2011年11月 2日 (水)

日本製検索エンジンが生まれなかったわけ

Googleのような検索エンジンが日本で生まれなかった理由は、日本の著作権法にある、という見方が一般的だ。例えば200891日の週刊東洋経済には、「検索サーバーに情報を一時蓄積することは『無断複製』にあたり、検索結果を表示することが『自動公衆送信』になるため」、日本に検索エンジン用のサーバーを置くことができないと書いてある。ちなみに2009年の著作権法改正により、検索エンジンの合法性が明文で確認されたが、その後も、日本製検索エンジンが生まれることはなかった。

この見方は、耳になじみやすい。でも、よく考えてみると、疑問である。とはいえ、米国の著作権法にはまるで無知なので、話半分以下で読んでほしい。

当時、日本には、検索エンジンを違法とする法律はなかった。だが、合法とする法律もない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする一般規定はあった。だから、検索エンジンは違法の疑いを免れなかった、と論者はいう。

だが、これは日本だけの現象だろうか。

検索エンジンが開発される前の米国はどうだったのだろう。まだ存在しない検索エンジンを違法とする法律は、あるはずがない。もちろん、合法とする法律も、あるはずがない。そして、著作物の無断複製や、公衆送信を違法とする法律または判例は、たぶん(上述のように米国の著作権法にまるで無知なので)存在した。なぜなら、無断複製の禁止は著作権法の基本の基本だし、巨大映画産業を擁する米国がYOUTUBEへの映画のアップロードを規制しないわけがないからだ。

そうだとするなら、日本と米国の法環境は同じである。したがって、日本製検索エンジンが生まれなかったわけを、日本の法環境に求める主張は誤りということになる。

確かに、米国著作権法にはFair Use条項があり、日本にはない。Fair Use条項とは、著作物の利用目的や利用量、権利者の損害の度合いなどを考慮して一定の場合に無断利用を認める一般条項だ。一般条項だからもちろん、検索エンジンの合法違法は直ちに判別できない。日本の著作権法にFair Use条項はなく、これを認めた判例もないが、否定した判例もないはずだし、著作権者の「権利濫用」程度の抗弁なら十分成立しうる。だから、Fair Use条項の有無は決定打にならない。

結局のところ、彼我の違いは法制度ではなく、精神構造の違いではないのだろうか。

つまり検索エンジンを違法と断ずる法律がないとき、Googleは「検索エンジンを作ってよい」と理解し、日本人は「作ってはいけない」と理解した。「規制が無い」ことを「自由」と理解するのか、「禁止」と理解するのかの違いである。もし違法となった場合のリスクを、Googleは「取り」、日本人は「避ける」。

日本製検索エンジンが生まれなかったわけが、精神構造にあるなら、著作権法を改正したところで、100万年たっても、新技術を開発することはできないだろう。

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2011年11月 1日 (火)

高速大容量通信技術と著作権法について

江戸時代後期の日蘭辞書『ドゥーフ・ハルマ』は33冊しか出版されなかった希少本だが、25歳前後だったころの勝海舟は、これを2冊写本し、一冊は自分の勉強のため、もう一冊は売って学費にしたという。『ドゥーフ・ハルマ』の写本は、適塾生にとっても、格好のアルバイトだったらしい。

今これをやれば、明らかな著作権法違反(21条、1191項)だ。だが、仮に広辞苑を写本して売る人間がいたとしても、取り締まる必要性があるとは思われない。所詮人力には限りがあるからだ。

同じことは、コピーした書籍についてもいえる。広辞苑の写しを販売するため全ページコピーした貧乏学生がいたとして、司直が取締に乗り出すとは思われない。

だが、自炊となると、話は別だ。タブレットPC用画像データとして販売する目的で、広辞苑の全ページをスキャンして電子化する行為は、直ちに取締の対象になるだろう。

法形式的には全く同じことをやっているのに、取締の必要性が全然違う理由は、専ら、技術的要因に求められる。具体的には、複写行為の容易性とスピード、複写物のデータの劣化の程度や、再複写・再譲渡の容易性等だ。これらの要因が複合的に絡み合って、その総合値がある閾値を超えると、法的取締の実質的な必要性が発生する。最近話題になった「自炊」と著作権の問題も、Scan SnapIpadの登場抜きには語れない。この現象は、著作権法に限る、とまでいえないとしても、かなり特徴的なことではないか。

複写技術の速度や正確性等、あるいは、ある種の商品の発売が、取締の必要性を左右するとするならば、法形式上は同じ複写行為であっても、これを格段に高速・大量・正確に行う革新技術が実装された場合には、取締の対象になりうる、ということを意味する。

近い将来、日本の通信インフラは、大容量・超高速通信に進化すると言われている。そうなったとき、いままで適法(とは言わないとしても事実上許されてきた)行為が、突然違法とされる可能性がある。一方でそれは、著作権法制の宿命かもしれないが、他方で、ICT技術産業に、深刻な萎縮効果をもたらす可能性がある。

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2011年10月25日 (火)

MYUTA事件とiCloud

MYUTAとは、au WIN端末向けストレージサービスである。ユーザーは、MYUTAからダウンロードしたソフトウェアを使って、手持ちのCDの音楽データを携帯電話用ファイルに変換し、パソコンに取り込んだ上、MYUTAの管理運営するサーバーにアップロードする。そして、携帯電話からサーバーにアクセスして、音楽をダウンロードする。

このサービス提供会社が、①音楽著作権者の有する複製権(著作権法21条)を侵害するか否か、②送信可能化権(231項)を侵害するか否かが、争われた。

平成19年(2007年)525日、東京地方裁判所は次のとおり判断した。第一に、サーバー上で携帯電話用音楽ファイルの「複製」を行うのは、ユーザーではなく、サービス会社である。第二に、音楽ファイルを「公衆送信可能化」するのも、ユーザーではなく、サービス会社である。だから、サービス会社は、著作権侵害の主体になる。

こうして、この裁判は、JASRAC側の全面勝訴で終わった。

著作権法301項は、私的使用目的の場合、「使用する者が複製」することを認めているから、ユーザーが独力でPCを駆使して音楽ファイルを複製することは適法だ。だが、本件サービスは、ファイル変換からサーバー保管までの複雑高度な過程を、当該サービス提供会社が作成し提供したソフトウェアにやらせているため、「使用する者が複製」した場合にあたらない、という判断である。確かにPCを操作しCDを挿入しアップロードのエンターキーを押すのはユーザーだが、「複製」の核心的な部分はサービス提供会社側にあるとの判断は、その通りだと思う。

本件サービスでは、PC内でのファイル変換から、サーバーへのアップロードまでが一連のものとして実行されるから、「複製」の主体がサービス提供会社であるとすると、「送信可能化」の主体も同社であることは、自然の流れであろう。そこで問題は、その「送信可能化」が「公衆送信」にあたるのか、という点になる。なぜなら、本件サービスは、アップロードした本人のみがダウンロードすることを想定しているため、このユーザーが「公衆」にあたらない、とも解しうるからだ。

この点について東京地裁は、1個のファイルとの関係では、ダウンロードできるユーザーは一人であるとしても、本件サービスの利用を希望する者は、金さえ払えば誰でもこのサービスを受けられるのだから、サービス提供会社にとって不特定の者であり、著作権法に定める「公衆」にあたると判断した。この判断は、後の最高裁の「まねきTV」事件や、「ロクラク」事件の判断に受け継がれていくことになる。

ご承知の通り、この判決には批判も強い。森義之知財高裁判事は、「一人のユーザーがアクセスすることができるサーバー上の領域は当該ユーザーのみであるという、11の関係が維持されていることを理由として、本判決に反対する見解も主張されている」という(著作権判例百選(第4版))。

夏井高人教授は、「MYUTA事件東京地裁判決やロクラクⅡ最高裁判決が正しいとすれば日本では全てのストレージサービスが違法であるかもしれない」「(MYUTA事件)判決理由の論旨は完全に狂っていると思うし無効な判決だと理解している」「これらの判決のせいで、日本のIT産業は終焉を迎えてしまっているかもしれない」「これらの判決を書いた裁判官らは、『歩く非関税防疫(貿易?)障害』とでもいうべき存在」とまあ、口を極めて罵っている。

確かに、iPhone4Sが発売されたのに、その中核的なストレージサービスであるiCloudが、日本ではJASRACとの協議未了のため、実現されていない。報道によれば、直接的な原因は著作権料のようだが、上記判決により、JASRAC側に交渉の主導権のあることも一因であろう。

だが、これらの判決によって、ストレージサービスが全て違法になるとは、私には思われない。せいぜい、音楽と映画の専用サービスに、一定の萎縮効果がもたらされる程度だろう。また、著作権法の世界では、「違法になる」からといって、「できない」わけではない。要は、著作権者に相応の金を払えば「できる」のだ。その額が高すぎるとか、JASRACが暴利をむさぼっているとかは、著作権法の解釈とは別問題だ。

これら一連の判決で示された裁判所の政治判断は、「(音楽)ストレージサービスはおよそ禁止すべき」ではなくて、「(音楽)ストレージサービスをするなら、著作権者に金を払いなさい」というものである。それはそれで、一つの判断だと思うし、立法趣旨にも反していないと思う。

少なくとも、大学教授に亡国の輩呼ばわりされるほど狂った判決ではないと思うのだが。

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2011年10月18日 (火)

自炊代行業と著作権について

1017日日経朝刊「法務インサイド」によると、国内88社の自炊代行業者に対し、122人の「人気作家」と出版社が質問書を送付した。自炊代行業者の中には、訴訟を恐れて廃業するところも出ているという。

「自炊」とは書籍を裁断し、スキャナーで電子化する作業のことで、データを「自分で吸い込む」ことから転じたと言われている。記事によると、自炊代行業の利用者は、本を段ボールに詰めて宅配便で送付し、データを受け取るという。中には、ネット通販で注文した書籍の配送先を自炊代行業者に指定し、データだけ受け取る人も珍しくないという。

自炊が著作権法上問題になるのは、301項の解釈に関わる。同条項は、著作物は「個人使用目的で、その使用する者が複製することができる」と定めているのだ。従って、自宅で自ら自炊することは問題ない。また、家族に作業して貰うことも問題ないと解されている。だが、自炊代行業者に自炊作業を委託することは「その使用する者が複製する」といえるのだろうか。

学者や実務家の多くは、自炊代行業は違法との見解を取る。自炊のための設備を備えた業者に有償で自炊を依頼するのは、もはや「その使用する者が複製する」とはいえないという解釈だ。この件に関する裁判例はないが、MYUTA事件の東京地裁判決や、まねきTV、ロクラクⅡ事件の最高裁判決を見ると、裁判所は違法と判断すると予想される。

異論はあるだろうが、法律が「その使用する者が」とわざわざ挿入した趣旨は、自ら使用しない者による複製を禁止するためとしか解されない。その目的は、複製を専門とする業者は、必ず違法な複製にも手を染め、あるいは複製物を横流しすることによって著作権を害する、という認識があるのだろう。

この認識が正しいか否かは議論すべき点だ。だが、間違っているとすれば、法改正によって正すべきであり、司法が正すには、法解釈の限界を超えていると思う。

ところで、記事によると、出版社側の代理人を務めるのは久保利英明弁護士である。あらゆる法的紛争に顔を出し、法網をかいくぐる零細ベンチャーを駆逐し、たった一人で日本の「法の支配」を実現せんとする久保利弁護士には、心からエールを送りたい。

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2011年10月 7日 (金)

まねきTV判決の調査官解説(Law & Technology51号)を読んでみた

誰でも一つくらい、ひいきのTV番組があると思う。特に、「探偵ナイトスクープ」に対する関西人の思い入れはすごい。これ見たさに、海外赴任を断る関西人はきっといると思う。

「まねきTV」事件とは、事業者がSONYのロケーションフリー(以下LF)を用いて行うサービスだ。具体的には、利用者から入会金31500円、月額使用料5040円の支払いを受けて、利用者が所有するLFを事業者事務所に設置し、TVアンテナに接続するとともに、インターネットを介して利用者の手元の端末に接続される。利用者は、端末からインターネット経由でLFに指示することにより、番組を視聴できる。これにより、例えば海外赴任中に日本のテレビ番組を視聴することが可能になる。

ところが、NHKなど放送事業者は、著作権法が放送事業者の専有を認めている「送信可能化権」と「公衆送信権」を侵害すると主張して、訴訟を起こした。

ここで「送信可能化権」とは、「公衆送信装置」に情報を記録する等すること(著作権法295)である。東京地方裁判所は、LFは利用者が自分で操作して自分にテレビ番組の情報を送る「11」の機能しか有しないから「公衆送信装置」にあたらないと判断し、東京高等裁判所も、LFは予め設定された単一の端末宛送信するという「11」の送信しか行わないから、「自動公衆送信装置」にあたらないと判断した。

ところが、最高裁判所第三小法廷は、判断を覆した。

すなわち、LFが「自動公衆送信装置」にあたるか否かは、「11」で決めるのではなく、「送信者」が「公衆」に送信する装置か否かによって決めるべきだとした。そして、「まねきTV」サービスの「送信者」は、LFを設置してアンテナと接続した事業者であって、利用者自身ではなく、この利用者は、事業者との個人的関係は不要であって、サービス利用契約締結によって誰でもこのサービスを利用できる不特定の者だから、送信者から見て「公衆」にあたるとした。

その結果、LFは自動公衆送信装置であることになり、これを利用した本件サービスは、「送信可能化権」と「公衆送信権」を侵害することになる。

以上数行が、A46頁に及ぶ解説の要約だ。間違いがある可能性大だから、鵜呑みにしないように。

結局のところ、地裁・高裁と最高裁の判断を分けたのは第一に、「公衆送信装置」を「11」に限るか否か、という価値判断と思われる。特別刑法でもある著作権法は罪刑法定主義に服するから、「公衆」が一人でもよい、という最高裁の解釈は、国民の感覚からは、控えめに言っても、かなり際どいところにある。それを承知で「11に限らない」という解釈を取らせた価値感は、「送信可能化を規制の対象となる行為として規定した趣旨、目的は…現に自動公衆送信が行われるに至る前の準備段階の行為を規制することにある」という判決文に表れている。それは、著作権侵害になる行為の芽を広く摘みたいという立法意思の尊重である。

第二は、「送信者」が誰か、という判断である。東京地裁は、LFをリモートで操作する利用者自身が送信者であるとしたが、調査官は、LFにアンテナ等を接続した事業者が送信者であるという。だが、アンテナ等を接続しただけでは、放送電波を含む雑多な電波がLFに届くだけだし、チューナーを操作して番組という著作物の記録を行うのは利用者だし、何より、アンテナを内蔵したLFならどうなるのか、という問題もあるから、調査官の説明は疑問だ。この点最高裁は、「当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者」が送信者だと述べており、要するにLFを設置しネットに繋いで起動しておくことで足りるから、認定としては、この方が適切だと思う。

  以上要するに、LFを本人や家族、友人が設定して、日本の番組を視聴させてあげることは合法だが、業としてこれを行うことは違法ということなのだろう。確かに、業者はTV番組の魅力に乗じて、殆ど労せずして稼いでいるという評価はあり得るところだろう。だが他方、「まねきTV」が、放送事業者のどのような利益を不正に侵害しているのか、今ひとつ分からないようにも思われる。

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2011年3月 2日 (水)

「題号」と「哀号」

「題号」とは、書物などの題名のことである。書物は一般に、著作権法上の著作物にあたるが、例えば「星の王子さま」という題号は、著作物にあたるだろうか。

「星の王子さま」の原典”Le Petit Prince”の著作権が20051月に切れたため、わが国では、岩波書店以外の出版社が続々と翻訳書を出版した。ところが、その多くが「星の王子さま」という題号を用いたため、元祖「星の王子さま」の翻訳者故内藤濯氏の遺族が、抗議したらしい(田附行政書士のブログより)。

著作権法の教科書によると、題号は通常、著作物として保護されないようだ。但しこれは法律の条文に明記されているわけではなく、そう解釈されているにすぎない。

著作権法上、著作者は原則として、自分の著作物の題号を勝手に改変されない権利を有する(同一性保持権。20条)。上記解釈に従うと、著作者は題号について、著作者人格権の一つである同一性保持権は有するが、著作権は有しないことになる。なんか変だなあ。原題”Le Petit Prince”と比較しても、「星の王子さま」は独創性のある、すてきな題名だと思う。

ところで韓国では、サン=テグジュペリ遺族財団から、その題名は商標登録されているから無断使用してはならない、との警告を受け、書店から「星の王子さま」が消えたと報じられた(2008414日朝鮮日報。ただ、韓国における題名が何かは分からない)。出版社の悲鳴が聞こえるようだ。この報道によると、韓国では、2015年まで商標登録されているという。

なぜ同じことが日本で起きなかったのか。それは、「特許庁の実務では、単行本の題名には原則として商標登録を否定するという方針を採っている」からだ(社団法人著作権情報センターのHPより)。

だが、商標法上、商標の定義は、「業として商品を生産し、証明し、又は譲渡する者がその商品について使用をするもの」(211号)だ。本の題名が商標に該当しないとは考えられない。これも、なんだか変だと思う。

ちなみに、楽曲のタイトルは、書籍と同じく著作物ではないとされているが、書籍と異なり、商標登録は認められている。変なの。

著作権法や商標法に限ったことではないが、日本では、法律の条文と運用が違うことが多い。これも、その例であろう。

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2011年2月16日 (水)

国境のトンネルは、どれだけ長ければよいのか?

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」は著作物か?という問題があるそうだ。福井健策弁護士は、「短すぎて独創的な表現とはいえない気がする」から、「おそらく著作物ではありません。」と述べている(『著作権とは何か』集英社新書)。

そうかなあ?少なくとも、短すぎるというのは、理由にならないんじゃないのかしら。俳句は全部、著作物ではないのだろうか。

誰の評論か忘れたが、「『国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。』までは、大したことはない。だが、これに続く『夜の底が白くなった。』はすごい。超一流の作家しか書けない」という趣旨の文章を読んだ記憶がある。この評論に従えば、二文目まで入れたら、著作物になるようだ。それなら、福井弁護士に従った場合、一文目までは短すぎるが、二文目まで入れたら、著作物と認められる程度に長いのだろうか。それならば、著作物と認められる文の長さは、何字なのだろうか?

「吾輩は猫である。」は著作物だろうか。野口祐子弁護士は、「創作性」がないから、「おそらく違う」と述べている(『デジタル時代の著作権』ちくま新書)。

そうかなあ?どうも、著作権の専門家と、私の感覚は違うらしい。福井弁護士の基準によれば、「短すぎて」当然に著作物ではないことになる。

「吾輩は猫である。」「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」「メロスは激怒した。」「山椒魚は悲しんだ。」「春は曙。」古今東西数多の文章の中で、冒頭の一文が著名なものは少ない。全体として名作だからといって、冒頭の一文が有名とは限らない。そうだとすれば、上記の冒頭文は、独創的で印象深いから、人口に膾炙するのだ。「創作性」が無いという理由づけには、やはり賛成できない。

著作権法の専門家が著作物性を否定するのは、実は、他の政策的な理由がある。これらの一文を著作物と認めてしまうと、同じ表現をしたら著作権侵害になってしまうからだ。著作権料の問題もあるし、それ以前に、著作権者を捜し出すのが一苦労だ。それは創作活動を萎縮させてしまう。そこで、著作権法の専門家は、「創作性」という言葉の意味を、「著作者に独占させることが、政策的に許容される記述」と読み替えているのだ。だがこれをストレートに使ったのでは、「著作権者に独占させるべきではないから、著作物ではない」と言っていることになり、同義反復でしかない。だから、「短い」とか「創作性」などという、分かったような言葉を使ってごまかしているのだと思う。

このあたりも、著作権法が分かりにくい、といわれる原因の一つではないか。

ちなみに、野口祐子弁護士の『デジタル時代の著作権』は、すばらしい著作だと思う。なにより、従前の概説書の枠組みを踏み越えたところがよい。できれば、上記の件についても、フェアユースの考え方などで解決できないか、検討して欲しかった。

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2011年1月26日 (水)

まねきTV事件の射程に関するメモ

まねきTV事件の最高裁判所判決の射程に関する評論は百花繚乱だが、私は「受信者からの求めに応じ」というところがポイントではないかと思うのでメモしておきたい

池田信夫氏は、この最高裁判決によれば、Eメールもウェブサイトも、著作権法違反として規制の対象になり得るのではないか、と指摘しているが、違うと思う。「受信者からの求めに応じ」るのではなく、送信者が主体的に送付する場合は、この判決の射程外だと考える。

確かに、技術的に厳密にいえば、Eメールもウェブサイト閲覧も、受信者がサーバーにアクセスして(=求めて)データを貰っているのだが、法律的規範的にはそう見ないのではないか。

「受信者からの求めに応じ」がポイントではないかと思う理由は、「11」の送受信のうち、「受信者からの求めに応じ」てデータが配信される場合を、特に意識しているのではないかと考えるからだ。

いいかえると、「11」の送受信のうち、送信者が誰かに映画の著作物を送付する場合は、原則として「公衆送信可能化」に当たらない(他の著作権法違反になり得る点は措く)。しかし、「11」の送受信であっても、「受信者の求めに応じ」てデータが送信される場合は、「公衆送信可能化」に当たりうる。なぜ11なのに受信側が「公衆」と解釈されるのかというと、そう解釈しなければ、受信者が数珠つなぎになって著作物データが流れていくモデルを規制できないからだ。「公衆送信」の典型である「1対多」という「熊手」モデルだけではなく、「1111対…」とか、「11対多」という「数珠つなぎモデル」を規制する必要がある、という政策判断を、最高裁判所はしたのではないだろうか。

11」で送信側に主導権がある場合、何を送信するか、誰に送るか、転送を許すかは、いずれも送信者が決めることだ。ところが、受信側に主導権がある場合は、送信側はその著作物がどうなるか、について何も決められない。つまり、受信側が、受信したファイルをどう使うか(転送や公衆送信に使うか)は、もっぱら受信側に任せられている。このような状態に当該著作物を置くことそれ自体が、著作権を侵害する危険のある「公衆送信可能化」として法規制に値すると、最高裁は判断したのではないだろうか。

私は著作権法についての見識は素人同然なので、この記事は見当違いである可能性が高いから、うかつに信用しないよう注意されたい。万が一、この見解が的を射ているとすれば、それはウィニー事件の最高裁判決で証明されるかもしれない。

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2011年1月25日 (火)

弁護士は増えた。次は訴訟だ。

「著作権法改正案に違法状態拡大の懸念」

 1月24日の毎日新聞朝刊は、標記の見出しで、著作権法改正に懸念を示す記事を掲載した。これについて、ちょっと頭に来たので、2点指摘する。

 教科書的な説明をすると、著作権法上、例えば書籍のコピーは複製(21条)に当たる。ではコピーが全部違法かといえば、私的利用(30条)は適法だ。このような適法行為を、現行著作権法は具体的に列挙している。しかし、改正案は列挙せず、公正な利用(フェアユース)にあたる場合は適法、とすることにより、「著作物の利用の促進による新事業の創出などを狙」うようだ。
 これに対して記事は、著作権法上適法となる「例外」の列挙をやめて一般規定を置くことについて、疑問を提起している。しかし、原則と例外が逆だ、とまず指摘したい。
 確かに著作権法の教科書には、複製は原則全て違法で、私的利用等はその例外、と書いてある。しかし、この考え方はおかしい。「所有権絶対」という私法の基本原理からすれば、購入した本は、読もうが、焚きつけに使おうが、所有者の自由だ。同様に、コピーしても、書き写しても、引用しても、売っても貸しても自由である。ただ、この自由を徹底すると出版、映画、音楽などの表現・芸術活動や産業を阻害してしまうので、著作権法は一定の複製行為等を禁止したのだ。だから、コピーの自由こそ原則であり、複製禁止は例外である。私的複製を適法と定める現行著作権法30条は、この原則を確認した規定と解すべきだ。少なくとも、こういう解釈もあって良いと思うが、聞いたことがない。なぜだろう。

 もっとも、私がちょっと頭に来たというのはこの点ではない。記事が改正案に対する懸念として、「著作権を巡る争いが起きた場合に、その解決を裁判所に委ねてきた米国に対し、例外を具体的に明記した…日本は、判例の積み重ねがない。日米の著作権文化には違いがある(から米国制度の導入はいかがなものか)」という下りだ。
 この内藤陽、臺宏士という記者は、何をトンカチなことを言っておるのだろう。君らは、「権利を巡る争いが起きたときに、その解決を裁判所に委ねる」ことに賛成したはずだ。著作権だけ例外とは言わせない。それが「法の支配」ということであり、司法改革の本質であり、そのために弁護士を増やしたのであり、君らはそれに、諸手を挙げて賛同し推進し、疑問を呈する弁護士や弁護士会を攻撃してきたはずだ。嘘だと思うなら毎日新聞もと論説委員の坪井明典氏に聞いてみたらよい。

 弁護士は増えた。次は訴訟だ。これこそ、毎日新聞が進むべき道だ。方針転換したというなら、連絡してほしい。撤回してもらう社説があるから。

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2011年1月12日 (水)

先生!それは疑似著作権とは違うと思います。

「疑似著作権」とは、福井健策弁護士の造語であり、「理論的には著作権はないのだけれど、事実上著作権に近いような扱いを受けている(あるいは受けかねない)ケース」「法的根拠はまったくないか、せいぜいが非常に怪しいものなのに、まるで法的権利があるように関係者が振る舞っている場面」と定義される。

このコラムでは、その一例として、著作権はとっくに切れたはずの「ピーターラビットの絵」を挙げる。これには全く異存ない。問題だと思うのは、産経新聞のこの記事(「疑似著作権」広がり懸念 福井健策弁護士に聞く)だ。

記事によれば、「建築物の写真」「撮影禁止の寺社」「ペット・菓子・料理の写真」について、「疑似著作権」が主張される場合があるという。

そうだろうか。

建築物の写真について考えてみたい。確かに、敷地内での撮影が禁止されている建築物は多い。これは撮影を禁止する権利がないのに禁止しているのだろうか。そうではない。建物の所有者は、所有権の一内容である施設管理権の効果として、入場者の写真撮影を禁止することができる。レストランで料理の撮影を禁止できるのも、貸店舗内で菓子の撮影を禁止できるのも、施設管理権の効果だ。もちろん、禁止に反して撮影した画像の公開を差し止めることもできるだろう。これらは立派な法的根拠があるから、疑似著作権ではない。権利者が間違って著作権と主張する場合もあるだろう。だが権利は確かにあるのだから、目くじらを立てるほどのことではない。

もちろん、撮影者が敷地に入らなければ、敷地管理権に従う義務はないし、その写真を公開することは、著作権法に違反しない。著作権法46条は、建物の写真を公開することは著作権の侵害にならないことを裏から認めている。菓子はもともと著作物でない(それ自体美術品と評価できるような菓子は除く)から、持って帰った菓子の撮影画像を公開しても著作権法に違反しない。

しかし、著作権が及ばないからといって、他の権利がないとはいえない。例えば、東京都には、東京都庁舎の写真を石原慎太郎知事の自宅と紹介されたら、その訂正を求める法律上の権利がある。パティシエが考え出した新作菓子の画像を、その発売前に無断で公開することも違法だろう。これらは著作権ではないが、著作者人格権に類似する私法上の権利の効果と考えられる。

また、個人の住居を敷地外から撮影し、これを公開することには、法的問題があろう。住人には、おそらくプライバシー権の一内容として、自宅の外観の撮影画像をみだりに公開されない権利を有する。ペットの飼い主は、おそらく所有権の一内容として、ペットをみだりに撮影されない権利を有する。

確かに30年前は、「ペットをみだりに撮影されない権利」は無かったかもしれない。しかし、一般市民が撮影画像を容易に公開することが可能になった現在、自宅やペットをみだりに撮影させないことは、個人の法的権利として認められるべきだろう。もちろん、権利として認めるからといって、神聖不可侵という訳ではない。他の権利や公共の利益との適切な調整が必要だ。

著作権がなくても、他の権利がある(こともある)。だから著作権がないからと、安易に「疑似著作権」のレッテルを貼るのは禁物だと思う。もっともこの記事は、福井弁護士の問題ではなく、記者の問題であろうが。

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