内藤頼博の理想と挫折(68)
占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。
木戸幸一と内藤頼博(9)
『木戸幸一日記』によれば、内藤頼博は昭和8年(1933年)2月28日、木戸幸一方を訪れ、山口魏宮内庁事務官、学習院大学の教授である馬場轍と石井國次学習院大学教授らの右派勢力を糾弾した。しかしこのとき、学習院は、華族の子弟共産主義に基づく活動を行い、治安維持法違反で検挙されるという「赤化事件」に揺れていた。
浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、この赤化事件でも、木戸幸一は黒幕として大いに活動したとされる。
木戸は、宮内省の担当者として、「赤化華族」に対しては厳しい処分で望む方針であったとされる。ところが、八条隆孟と森俊守に実刑の一審判決が下された昭和9年1月25日の4日後、『木戸日記』には次に記述が見られる。
「広幡君来室、赤化子弟父兄処分の件につき、御上に於いてもご心配にて、亀井茲常、山口正男等の気の毒な事情等を御引例になり、御注意ありしとのことなりし故、決して将来の立場を失うが如き処分は為さざる旨奉答方、依頼す」
浅見によれば、これは、昭和天皇が、逮捕された亀井茲建の父であり天皇の侍従であった亀井茲常や、山口正定の父であり、天皇の母貞明皇后の女官の息子であった山口正男らが、「赤化華族」の縁者として不利益を被らないよう、木戸に対して内々に意思を表明し、木戸がこれを承知したことを示している。そして木戸は、昭和9年3月、逮捕され釈放された森らを宮内庁に呼びつけ、「ギュウギュウしぼりあげた」が、公式の処分は譴責などの軽い処分とされた。また、逮捕勾留中であった岩倉靖子については、「山村良子」という偽名で留置されており、看守にさえ本名が知られない処置が執られていた。これは、「木戸たちの必死の根回しによる結果だったとしか考えられない」としている。
以上の事実から推定されることは、木戸は、昭和初期という時代の中で、宮中や華族社会から右派も左派も排除することによって、天皇(家)の権威を守ろうと奮闘していた、ということである。木戸から見れば、内藤頼博は左派ないしリベラル勢力の一員と分類されていたのであろうし、木戸自身、河上肇に私淑していた経歴に照らせば、左派ないしリベラルな思想に共鳴するところはあったと思われるが、実務においては、内大臣としての職務に徹したということなのだろう。
『木戸日記』昭和9年3月17日付には、赤化華族問題に携わることを「つくづく嫌な仕事だと思う」との記述がある。
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