2013年11月15日 (金)

医療過誤訴訟と『善きサマリア人の法』について

1113日の毎日新聞朝刊に、埼玉県済生会栗橋病院院長輔佐の本田宏氏による『善きサマリア人の法 医療事故調査報告書は非開示に』とする主張が掲載されていた(もとネタはこちらのようである)。

「善きサマリア人の法」とは、出典により多少の違いはあるが、本田氏によると、「災難に遭った人や急病人を救うため、緊急で善意の行動をとった場合、『良識的かつ誠実にできることをしたのなら、たとえ失敗しても、その結果に責任を問われない』とすることで、その場に居合わせた人による傷病者の救護を促進しようという考え方」とのことである。本田氏によれば、米国やカナダでは、この概念を現実化した法律が成立しており、2005年(平成17年)に成立した「患者安全と質改善法」により、医療事故調査で得られた資料は、航空機事故調査資料と同様、秘密とされ、訴訟での使用が禁じられているし、WHOもこれを推奨しているという。

そして本田氏は、日本では『善きサマリア人の法』は立法の予定がなく、医療事故調査結果は訴訟での使用が可能となっており、このままではわが国の「医療崩壊が加速」するとして、政府に対し、米加の制度の導入を求めている。

この主張の論理は正しいだろうか。

まず、数字の話をしよう。

最高裁判所の統計によれば、わが国の医療過誤訴訟の新受件数は、平成16年(2004年)の1110件をピークに減少に転じ、平成24年には793件となっている。

一方、このブログによれば、「善きサマリア人の法」が存在する米国では、2009年(平成21年)時点で結審し、医師に何らかの支払が生じた医療訴訟の数が10772件であり、ここから逆算すると、提起された訴訟件数は35000件を超えることになる。

米国では1970年代以降、医療過誤訴訟の頻発と賠償額の高騰が社会問題となり、様々な制度改革が行われた。その結果、米国の医療過誤訴訟は減少し、上記ブログによると、10年間で約3分の2に減ったという。

それでも年35000件の提訴件数は、わが国の40倍を超える。勝訴率や賠償額についての資料はないが、私は、米国の方がどちらも高いと推察する。

では米国の医療は崩壊したのだろうか?米国の40分の1の訴訟件数で医療崩壊の警鐘が鳴るくらいなら、米国の医療制度はとっくの昔に崩壊していなければならない。だが、医療危機の声はすれど、崩壊したという話は聞かない。

次に、本田氏が「善きサマリア人の法」と主張される「患者安全と質改善法」について、述べておきたい。

私は、この法律そのものに関する知見を持たないが、並べて紹介されている航空機事故調査の方は少し知っている。肝心な点は、航空機事故調査資料が秘密とされたり、ヒヤリハット経験を申告した操縦士等が保護されたりするのは、将来の同種事故を防ぐため、という点だ。いいかえるなら、航空機事故調査資料が秘密とされるのは、機長を「善きサマリア人」とみなして免責するためではない。もし、機長が過ちを告白しても一切責任を問われないなら、『フライト』というハリウッド映画は成立しない(そもそもこの映画では、事故調査委員会の調査資料が機長の責任追及の証拠に使われていたように思うが)。

そこから類推する限り、「患者安全と質改善法」の目的も、同種事故の防止であって、医師の免責ではない。この法律は、「善きサマリア人の法」ではないと思う。念のためお断りしておくが、私は医師に「善きサマリア人の法」が不要だと主張しているのではない。

もちろん、目的がどうであれ、医療事故調査報告書の訴訟での使用が禁止されているのは事実なのだろう。だが、米国の訴訟制度では、患者側が医療機関側の資料を収集する制度が、日本とは段違いに充実している。だから、医療事故調査報告書を証拠に使えないからといって、日本よりも患者が訴訟上不利になるわけではない。そのことは、日本の40倍以上という医療過誤訴訟件数が証明している。

本田氏は米国の制度を見習えと主張するが、医療過誤訴訟件数を40倍に増やせ、と言っているのではあるまい。それならば、彼我の実情を無視して、一つの制度についてだけ、米国の制度に従え、でないと医療崩壊が加速する、と主張するのは、いかがなものであろうか。

とはいえ、かくいう日本の弁護士も、かつておんなじような論理を振り回して、結果として自分の首を絞めているんだけどね。その話はまた別の機会に。

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2011年11月30日 (水)

福島県産米問題がもたらしたモラルハザード

1113日、福島県は、県内48市町村1174カ所の米を調査した結果、全て国の暫定基準値(500ベクレル/キロ)を下回ったとして「安全宣言」を行った。16日の産経新聞は、「(福島米を)みんなで食べて支えよう」との社説を掲載し、25日の読売新聞は、安全宣言を聞いて福島県産新米を購入した浜松市の主婦、村上けい子氏の投書を掲載した。

だが私は、このニュースを信じられなかった。基準値超えが多少出たというなら、かえって信用したかもしれない。しかし、1174地点も調べて基準値超えが全く無いなんて、うさんくさすぎる。

私は放射線の専門家ではないし、証明できないことをネットに書く趣味もない。だから私は、自分と家族のためだけに行動した。ネットで10年米を購入しようとしたのだ。だが、すでに多くの10年度米は売り切れていた。多くの人が、同じことを考えていた。

17日、福島県大波地区の農家が自主的に検査を依頼した米から、基準値を超えるセシウムが検出された。この報道から読み取るべきは第一に、農家自身、県の安全宣言を信用していなかったということだ。

そして28日、福島県伊達市で収穫された米から、基準値を超えるセシウムが検出されたという。福島県の安全宣言は、もはや信用を失った。

1174カ所も調べた人たちは、故意に基準値超えの事実を隠したわけではないと思う。調査に携わったあらゆる人たちが、「基準値を超えてほしくない」と思って行動した結果、自然と、そのような結果が出たのだろう。人間には、見たくないものは見えないのだ。

「全地点異常値なし」の検査結果に、県と政府は飛びついた。「まさかそんなことはないだろう」と心で思っても、誰も再検査を指示しなかった。マスコミも、検査結果には一切疑問を差し挟まなかった。国民一般もそうだ。知っても不幸になるだけの事実は知りたくない。誰もが、心の中では別のことを考えながら、国全体を覆う一つの空気に荷担した。そして、自分のためだけに行動したのだ。

米の流通については、事故米問題に関連して、少し勉強したことがある。そこで分かったことは、生鮮食品全体についていえることだが、米の流通には特に、古い業界体質が残っている、ということだった。新米と古米を混ぜる、8割の他品種を混ぜて魚沼産コシヒカリとして売る、などというのは日常茶飯で、伝統的にアウトローの関与も多かった。福島県11年産米は、風評被害と今回の報道によって、表向き、ほとんど流通していないはずだが、実際には、相当の量が、他府県産米や古米と混ぜられて流通するだろう(と書きながら夕刊を見たら早速、仙台市の米穀卸大手『協同組合ケンペイミヤギ』が福島県産米を宮城県産と偽装して販売していたと報じられている)。いまさら10年産米を買っても遅い。先月売り切れていた10年産米が今買えることの不自然さに気づかないといけない。もちろん、健康被害は発生しない。だが問題は、健康被害ではない。

この騒動は、食の安全に関するわが国のモラルと信用を、大きく毀損した。数年前の偽装多発を受けて実施された国ぐるみの取り組みの成果は、灰燼に帰したといって過言ではない。

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2011年11月25日 (金)

民主制と独裁制

中央大学の大杉謙一教授が、1125日の日本経済新聞朝刊・経済教室に「問われる企業統治 トップの後継指名 透明に」と題する論考を掲載された。

論旨はとても明快。大王製紙(注;「王子製紙」と誤って標記しました。お詫びして訂正します)とオリンパスの事件を概観した上で、二つの提言をされている。一つは監督制度の充実であり、もう一つは後継者指名の透明化だ。いろいろなことを考えさせる、よいテキストだと思う。

株式会社は、薄く広くかつ大量の資本を集めるための、法律的な仕組みである。外部から資本を出して貰う以上、会社経営の内情は可能な限り公開され、判断材料が提供されなければならない。また、経営の素人に安心して金を出して貰うためには、監査役などの専門家が常に、経営の有様をチェックしなければならない。会社経営が透明で、監督制度が充実していることと、薄く広く大量に資本を集めることは、表裏一体の関係にある。株式会社において、企業統治の透明化が叫ばれるゆえんだ。

しかし他方、何のために投資するかといえば、端的に「儲ける」ためだ。だから、「会社経営が透明化されているが、株価の上がらない(配当の少ない)会社」と、「会社経営が不透明だが、株価の上がる(配当の多い)会社」のどちらに投資するかと聞かれれば、後者を選ぶ投資家は多いはずだ。「透明・不透明」「配当が多い・少ない」の組み合わせは4つあり、「透明で配当が多い」のが一番よいに決まっているが、世の中、なかなかそうは行かない。

同じことを社長の側から見れば、経営の透明化は株主に対する社長の責任だが、透明化すれば良い、というものではない。同じ日経の「私の履歴書」にあるとおり、名社長は常に孤独であり、その最大の仕事は後継者指名だ。投資家の利益を無視しているのではない。最大限に考えるからこそ、名社長は孤独になり、秘密裏に後継者を指名せざるを得ないのである。もちろん、逆必ずしも真ならず。秘密裏に後継者を指名する社長が名社長とは限らない。

会社におけるガバナンスの透明性と利益の問題は、民主制と独裁制の問題に似ている。国民利益追求には、優れた独裁者こそ適任だが、独裁制は、いつか国民を不幸にする。チャーチルの至言に倣い、我々は、ガバナンスの透明性を基本に据えつつ、利益追求との両立という困難な問題に取り組み続けなければならないのだろう。

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2011年8月19日 (金)

天竜川事故と規制国家ニッポン

817日、天竜川で観光船が転覆し、2人死亡3人不明(18日午後7時現在)という痛ましい事故が起きた。

日本経済新聞は、救命胴衣を大人の多くが着用していなかったことについて、「乗客に着用させるのが運行会社として当然の責任だ」という田川俊一弁護士の談話を掲載した。この事故を受け、国交省の担当者は、「(乗客)全員への着用義務づけも含めて検討する」と話したという。

こういう事故が起きると必ず出てくるのが規制強化論だが、やめた方がよいと思う。

乗客の救命胴衣着用を義務化するとなれば、義務を負うのは乗客ではない。規制の効果を上げるため、「着用させる義務」を船頭が負うことになる。自動車内では運転手がシートベルトを「装着させる義務」を負う(道路交通法71条の32項)のと同じことだ。その結果、事故が起きて救命胴衣未着用の乗客が死亡した場合、「着用させる義務」を履行しなかった船頭(とその雇い主)が、法的責任の少なくとも一部を問われることになる。

すなわち、事故自体は船頭の不可抗力であったとしても(たとえば、乗客が酔って突然川に落ちて死亡した場合でも)、救命胴衣を着用していれば助かった可能性がある限り、船頭(とその雇い主)は義務違反による法的責任を免れない、ということだ。もちろん、今回の事故のことではない。

他方、船頭の指示に従わず救命胴衣を着用しなかった乗客も、一定の責任を免れない。その結果、たとえば賠償金額の何割かがカットされることになる(これを過失相殺という)。

すなわち、乗客から見た場合、事故自体は100%船頭の過失であったとしても、救命胴衣を着用していれば助かった可能性がある限り、賠償金の一部が過失相殺される、ということだ。

誰がそんなこと言うのかって?弁護士が言う。私だって船頭側の依頼を受ければ必ず言う。法律がある以上、主張するのは弁護士の仕事だ。弁護士は、田川俊一弁護士のような、乗客の味方ばかりではない。

つまるところ、救命胴衣着用の義務化は、船頭側にも、乗客側にも、一定のリスクをもたらす。本当にそこまでする必要があるのか、よく考えた方がよい。ラフティングならいざ知らず、本件程度の川下りで、そんなリスクを負わせてまで、義務化する必要があるのか。船頭の小唄を聴き、酒を飲みながら景色を愛でる川下りに、暑苦しくて重たくて、下品なオレンジ色は似合わない。

国交省のお役人には、「救命胴衣着用義務化を検討しないのですか?」と記者に聞かれても、毅然として、「それは国が規制すべき問題ではありません」と答えてほしい。事件→マスコミ→役人→規制強化というループは、ホントにどこかで断ち切らないと、この国はどんどんおかしな方に行ってしまう。

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2011年5月13日 (金)

竹中平蔵氏の数学のセンスとリスク管理

 菅首相によると、今後30年間に浜岡原発周辺でM8以上の地震が起きる確率は87%なのだそうだ。では、今後1年間にM8以上の地震が起きる確率は何%か。

 そう思ってFACEBOOK上で議論していたら、竹中平蔵氏がTWITTERに「あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9」と書いた。

 これはかなり恥ずかしい間違いだろう。竹中氏は87%÷30という計算をしているが、「あえて単純計算をした」と弁解できるレベルの間違いではない。こんな計算をしては一橋大学どころか、県立高校にも入れない。日本を代表する高名な経済学者がこの程度の数学センスというのは、ちょっとがっかりである。弁護士は数学を知らなくてもつとまるが、経済学者は数学ができないとマズイんじゃないのだろうか。

 同様の感想を持った方はネット上多かったと見えて、例えば多田光弘氏は「(1-P)^30=13となるPの値を求めるのが正解」(”^”の記号は累乗)と言っている。これは、例えば、「いびつなサイコロを30回振って、一度でも1の目が出る確率が87 %の場合、1回振った時に1の目が出る確率Pは何%か」という問題の解き方だ。この問題の場合、30回振って一度も1の目がでない確率が13%だから、1回振って1の目がでない確率P30乗が13%になる、と考える。このやり方で解くと、1年にM8以上の地震が起きる確率は、約6.6%になる。

 一見正解のようだが、考えてみると、これも間違いではないか。11回の目の出方が独立していて、前後に影響を与えないサイコロモデルと、地震のモデルは、何かが根本的に違うような気がする。

FACEBOOKで議論につきあってくれた、ある優秀な弁護士は、「1年目に地震が起きて2年目~30年目に地震が起きない確率」「2年目に地震が起きて3年目~30年目に地震が起きない確率」…「30年目に初めて地震が起きる確率」を全て計算して総和が90%である場合、1年目に地震が起きる確率は約7.1%と主張している。こうなると私の頭では追いつけないが、やはり、なんとなく違う気がする。地殻にたまったエネルギーが放出されるという地震の性質上、一度地震が起きたらこの計算は当面(ほぼ100年間は)おしまいになるので、「地震が起きた後の確率」を計算に入れ込む必要は無いと思う。

 長さ30メートルの丸太の一本橋がある。この橋のどこかが1箇所だけ腐っており、上を通ると崩れ落ちる確率が87%とする。では、この橋の端から1メートル渡ったとき、橋が崩れる確率は何%か。地震モデルに近いのは、この「丸太橋モデル」ではないだろうか。で、どう計算するんだ?と聞かれても分からないが。

 リスク管理の問題として考えてみたらどうだろう。この丸太橋の下には、ネットが張ってあって、「安全対策は万全です」との看板がある。だが、同じ看板が立ててあった隣の橋のネットは弱すぎて破れ、谷底に落ちた人が大けがしてしまった。このときあなたは、87%で崩れる30メートルの橋の、最初の1メートルを渡るだろうか。

 竹中平蔵氏はきっと渡るのだろう。私は渡らない。どちらが愚かな人間だろうか。

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2011年5月11日 (水)

中部電力役員は、株主代表訴訟に耐えられるか

菅首相による浜岡原発運転停止要請に対し、代表訴訟リスクを理由に判断を留保した中部電力役員は、最終的には「内閣総理大臣からの要請は、極めて重いと受け止め」て、停止要請に応じることとした。

各報道を前提とする限り、中部電力役員は、株主代表訴訟リスクは十分考慮したうえで、首相の要請であることは免責事由になると判断したことになる。

そうだろうか。

コンプライアンスの分野で有名なダスキン事件の大阪高裁判決がある。「ミスタードーナツ」で提供していた中国製肉まんに、無認可添加物が使用されていることを知ったダスキンは、この事実を公表するかどうかを取締役会で検討した。このとき、当時の社長や会長が「全部食べられちゃったし、健康被害が出ていないのだから、いまさら公表しなくてもいいんじゃないの?」と判断したため、他の取締役も「会長社長がそうおっしゃるなら」と、これを追認した(註;発言部分は推測)。この追認は「経営判断」であるから株主代表訴訟上の責任を負わないという主張に対し、大阪高裁は、「あいまいで、成り行き任せの方針を、手続的にも曖昧なままに…承認したのである。それは、とうてい『経営判断』というに値しない」と厳しく断罪した。

「会長社長がそうおっしゃるなら」が違法なら、いわんや「首相がそうおっしゃるなら」においてをや。ダスキン役員の、いかにも日本的な、ありがちな意思決定を断罪した大阪高裁の裁判官なら、今回の中部電力役員の判断は、当然断罪するだろう。首相といえども経営責任を負わない赤の他人にすぎない。主要施設の操業停止について、赤の他人の判断を優先させるなら、役員報酬をもらう理由はない。

中部電力の役員が代表訴訟リスクを免れるためには、こう言わなければならなかったと思う。「首相の要請を受け、独自に検討した結果、予想される地震の確率や規模に照らし、浜岡原発の安全対策は十分でないと判断した」と。この「首相の要請」のところは、別に「首相」でなくてよい。王様は裸と言った少年でもよい。大事なことは、自分の頭で考え直したということと、その結果、以前の「100%安全」との主張は撤回する、と明言することだった。

中部電力の発言は、政府に貸しを作る意図だったのかもしれないが、株主代表訴訟リスクという意味では禍根を残した、というのが私の考えである。

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2010年10月18日 (月)

食品表示違反95%非公表

1017日の産経新聞は一面トップで、農水省が平成21年にJAS法違反で行った処分816件のうち、公表されたのはわずか5%に過ぎなかったと報じた。公表されなかったものの中には、中国産ウナギを静岡産と表示したものなど「悪質」と思われるものもあるという。社会面には関連記事として、農政局や農政事務所の弱腰調査や遅い対応、連携不足などの組織的問題があると指摘し、「農水省には『食の安全』の原点に戻る意識改革こそが必要」と批判している。

農水省の肩を持つわけではないが、これはかなり農水省に厳しいだろう。

行政指導と取締は、少なくとも実態においては似て非なる概念である。

指導とは、任意手続だが、官僚に幅広い裁量権のあるのが特徴だ。事業者を生かすも殺すも官僚次第。だが、官僚はこの生殺与奪権を簡単には行使しない。多くの場合、許してあげる。だから事業者は、官僚に対して自ら非を認め、許しを請い、二度とやらないと誓う。つまり行政指導は、食材、もとい「贖罪と赦しのシステム」だ。このような行政指導の本質から言えば、摘発された違反事例の95%が非公表というのは、あまりに当然の話だ。

このシステムの利点は、コストがかからない点にある。事業者が協力してくれるので、捜査に必要な膨大なコストが不要となるからだ。欠点としては、どうしても官民の癒着が発生する。

他方、取締は、強制手続きであり、官僚に幅広い裁量権はない。一度摘発したら、処分するかしないかを決め、処分するなら公表しなければならない(産経新聞はまさに公表を求めているわけだ)。勢い、批判に耐える処分をしなければならないし、間違って処分したら大変だから、綿密な証拠集めと事実認定が必要になる。他方事業者としては、一度摘発されたら、許してもらえないから、自ら不正を告白などしないし、調査に協力もしない。つまり取締は「相互不信と対決のシステム」だ。

このシステムの利点は、処分が公正に行われる点にある。欠点は、コストがかかる。また、事業者は協力してくれない前提で、客観証拠を迅速確実に収集・分析し、事実の筋を見極める能力が、担当者に要求される。

産経新聞の指摘は、今まで何十年間も「指導」を行ってきた農水省に、「取締」をしていないのはおかしい、というものだ。農水省に言わせれば、無理いいなさんな、というところであろう。

しかし、大きな流れや世論という視点から見れば、軍配は産経新聞に上がるのだろう。私自身、その流れに反対はしない。取締は指導より公正だ。現場の官僚に捜査は荷が重いというなら、是非弁護士に外注してほしい。

もちろん、コストがかかる。だが、これが「法化社会」というものの姿であり、わが国は、そのために弁護士を増やしたのだ。

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2010年8月23日 (月)

講演前にラーメンはNG(イトーヨーカ堂事件について)

 農林水産補助する食品安全セミナーのため札幌日帰り。大阪に比べ、10度近く涼しい。

 札幌駅前でラーメンを食べたのはよかったが、講演中のどが渇いて口が回らなかった。講演前に塩からいものは禁物と分かった。

 このセミナーを担当して3年目になるが、今年はとても参加者が多い。企業の関心の高さが窺える。

 さて、食の安全といえば、昨今報じられているイトーヨーカ堂の偽装事件であるが、これがどうも腑に落ちないでいる。

 報道されている限りでは、イトーヨーカ堂の担当社員が、中国から輸入したウナギの蒲焼きが大量に売れ残ったため、売却処分する際、同社が輸入したことを隠蔽しようとして、段ボール箱の詰め替えを行ったという。

 食品衛生法19に基づく食品衛生法施行規則21条1項ハは、食品輸入事業者の表示義務を課しており、その違反には2年以下の懲役または200万円以下の罰金が科せられる(併科も可能。食品衛生法72条)。だから、報道されたことが事実であるとすれば、イトーヨーカ堂の社員の行為は明らかに違法だし、両罰規定(78条)により、法人としてのイトーヨーカ堂も罰せられる可能性がある。

 しかし、輸入者名の偽装は、実質的にみれば、同じ条文で処罰される他の偽装行為、たとえば消費期限の偽装や産地偽装に比べれば、可罰性は低いだろう。また、報道によれば、偽装行為は箱の詰め替えだったから、食品の袋には、イトーヨーカ堂の表記ははじめからなかったと思われる。そうだとすると、偽装があってもなくても、転売された商品にはイトーヨーカ堂の名前は表示されなかったことになる。しかも5年前の事件で、健康被害はない。単純に見る限り、公訴時効が成立している。

 報道によれば、転売されたウナギはさらに賞味期限を偽装して転売されたという。それならば捜査機関は、イトーヨーカ堂の社員が、はじめから賞味期限の偽装を想定して転売したという構図に持って行きたいのだろうか。そうだとするなら、証拠が弱くないか。捜査機関の描く絵が何かが、よく分からない。もしかしたら政治がらみか、反社会勢力がらみかもしれない。単に重要な事実を見落としているだけかもしれないが。

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2010年8月17日 (火)

袋詰未検査米穀の不適正表示

農林水産省は64日、えひめ南農業協同組合が、「袋詰米穀について、未検査米を使用しているにもかかわらず、産地、品種及び産年を表示」した等として、JAS法に基づく指示を行ったと報道発表した。

「未検査米」とは、「農産物検査証明を受けていない原料玄米」をいう。米穀の生産者や、輸入業者は、生産し輸入した米穀について、検査を受けることができる(農産物検査法3条、4条)。「受けることができる」だから、受けなくてもよいし、未検査米のまま販売してもよい。だから、未検査米だからといって品質や安全性が劣るわけではない。ただ、未検査米を袋詰めにして販売するときには、品種、産年、産地を表示してはいけない。表示すると、JAS法(農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律19条の13に基づく「玄米及び精米品質表示基準」(農林水産省告示)5条に違反することになって、農林水産省の指導を受けるほか、2年以下の懲役又は200万円以下の罰金に処せられる(JAS23条の2)。つまり、未検査米の場合には、正しい表示をすることも(コシヒカリをコシヒカリと表示して売ることも)禁止されるのだ。「未検査米」と断ってもダメ。ばかばかしいような気もするが、制度上はそうなっている。

脱線すると、未検査米についての上記の規制は、袋詰めで販売する場合に限定されている(玄米及び精米品質表示基準1条)から、インターネットで販売する場合の表示や、量り売りをする場合の表示については適用がない。いよいよ馬鹿げている。

未検査米でも販売できる、ということが消費者に直接関係するのが、レストランでの提供や、米飯(炊いたお米)としての販売だ。この場合は、JAS法の適用がない。実際のところ、未検査米が多く流通しているらしい。もちろんこの場合でも、事実でないことを表示することは許されない。たとえば、事実でないのに「当店ではコシヒカリ100%のお米を提供しています」と表示すれば、「不当景品類及び不当表示防止法」(いわゆる景品表示法)4条違反になる。しかし、未検査米であることを表示する義務はないので、表示しなかったからといって違法ではない。つまり消費者は、米穀を購入する場合は検査米か否かを区別して購入することができるが、米飯を購入したり有料で食べたりする場合は、この区別ができないということになる。

冒頭に記したとおり、未検査米であるからといって、品質が劣るとか、安全性に問題があるということにはならない。しかしそれなら、何のために米穀検査制度があるのか、よく分からなくなってくる。

話を戻そう。えひめ農協は、未検査米であるにもかかわらず、産地や品種・産年を表示したとして摘発された。一方、報道によれば、えひめ農協は、コシヒカリと偽って、あきたこまちを販売していた疑いがある。そうだとすれば、消費者にとって関心があるのは、検査米か否かではなく、品種の偽装があったか否かとなるはずである。しかし、農林水産省のプレスリリースでは、この点に全く触れず、えひめ農協も、不自然な弁解をしてお茶を濁している。

これでは、消費者目線とはとても言えないだろう。

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2009年5月26日 (火)

「基準違反」とにかく回収?

5月26日の毎日新聞朝刊は、標題の特集記事で、基準値に違反する食物を何でも捨ててしまう風潮に警鐘を鳴らした。この記事は、基準値を超える(とはいえ一生食べ続けても健康にはまず影響のない濃度の)農薬等が検出されたため捨てられたウナギや、禁止されたシジミ漁、製品には何の異常もないのに井戸水から基準値を超えるシアン化合物が検出されたため製品自主回収に追い込まれた伊藤ハムを紹介したうえ、基準値を超えたら何でもダメという思考停止状態を批判している。

記事の主旨自体に異論のある人は少ないだろう。しかし、この記事のような漠然とした書き方では、解決策を見いだせないと思う。大きく3つに場合分けをして考えてみたい。

第一は、食品が、国が定める基準値を単純に超えた場合である。この場合、科学的に健康に対する影響が僅少であっても、客観的に食品衛生法に違反する以上、事業者には廃棄したり、漁を中止したりするほか選択肢はない。日本の基準値だけが極端に高くて不当だというのなら、国の基準値を改訂するほか無い。

第二は、記事にはないが、賞味期限シールの張替偽装や、産地偽装等に見られるケースである。このケースでは、多くの場合、健康に対する悪影響は全くない。しかしこの場合、事業者は、賞味期限切れであればその製品を購入しなかった消費者を騙して購入させたことになるから、消費者は、売買契約を取り消したり、瑕疵のない商品との交換を請求できる。よって事業者が偽装等した商品を回収するのは当然である。もったいないが、悪いのは事業者だ。

第三は、食品自体には上記のような問題が全くないのに、その製造・採取過程に何らかの瑕疵があったと場合である。この場合には、企業が適切な説明責任を果たした上でなら、食品の販売を継続しても問題はないと考える。「適切な説明」とは、例えば、「当社○○工場にて、食品の洗浄に使用している井戸水から法定基準値を超える○○が検出されましたが、当該食品の○%についてサンプル調査を行ったところ、異状はありませんでしたので、販売を継続します」ということになる。

ところで、伊藤ハムの事例はどうだろうか。上記の第三にあたり、必ずしも自主回収の必要はなかった事例だろうか。

まず指摘すべきは、「問題がない」という客観的状態と、「問題がないことが確認された」という企業の認識とは違う、という点だ。食品製造企業には、適切な方法で安全であることが確認された食品を消費者に提供する義務があるというべきだから、安全を脅かす相当な事情が発生した場合には、新たに安全を確認してからでなければ、その商品を提供することは許されない。伊藤ハムの事例では、商品の安全性を脅かす井戸水の汚染という問題が発生した後約一ヶ月間、製品の安全性を確認せずに販売を継続したという問題があった。この問題を前提にする限り、既販売食品の自主回収という伊藤ハムの選択はやむを得ないと考える。

この記事には無いが、ダスキン肉まん事件というものがあった。これは、ダスキンが中国の工場につくらせていた肉まんに、日本では認可されていないTBHQという添加剤が使用されていた事件である。この添加剤は、認可する国も多く、健康に対する懸念は無いといわれている。そこで、添加物の使用を知った二人の取締役は、その安全性を確認した上で、日本国内での販売継続を指示した。その結果、300万個を超える無認可添加物を含む肉まんが販売され、消費された。健康被害は出ていない。

読者はこの事例をどう思われるだろうか。記事の論調に従えば、この取締役の行為は何ら咎めるに値しない、むしろ捨てる方がもったいないということになるのだろうか。(小林)

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