、共通到達度確認試験合格者には無条件で弁護士資格を与え、裁判官・検察官志望者には論文試験受験義務を課す方法だろう。もちろん、ほかの制度になるかもしれない。いずれにしろポイントは、統一試験制度が廃止される、ということだ。

 

もちろん、法務省や最高裁内部にも抵抗があろう。だが私は、究極の選択を迫られれば、法務省と最高裁は統一試験制度の廃止に踏み切ると予想する。なぜなら、共通到達度確認試験に合格しただけの人材では、キャリア官僚に対抗できないからだ。

 

法務省と最高裁にとって、裁判官と検察官の公認された知的レベルがキャリア官僚と同程度以上であることは、絶対に譲れない最終防衛線なのである。

 

 

 

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2016年3月 7日 (月)

辺野古沖埋立訴訟の和解成立について

沖縄県名護市辺野古沖の埋め立て承認を巡り、国が沖縄県を訴えた裁判について、3月4日に和解が成立し、和解条項関連資料が公開された。この裁判や背景事情について特に詳しいわけではないが、弁護士として和解条項をみた場合、非常に興味深い。

 

和解条項は要するに、次の2点を柱にしている。

 国と沖縄県双方が、本県に関して提起した訴訟等を全部取り下げ、訴訟外での協議を行う。

 一方で、沖縄県が行った埋立承認取消処分については、国と沖縄の双方が必要な法的手続を進め、協議が調わず裁判所の判決が確定した場合には、これに従うことを確約する。

 

市井の弁護士が日常関わる和解条項に比べると、①も②もあり得ない条項だ。まず、①は当事者同士で話し合う、という内容だが、そもそも話し合いができないから裁判になっているのであるし、双方取り下げて話し合うという約束を、通常は和解とはいわない。和解とは、紛争の終局的解決を意味するからだ。

 

一歩譲って、本件訴訟の当事者は国と地方自治体という、それぞれ責任ある公的団体だから、訴訟外で話し合うという和解もありとしよう。

そうだとしても、②はさらにありえない。なぜなら、一般国民や一般弁護士から見れば、裁判結果が出れば従うのが当たり前だから、わざわざ「判決に従います」という和解条項を設ける意味がないからだ。

 

この条項には、裁判所の強い政治的意図が込められていると思う。その意図からすれば、今回和解が成立したことで、最も喜んでいるのは裁判所ではないだろうか。

 

本件訴訟で和解が成立しなければ、裁判所は判決を出さなければならない。沖縄県敗訴の判決を出した場合、県は様々な訴訟を提起して国に対抗してくる可能性がある。これは、沖縄の米軍基地問題というきわめて政治的な訴訟に裁判所が巻き込まれることを意味するし、裁判所がこれをすべて退けた場合、国に対する沖縄県(民)の怒りは政府ではなく裁判所に向けられるだろう。国民全体から見ても、裁判所が政府の走狗に成り下がっているように見られかねない(既になってるじゃないか、という議論は措く)。他方、いかに国を勝たせたいと思っても、そうなるとは限らない。国の処分にミスが出るかもしれないし、知事には広い裁量権があるからだ。もし裁判所が国を敗訴させた場合、政府与党の裁判所に対する圧力が強まるおそれがある。ただでさえ、一票の格差訴訟や婚姻禁止期間違憲訴訟等で、風当たりが強くなっているのだ。つまり、このまま基地問題に裁判所が巻き込まれた場合、裁判所の政治的正統性なり権威なりが低下する可能性が高い。したがって、裁判所としては、本件訴訟で判決を出すことは避けたい。しかし、当事者間での協議がまとまらず、訴訟で決着する事態に再度至った場合には、文句を言わず従ってもらうための布石を打っておきたい。裁判所は、だいたいこう考えたのではないかと思う。

 

紛争が起きたとき、第三者に裁定を委ねる合意を「仲裁合意」という。和解条項の②は、「和解」ではなく「仲裁合意」だ。仲裁合意をとっておけば、文句があっても表向き口に出せない。つまり、国と沖縄県に対し、裁判所が独立かつ終局的な紛争解決機関であること(つまりは裁判所の正統性と権威)を認めさせた点において、裁判所がもっとも実を得たといえる。

 

もっとも、これですべての問題が解決したわけでは、もちろんない。裁判所にとっても同じことである。今回の和解成立は、たとえるなら、大坂冬の陣が終わっただけかもしれないのだから。

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2016年2月12日 (金)

弁護士人口ピラミッドの将来予測

明けましておめでとうございます。

年初以来ブログが更新できなかった最大の理由は、日弁連会長選挙に関わったからである。今回いわゆる主流派から立候補した中本和洋弁護士(大阪弁護士会)とは、同じ会派に所属して近しい関係にあり、応援することになった。加えて、データベースの構築や管理を一手に引き受けたため、選挙期間中、全く時間がとれなかった。

選挙も終わったので、上記の立ち位置から選挙を経験して感じたことを、数回に分けて記したいと思う。

今回は「弁護士人口ピラミッド」のお話である。

日弁連会長選挙に向けて、有権者である会員のデータベースを構築して気づいたのは、その人口分布のいびつさだ。

 

 

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頭では分かっていても、形で見ると、近年の人口増の極端さには改めて驚く。

しかも、このグラフは正確には「人口ピラミッド」ではない。なぜなら、ピラミッドのような末広がりではなく、花瓶のように底辺に向け収束しているからだ。これは、ここ数年の合格者人口抑制の結果である。

この「人口花瓶」は、これからどう変化するだろうか。予測してみた。

将来予想にあたっては、今後8年間で、弁護士登録数が年100人ずつ減り、800人で止まると想定した。司法試験合格者数でいうと、年1000人まで減少し、任官は200人という想定である。また、上位10期の先生方には、失礼ながら毎年1割ずつご退場いただく想定にしている。

以上の想定に基づき、25年後の2041年までを予測したグラフは、次の通りである。

 

 

Kibetu_bunpu_yosou_2

こうやって見ると、軽く寒気が走りますね。いうまでもなく、人為的に作り出されたこの「団塊の世代」の未来に対して。

グラフで明らかなとおり、1期あたり2000人を超えた60期から62期までを頂点とする、59期あたりから75期あたりまでの「団塊の世代」が、人口比として突出したまま、今後25年以上、推移することになる。この世代だけで、27000人を超える。たとえば同世代での競争率は、40期台の4倍を超えている。60期といえば、独立する人は独立を終えている世代だ。しかも、独立や結婚、子育てや学費にコストのかかる時期を迎えている。彼らの競争は熾烈を極めていることだろう。

しかも、競争はますます厳しくなる。

下のグラフは、上記想定で算出した弁護士人口の推移と、日本の人口に関する公的な統計・予測とを組み合わせたものだ。弁護士人口の増加と、人口の減少は、きれいなX字を描いて交差している。

 

 

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ちなみに、日本人の将来人口を弁護士の将来人口で除し、弁護士一人あたりの国民数を算出したグラフは、次の通りだ。

 

 

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弁護士一人あたりの国民数は、2000年には7411人だったのが、2015年には3477人と半減以下、2040年には1947人となり、40年間で4分の1近くに減少する。これで2040年の弁護士が、2000年と同レベルの事件数や収入を確保しようというのは、どだい無理な話だろう。

もちろん、この予測はかなり大雑把である。弁護士一人あたりの事件数等を予測するため必要な資料としては、人口のほか、企業数や、GNPなどがあろう。だが、これらの資料の中で、今後25年で数倍の成長が見込まれるものがあるのだろうか。あったら指摘してください。お願いだから。

 

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2015年6月 1日 (月)

「底が抜けた」法曹人口問題

内閣官房法曹養成制度改革推進室は、「法曹人口の在り方について検討結果とりまとめを公表した。この案は、司法制度改革後、司法試験合格者が1500人を下回る可能性にはじめて言及したものとして、注目に値する。

「法務省と文科省の妥協の産物」「玉虫色」といった評価もあるが、そんなことは、今にはじまったことではないから、本とりまとめ案の特色とは言えない。さまざまな利害対立の中でも、1500人を下回る可能性に言及したことに、大きな意味があると思う。

なぜなら、法科大学院制度は歴史的にみて、司法試験合格者を1500人からさらに増やすことを前提に創設されたものなので、政府が1500人未満に言及したということは、法科大学院制度の立法事実を、政府自ら否定したことを意味するからである。案文に「法曹の輩出規模が現行の法曹養成制度を実施する以前」という文言があるけれど、この文言は、「現行の法曹養成制度」が失敗したとの自白に等しい。これは、無謬性を旨とする政府の立場からすれば、異例というほかはない。

政府の法曹養成制度関係閣僚会議は2013年、3000人の撤回と、5年後の文科省による「共通到達度確認試験」の実施予定を公表した。その意味するところは、司法試験合格者数は年2000人程度を維持しつつ、法科大学院の統廃合によって受験者母数を減らして合格率を上げ、5年後までの事態沈静化を見越したものであることは、すでに述べた。上記とりまとめ案が閣議決定されれば、2013年の閣議決定も、わずか2年にして、事実上撤回されることになる。

司法試験合格者年3000人の閣議決定から、その撤回まで12年かかったことに照らせば、ここ2年間における政府方針の相次ぐ変更には、それなりの重要な原因があるとみるべきだろう。先日の日弁連総会では、幹部弁護士が、日弁連のロビー活動の成果と胸を張っていたけれど、もとよりそんなものは、蟷螂の斧にもなりはしない。

これは想像だが、司法試験合格者の質の低下、特に、下位合格者の学力が、目を覆うレベルに落ちていると考える。その低下は余りにもひどく、2000人維持を唱える法科大学院や文科官僚をしても絶句させるほどなのだろう。

さらに問題なのは、受験者の層が薄くなっているため、合格ラインを1点切り下げることによる質の低下が顕著になってきたことだ。どういうことかというと、かつての受験者のうち合格レベルにある層は、上下に潰れたピラミッド型(どんぐりの背比べ型)をなしており、1点差に多数ひしめいていた。「合格者を増やしても質は下がらない」との議論が出た所以である。これに対して、現在の受験者層は、「ロングノーズ」型であるため、合格点を1点下げると、レベルが大きく下がってしまうのだ。

すなわち、いまの司法試験は、1500人の維持に固執すると、とんでもない低レベルの合格者を出す危険が現実のものとなっており、法務省がその具体例を示したため「ぐう」の音もでなかった文科省が沈黙した結果が、異例ともいえる「1500人未満」への言及だったのではないか。

なぜ受験者層が薄くなったのだろうか。かつて私はブログに、「アベノミクスで景気が劇的に回復しない限り、受験者数の増加はありえない」と書いたことがある。今の景気は、劇的ではないにせよ、全体としては回復基調にあるとみてよいだろう。それにもかかわらず、受験者層が薄くなった理由は、考えてみれば当然のことで、景気が回復しつつある民間と、相変わらず不況風の吹く弁護士業界のどちらを若者が選ぶかといえば、自明だからである。

なお、司法試験合格者の質が低下しているとの「想像」だが、傍証としては、かつて1500唱えつつ一定の留保を述べていた公明党が、今回のとりまとめ案に対して、全く異論を唱えていないことが挙げられる。この事実は、司法試験合格者が1500人になっても、創価大学出身者の合格者数は影響を受けない、と公明党が判断したことを示している。創価大学から法曹を目指す若者の学力レベルは、大学の性質上、他大学より一定していると考えられるから、同大学出身者の合格率が安泰ということは、その分、全体としてのレベルが低下したことを示すとみてよいと思う。

以上からいえることは、司法試験制度の「底が抜けた」ということなのかもしれない。弁護士業界の景気回復を示す指標は乏しく、困窮を示すニュースばかり流れる昨今、膨大な資金と3年という時間を使って司法試験に挑戦する意味は、いよいよ失われていくだろう。

何より問題なのは、法科大学位制度を今すぐ廃止したところで、抜けた底を直すことはできないだろう、ということである。

 

 

 

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2015年5月27日 (水)

大阪弁護士会正規職員の年収について

大阪弁護士会正規職員の年収について、「大阪・淀屋橋の弁護士」氏が「年収500万円を超えている可能性が高い」と試算し、「腹が立ってきた」と述べている。

 

気持ちは分かるが、計算がちょっと違うのではないか、と思ったので、大阪弁護士会の予算・決算承認の定期総会の折、質問してみた。

 

その回答が次のとおりである。

 

大阪弁護士会の職員数は、平成2741日現在、正規職員71名、派遣労働者を含む非正規職員29名の合計100名。正規職員のうち53名が総合職で、18名が非総合職だ。

 

一方、平成26年度決算によると、職員に支払った給料(退職金は除く)は59479万円。このうち、正規職員に支払ったのは49839万円、非正規職員に支払ったのは9640万円であるとのこと。

 

したがって、正規職員一人あたりの平均年収は、約702万円ということになる。但し、53人の総合職と18人の非総合職は職制が違い、給与体系も違うと思われるので、仮に総合職の平均年収が非総合職の2割増しだとすると、総合職の年収は約733万円、非総合職の平均年収は約611万円となる。

 

もちろん、大阪弁護士会の職員は、皆さん非常に優秀であり、わがままばかりの弁護士相手によく働いてくれて、感謝することが多い。総合職平均730万円という年収が、高すぎる金額であるとは、決して思わない。

 

だが、年収300万円台ともいわれる若手弁護士(若手といっても司法試験合格平均年齢が28歳とすれば30歳~40歳)がどう感じるかは別問題だ。

 

追記;ご指摘により、一部修正しました。修正したのはまず、正規職員の合計人数であり、総合職53人、非総合職18人の合計71人が正しく、これに伴い、その後の計算結果も修正しました。もっとも、修正した計算結果の違いは、ほとんど1万円未満に吸収され、非総合職の平均年収が610万円から611万円に変わっただけです。いずれにせよ、人様の計算結果が違うといいながら、小学生レベルの計算間違いをしてしまったことをお詫びいたします。

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