日本製検索エンジンが生まれなかったわけ
Googleのような検索エンジンが日本で生まれなかった理由は、日本の著作権法にある、という見方が一般的だ。例えば2008年9月1日の週刊東洋経済には、「検索サーバーに情報を一時蓄積することは『無断複製』にあたり、検索結果を表示することが『自動公衆送信』になるため」、日本に検索エンジン用のサーバーを置くことができないと書いてある。ちなみに2009年の著作権法改正により、検索エンジンの合法性が明文で確認されたが、その後も、日本製検索エンジンが生まれることはなかった。
この見方は、耳になじみやすい。でも、よく考えてみると、疑問である。とはいえ、米国の著作権法にはまるで無知なので、話半分以下で読んでほしい。
当時、日本には、検索エンジンを違法とする法律はなかった。だが、合法とする法律もない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする一般規定はあった。だから、検索エンジンは違法の疑いを免れなかった、と論者はいう。
だが、これは日本だけの現象だろうか。
検索エンジンが開発される前の米国はどうだったのだろう。まだ存在しない検索エンジンを違法とする法律は、あるはずがない。もちろん、合法とする法律も、あるはずがない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする法律または判例は、たぶん(上述のように米国の著作権法にまるで無知なので)存在した。なぜなら、無断複製の禁止は著作権法の基本の基本だし、巨大映画産業を擁する米国がYOUTUBEへの映画のアップロードを規制しないわけがないからだ。
そうだとするなら、日本と米国の法環境は同じである。したがって、日本製検索エンジンが生まれなかったわけを、日本の法環境に求める主張は誤りということになる。
確かに、米国著作権法にはFair Use条項があり、日本にはない。Fair Use条項とは、著作物の利用目的や利用量、権利者の損害の度合いなどを考慮して一定の場合に無断利用を認める一般条項だ。一般条項だからもちろん、検索エンジンの合法違法は直ちに判別できない。日本の著作権法にFair Use条項はなく、これを認めた判例もないが、否定した判例もないはずだし、著作権者の「権利濫用」程度の抗弁なら十分成立しうる。だから、Fair Use条項の有無は決定打にならない。
結局のところ、彼我の違いは法制度ではなく、精神構造の違いではないのだろうか。
つまり検索エンジンを違法と断ずる法律がないとき、Googleは「検索エンジンを作ってよい」と理解し、日本人は「作ってはいけない」と理解した。「規制が無い」ことを「自由」と理解するのか、「禁止」と理解するのかの違いである。もし違法となった場合のリスクを、Googleは「取り」、日本人は「避ける」。
日本製検索エンジンが生まれなかったわけが、精神構造にあるなら、著作権法を改正したところで、100万年たっても、新技術を開発することはできないだろう。
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