2015年1月19日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(68)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

木戸幸一と内藤頼博(9

 

『木戸幸一日記』によれば、内藤頼博は昭和8年(1933年)228日、木戸幸一方を訪れ、山口魏宮内庁事務官学習院大学の教授である馬場轍石井國次学習院大学教授らの右派勢力を糾弾した。しかしこのとき、学習院は、華族の子弟共産主義に基づく活動を行い、治安維持法違反で検挙されるという「赤化事件」に揺れていた。

浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、この赤化事件でも、木戸幸一は黒幕として大いに活動したとされる。

木戸は、宮内省の担当者として、「赤化華族」に対しては厳しい処分で望む方針であったとされる。ところが、八条隆孟と森俊守に実刑の一審判決が下された昭和9125日の4日後、『木戸日記』には次に記述が見られる。

「広幡君来室、赤化子弟父兄処分の件につき、御上に於いてもご心配にて、亀井茲常、山口正男等の気の毒な事情等を御引例になり、御注意ありしとのことなりし故、決して将来の立場を失うが如き処分は為さざる旨奉答方、依頼す」

浅見によれば、これは、昭和天皇が、逮捕された亀井茲建の父であり天皇の侍従であった亀井茲常や、山口正定の父であり、天皇の母貞明皇后の女官の息子であった山口正男らが、「赤化華族」の縁者として不利益を被らないよう、木戸に対して内々に意思を表明し、木戸がこれを承知したことを示している。そして木戸は、昭和93月、逮捕され釈放された森らを宮内庁に呼びつけ、「ギュウギュウしぼりあげた」が、公式の処分は譴責などの軽い処分とされた。また、逮捕勾留中であった岩倉靖子については、「山村良子」という偽名で留置されており、看守にさえ本名が知られない処置が執られていた。これは、「木戸たちの必死の根回しによる結果だったとしか考えられない」としている。

以上の事実から推定されることは、木戸は、昭和初期という時代の中で、宮中や華族社会から右派も左派も排除することによって、天皇(家)の権威を守ろうと奮闘していた、ということである。木戸から見れば、内藤頼博は左派ないしリベラル勢力の一員と分類されていたのであろうし、木戸自身、河上肇に私淑していた経歴に照らせば、左派ないしリベラルな思想に共鳴するところはあったと思われるが、実務においては、内大臣としての職務に徹したということなのだろう。

『木戸日記』昭和9317日付には、赤化華族問題に携わることを「つくづく嫌な仕事だと思う」との記述がある。

 

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2015年1月13日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(67)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

木戸幸一と内藤頼博(8

 

『木戸幸一日記』によれば、内藤頼博は、昭和7921日に木戸幸一と面会し、学習院の同窓会である桜友会の理事として、同窓の先輩である木戸に意見具申を行った。また、翌昭和8年(1933年)228日、二荒芳徳伯爵らとともに木戸幸一を訪問し、山口魏宮内庁事務官学習院大学の教授である馬場轍石井國次学習院大学教授を糾弾した。彼らは、かなり強烈な右翼思想の持主として、当時の学習院を差配しようとしていたと推測される。そして、内藤らの意見を受けた木戸幸一は、馬場ら更迭の「黒幕」として行動したようだ。

しかし、当時の学習院を悩ませていたのは右傾化問題だけではない。華族やその子女の「赤化問題」もまた、木戸にとって頭の痛い問題であった。

学習院赤化問題の発端は、浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、大正14年及び昭和3年に行われた石田英一郎の逮捕・起訴が嚆矢であり、内藤が二回目に木戸を訪ねた昭和8年より5年以上前のことだ。だから、石田英一郎の逮捕・起訴は、内藤の木戸訪問とは関係がない。関係があるのは、昭和8年以降に起きた、一連の逮捕事件である。

治安維持法違反で逮捕されたのは、八条隆孟(118日逮捕、47日起訴)、森俊守松平定光327日逮捕)、久我通武と山口定男(328日逮捕)、上村邦之丞岩倉靖子329日逮捕)、亀井茲建420日逮捕)、小倉公宗(422日逮捕)、中溝三郎であった。

昭和8年11月8日の大阪毎日新聞は、「赤色線に暗躍する華族の子弟実に二十名 八条、森は遂に起訴さる 驚くべし学習院にメンバー結成」との見出しのもと、次のように報じている。

「非常時共産党にあっては「理論より実行へ」のスローガンをかかげ「目的の割には手段を選ばず」とてあるいはギャングとなり、あるいは武器を蒐集するなど全く従来にない兇悪性を示したがフランス革命の故智にならって華族階級の赤化を企て多数の華族子弟を獲得していた事実が暴露した、警視庁特高課では、事の重大性に鑑み毛利特高課長は検事局、内務省と、しばしば協議を重ね、その対策を議し断乎一斉検挙の方針に決し本年正月上旬赤阪区青山南町一ノ三三貴族院議員子爵八条隆正氏の次男隆孟(二九)を検挙したのを手はじめとして約二十名の華族子弟を検挙した

この華族赤化の経緯は昭和五年末学習院高等科出身田口一男(二六)が党上部の指導のもとに学習院在学生や卒業生などに働きかけ、間もなく当時学習院在学中の三重県の大地主の息伊藤満(本年四月検挙)や久我通武などを獲得し学習院生徒と卒業生の左翼団体として「目白会ケルン(中核)」なるものを組織し更に学内組織としては「突撃隊(ザリヤー)(曉の光の意で帝政時代のロシアの戦闘艦の名)なるものを組織し桜葉会(学習院校友会)の改革問題の闘争を通じて学習院内赤化に努めるとともに女子学習院にも働きかけて故海軍多少上村彦之丞氏の令孫上村邦之丞の実姉春子(死亡)および公爵家岩倉靖子などを獲得した、目白会ケルンが学習院を中心とした華族の子弟赤化の機関であったのに対し、昭和六年五月、党家屋資金局ブルジョア班のなかに「五月会」なる社交団体を作り、これを足場として学習院関係外の華族子弟獲得を行った、かくて学習院在学生卒業生のなかに多数のメンバーを獲得したが党上部はこれに対して資金調達の活動をなさしめ、その資金活動を通じてかれ等を左翼的に訓練したのであった、党中央部が資金調達にエロ手段をとったのにならってかれ等も長島栄次郎(二六)―学習院高等科卒―をキャップとしてエロ班を組織し十二枚一組のエロ写真を作り華族間の知人の間に一組二十五円で売りつけ三百五、六十円を獲得、これを党資金に提供したほか某代議士の娘をエロ仕かけで手なづけかの女をとりとして大いに資金を獲得せんとしたり上流子弟として全く想像し得ぬ悪辣な暗躍を行い、また男爵家中溝三郎(二七)は京都の華族間にメンバーを獲得し京都班を組織しようと同地で暗躍したが意の如くならず本年八月帰京したところを検挙されたのであった、今回検挙された学習院在学生や卒業生は森昌也(二五)小谷義雄をはじめ四十名にのぼっており起訴者も前記両名のほか数名におよんでいる、上流子弟である学習院生徒や華族の子弟が赤い運動に身を投ずるに至った原因は種々あるが、その大部分は家庭であることは当局を暗然たらしめた、なお学習院の馬場学生課長は学習院からかく多数の赤化分子を出した責任を感じて辞職した。

学習院の赤化運動を指揮していた一人で同院高等科を卒業し東京帝大を卒業した□□□□□は一〇・三〇検挙が開始されるや身辺の危機を感じ昨年末行方をくらましたが最近になって同人が満洲新京に潜伏し満洲国官吏養成所である大同学院在学中であることが判り近く逮捕の手が伸ばされることになった

華族子弟氏名

検挙され華族の子弟のうち重なるもの

男爵令弟山口定男(二五)▲子爵次男八条隆孟(二九)▲男爵長男上村邦之丞(二〇)▲子爵長男森俊守(二五)▲公爵令妹岩倉靖子(二二)▲男爵次男久我通武(二四)▲子爵長男松平定光(二四)▲伯爵長男亀井茲建(二四)▲子爵令弟小倉公宗(二四)▲男爵中溝三郎(二七)

そのうち八条、森の二名は起訴他はいずれも起訴留保の形式で釈放された」

逮捕された10名のうち、八条、森、岩倉以外は起訴留保で釈放された。多くは転向を約束したものとみられている。転向の意思を明らかにしなかった八条と森は起訴され、昭和9125日、八条に3年、森に2年の実刑判決が下された。八条は刑に服し、出所後は「模範転向者」として社会に復帰した。森は控訴し執行猶予判決を受けたが、昭和20629日に死去している。

岩倉靖子は逮捕後、警察はもとより親戚知人の説得も聞かず転向拒否を貫いたが、起訴された後である昭和99月、師と仰いでいた横田雄俊の転向を聞いて転向の意思を表明し、1211日、釈放された。その10日後、自宅の布団に横たわったまま剃刀で右の頸動脈を切断して自殺した。見苦しくないように着物の裾を縛っており、駆けつけた医師は「見事な最期だ」とつぶやいたという。

岩倉靖子はいうまでもなく、岩倉具視の子孫である。岩倉具視の孫には有馬記念で知られる有馬頼寧、曾孫には哲学者の森有正、玄孫には俳優の加山雄三、来孫には参議院議員の亀井亜紀子、女優の喜多嶋舞といった名前が並ぶ。

岩倉靖子を共産主義の道に導いた横田雄俊は、大審院院長(192396日―1927819日)であった横田秀雄の四男であり、長兄の横田正俊は、戦後最高裁長官となった。横田は、前任の横田喜三郎最高裁長官ほどではないにせよ、リベラルな立場をとったとされ、東大剣撃部の後輩である石田和外に次代の最高裁長官の地位を譲った。また、横田秀雄の妻秀野の夫である霜山精一も大審院院長(1944915日―194759日)であった。

 

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2014年12月 3日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(66)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(7

昭和初期、内大臣木戸幸一を悩ませたのは、学習院の赤化問題だった。

すなわち、学習院に学ぶ家族の中に、明治政府体制に公然と反逆し、コミンテルンの指導の下に君主制の打倒を目指す日本共産党の活動に加わり、その結果、治安維持法違反に問われ検挙される者が現れたのである。

浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』(2013年 平凡社新書)によれば、維新の志士の一人として、男爵に叙せられた石田英吉の長男英一郎(明治36630日生)は、旧制一高入学後、菊川忠雄の勧誘を受け、校内の社会思想研究家に参加し、マルクス主義の研究に没頭した。同時に貧民街での奉仕活動を熱心に行い、自らの出自と裕福さに悩む日々を送る。京都大学に進学し(浅見雅男によれば、河上肇の講義を聴きたかったからではないかとのこと)たが、大正14121日、京都府警特高課が京大等の学生の住まいを令状無しで捜索し、33名の身柄を拘束した「京都学連事件」で逮捕され、不敬罪で起訴された。石田英一郎は爵位を返上し、京都大学を退学、禁固10ヶ月の判決を受ける。保釈後、非合法組織であった日本共産党に入党する。その後、昭和3315日に全国で一斉に行われた共産党員検挙事件(3.15事件)で逮捕され、懲役6年の実刑判決を受け服役し、昭和9年夏に出所した。転向したわけではないが、服役中に共産主義への失望を深め、出所後は文化人類学者としての道を歩む。戦後は昭和23年に法政大学文学部教授に就任、東大教養学部、東北大学文学部などの教授を歴任し、日本民俗学協会理事長に選ばれるなど、日本の文化人類学研究を主導する一人として、第一線を歩み続けた。

昭和434月、石田英一郎は多摩美術大学の学長となる。当時の多摩美大は、学生運動の嵐が吹き荒れていた。同学の非常勤講師であった奥野健男によれば、石田は、「紛争が起きるや学長室を四六時中学生に開放したばかりではなく、学生の中にとびこんで自ら理論闘争の口火を切った」という。

だが、石田英一郎は昭和43119日、学長就任から僅か7ヶ月にして、肺癌のため死去する。65歳であった。

ちなみに内藤頼博は、昭和50年、同じく多摩美術大学の理事長に就任し、54年には学長に就任している。内藤と石田が直接の知り合いであった文献は見当たらないが、お互い旧華族であり、知己であった可能性は否定できない。

また、石田が師と仰いだとも言われる河上肇の治安維持法違反事件を担当したのは、藤井五一郎裁判官であり、この裁判を若き日の内藤頼博判事が注目していたことは、以前ご紹介したとおりである。

石田英一郎を共産主義の道に勧誘した菊川忠雄は、特に逮捕されることも転向することもなく、全日本労働総同盟本部総主事・日本労働組合総同盟総主事を歴任した後、日本社会党から衆議院議員に当選して3期務めたが、1954926日、洞爺丸事故で遭難死した(享年53歳)。この事故で、菊川と共に遭難した冨吉栄二衆議院議員は、戦前の衆議院選挙(翼賛選挙)で落選し、占拠妨害を理由に大審院で選挙無効を勝ち取った人物である。軍部の圧力に負けず、選挙無効の判決を言い渡し、「気骨の判決」賞賛されたのは吉田久判事であり、内藤頼博判事は、吉田を応援する座談会「法律新報」紙上、『戦時下における裁判道』と題する座談会に最若手として出席した。

このように、人々の糸は、どこかで少しずつ繋がっている。

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2014年11月27日 (木)

内藤頼博の理想と挫折(65)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(6

『木戸幸一日記』を「学習院問題」で検索すると、次のとおり、多数の記述を見ることができる。

昭和5128日「(霞山会館に於いて)午後6時より、午餐会の運中と宮内省幹部との会食に出席、食後、学習院問題、華族問題等につき意見を交換し、10時過散会す。」

昭和827日「午後六時、華族会館に於て近衛公と共に平泉澄博士と会食、同博士より最近大学方面の赤化の有様を聴く。

同博土の意見によれば、我国の現状は赤化の手、あらゆる方面

に延び、誠に寒心すべき状熊にあり、明治維新の宏業も今日の有様にて推移するに於ては、結局建武中興の大業と同じく、後世より之を見れば失敗に帰したりと評せらるるに至らんと云ふにあり。昭和維新の大眼目は天皇御親政にありと説く。傾聴に値する点少からず」

228日「正午、火曜午餐会に出席す。二荒伯と学習院問題につき語る。同伯は自ら御用掛として改革の衝に当り度き希望あり。考慮を要する問題なり」

31日「11時、二荒伯来庁、学習院問題につき面談」

33日「午前十時官邸に湯洩宮内大臣を訪問。学習院問題につき従来の経過を語り、今後の方針として先づ馬場教授を勇退せしむることにつき諒解を得、尚、宅野検挙に伴ひ宮内省内部の粛清の必要を力説す」

36日「退庁前、大谷次官と宅野事件、学習院問題等につき相談す」

310日「11時半、二荒伯来庁、学習院問題につき相談す」

524日「午後六時より十一会を開催。織田、佐々木、松平、黒木、裏松の諸君来会、政局の問題、高橋蔵相留任に伴ふ政友会の動向、赤の問題、殊に華族の子弟の赤化問題、学習院の将来、京大瀧川(幸辰)教授休職問題等に渉り論議し、1215分過ぎに至り散会す」

525日「午後6時より丸の内東洋軒に於て荒木学習院長の招宴あり、出席す。学習院の教育方針、赤化学生対策等につき意見の交換を為す」

621日「午後三時、華族会館に至り、学習院評議会特別委員会に出席、池田(克)司法書記官より学習院関係の赤化事件の様子を聴く。午後五時より同所に於て、酒井・細野両君と会し、京都大学紛擾問題につき協議す」

719日「午後3時半より、大谷次官々邸に至り、次官、宗秩寮総裁、其他の人々と共に学習院問題を研究す。結諭を得ず」

725日「11時、次官室に於て、次官、酒巻(芳男)総務課長と共に学習院問題を相談す」

昭和9129日「武宮君来室、森俊成干息(俊守)の赤化事件判決に関し同子の執るべき万針につき相談ありたり。廣幡君来室、赤化子弟父兄の処分につき、御上に於ても御心配にて、鶴井(蚊常)、山ロ(正男)等の気の毒な事情等を御引例になり、御注意ありしとのことなりし故、決して将来の立場を失ふが如き処分は為さざる旨を奉答方、依頼す」

昭和929日「本多(猶一郎)書記官より、赤化華族の処分につき検事局当局と打合せたる結果を聴く」

昭和9313日「4時半、岩波・本多両事務官と共に大臣官邸に至り、…所謂赤化華族の処分案につき協議し、決定を受く」

315日「11時、久我通武を招き、赤化問題につき面談」

105日「午後3時半、御召により朝香宮邸に伺候、拝謁す。壬生(基義)伯令嬢(種子)の副島伯令息(種義)と結婚希望につき、意見を徴せらる。蓋し副島伯令息の赤化事件に関聯せしことあるによるなり。余は同件処分の其意を述べ、差支なき旨を御答す」

1110日「久保氏、原田男と共に来庁、住友〔吉左衛門〕男の亥人として副島.小倉両氏の赤化事件其後の経過等を尋ねらる。余の知れる丈は話す」

昭和10320日「11時、久保田(譲)枢密顕問官来庁、美濃部問題、華族問題、学習院問題等につき意見を開陳せらる」

昭和18626日「十一時、東條首相参内、連絡会議の決定につぎ奏上。面談。武者小路子来室、中山侯、蜂須賀侯の問題、学習院問題等につき隔意なく意見を交換す」

以上から明らかなとおり、学習院問題の他の一端は「華族の赤化問題」であった。

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2014年11月19日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(64)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(5

侍従次長河井弥八日記『昭和初期の天皇と宮中』によると、昭和7年(193167日、「日本紙上に宅野田夫の宮内省攻撃の記事あり。陛下より御下問あり。恐懼に堪へず」との記載があるとのことだが、木戸幸一日記に宅野田夫が最初に登場するのは、これに先立つ昭和6930日のことだ。

「宅野田夫、相不変内大臣攻撃の文を新聞日本に掲載す。今回の分は殊に猛烈にして、暗殺の教唆の如き傾あり。之が対策につき、小野(八千雄)、工藤両秘書官と相談す。其結果、段々警視庁の内部を信用し能はざる事情あるを看取したるを以て、先づ之に対し相当の対策を講ずることとし、宮内次官とも相談して同意を得。」とある。

宅野がどのような文章を書いたか未調査だが、その立ち位置からして内容は自明だろう。

その後、昭和7917日「午前十時出勤。十時半、次官室に於て次官と面談す。内大臣進退問題、宅野田夫の件なり」、1116日「帝国新報掲載宅野田夫の記事取消の件につき、村地(信夫)官房主事と打合す。」、昭和8227日「正午、東京クラブに於て藤沼警視総監、近衛、原田、高木、酒井、岡部の諸君と会食す。藤沼君と宅野一派の取締につき懇談す。」昭和832日「正午、アラスカに於て松本警保局長、原田男と会食、松本局長より宅野田夫留置に至る経過につき詳細聴取す。足裏に飯粒のついた様な存在だったが、留置されたので不愉快なデマの無くなった丈気持がよい。」とある。一連の記述からは、警察内部に対する影響力を固めた上で、宅野逮捕にこぎ着けた木戸幸一の政治力を見て取れる。

そして、この昭和832日という日付は、内藤頼博が二荒芳徳伯爵らとともに木戸を訪ね、馬場轍・石井國次学習院大学教授らの専横を直訴した日の3日後であり、これを受け、木戸が馬場轍教授を更迭させた日の前日であった。

つまり、このとき、言論界では右翼策動家であった宅野田夫が宮中の「弱腰」を弾劾しており(宮中にも宅野に呼応する動きがあった)、学習院内部では右派が学内を牛耳っていて、この二つは連動していたため、木戸はその双方を同時に排除するべく行動したことがうかがえる。

宅野の逮捕と、馬場教授の更迭によって、問題は一段落したかに見えた。しかしその後、学習院全体を揺るがす事件が起きることになる。

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2014年7月10日 (木)

内藤頼博の理想と挫折(63)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(4

美術人名辞典によると、宅野田夫(たくのでんぶ)は、「画家。明治28年(1895)東京生。名は清征。岡田三郎助に洋画、田口米舫に日本画、王一亭・呉昌碩等に南画を学ぶ。また、頭山満・後藤新平らとも交際があった。画風は自由奔放で、幻想画・洋画・水彩画・南画を能くした。歿年未詳。」とされている。

交際があったとされる後藤新平18571929)は、「台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。」(wikipedia)とされ、日本の大陸進出や植民地経営を推し進めた人物であった。

東山満18551944)は、「明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。号は立雲。玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、アナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。」(wikipedia)とされる。

また、柏書房株式会社のサイトによれば、宅野は右翼思想家蓑田胸喜(18941946)の盟友として『新聞と社会』という右翼系新聞批評紙の顧問として参加しており、「宅野田夫の手によって蓑田の天皇機関説排撃活動の裏舞台がリアルタイムで報告されて」いるとのことである。その「舞台裏」に触れた別サイトには、宅野は西園寺(公望?)に対して、天皇機関説排除の目的を伝えたとある。

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2014年6月23日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(62)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(3

『木戸幸一日記』上、内藤頼博の名前が出てくるのは、昭和7921日につづき、昭和8年(1933年)228日(火)である。やや長文だが、この日の記載を転記すると、次のとおりだ。

「午前九時半、犬養健君来訪、内閣の寿命、将来の政治動向等につき意見を交換す。十時半出勤。

正午、火曜午餐会に出席す。二荒伯と学習院問題につき語る。

同伯は自ら御用掛として改革の衝に当り度き希望あり。考慮を要する問題なり。

午後七時より華族会館に二荒、淺野(長武)、内藤、佐藤、入江(相政)、明石の諸君と会し、学習院の現状につき其の真相を聴き、改革の意見を交換す。要するに現在は山口(魏)事務官、馬場(轍)・石井(國次)両教授、所謂トリオを形成し専横を極むるものの如く、先決問題は馬場氏を勇退せしむることにして、之が空気を作るに寧ろ山口事務官をして其衝に当らしむるを可とすと云ふが余の意見なり。途中より辞去。

蜂屯に於ける原田の海軍大臣以下海軍首脳部招待会に出席、十時過帰宅す。」

二荒とあるのは、二荒芳徳伯爵(18861967)当時47歳。入江相政19051985)は戦後昭和天皇の侍従長を務めた人物として記憶されている方もあろうが、この時点では弱冠28歳だ。浅野長武(1895-1969。当時38歳)は広島藩主の嫡流、明石元長は第7代台湾総督明石元二郎の長男だが、戦後台湾独立運動を支援中42歳で急死した人物らしい。ここから逆算すると生まれは1910年頃、内藤とともに木戸幸一を訪れた折は23歳ということになる。「佐藤」だけでは、誰のことか分からない。いずれにせよ、この会合の中心人物は、名前の順番からしても年齢からしても、二荒芳徳伯爵だったと思われる。

一方、二荒らが糾弾した対象である山口魏とは宮内庁事務官であり、馬場轍石井國次はそれぞれ学習院大学の教授である。後世に残る業績は特にないようだが、国立国会図書館で著書の題名を検索すると、馬場の著書としては『純忠乃木精神』(1944)、石井の著書としては『今上陛下之御聖徳と皇道』(1937)『国民の覚悟 : 戦時教育』(1904)などがあるので、その思想的拠はだいたい知れよう。

さて、二荒らが木戸に訴えたところによると、当時の学習院は上記山口、馬場及び石井が専横を極めており、これを排除することが喫緊の課題であったらしい。同日昼の会談において、二荒は「自ら御用掛として改革の衝に当り度き希望」を木戸に述べたが、木戸は態度を留保し、夜の会談では「馬場氏を勇退せしむることにして、之が空気を作るに寧ろ山口事務官をして其衝に当らしむるを可とす」との意見を述べている。

33日の日記には、次の記述がある。

「午前十時官邸に湯浅宮内大臣を訪問。

学習院問題につき従来の経過を語り、今後の方針として先づ馬場教授を勇退せしむることにつき諒解を得、尚、宅野検挙に伴ひ宮内省内部の粛清の必要を力説す。尚、朝香宮殿下の過日漏されたる内大臣に対する御考へ及び国際聯盟の真相に関する御考へをも話て、対皇族問題の等閑に附し得ざる現状を説明す。」

つまり、木戸は内藤らと会った3日後には、馬場教授更迭を事実上差配している。馬場教授に関しては、翌昭和921日の日記に「朝、加藤鋭五君来訪、馬場(轍)元学生課長の娘の素行問題、之に関聯して昭和寮の風紀棄乱の状を話あり。実に驚き入りたることなり。」との記載がある。加藤鋭五は後に改名して京極高鋭となり、昭和の音楽評論家として名をなした人物だ。「風紀紊乱」の中身は分からないが、馬場教授の身辺には問題のあったことがうかがえる。

また、「宅野」とは、宅野田夫という画家であるが、この宅野の検挙と学習院問題、それに「宮内庁内部の粛清」とは、どういう関係があるのだろうか。

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2014年6月16日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(61)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(2

「木戸幸一日記」を全ページスキャンしてOCRをかけ、「内藤頼博」で検索した作業だが、実際のところ、木戸幸一日記に内藤頼博が登場したのは3回しかない。

一回目は、昭和7921日である。「午後7時より、内藤(頼博)、明石(元長)両君其他3氏来訪、桜友会の改革につき意見を聴く。理想のみに走らず実行可能なるものより徐々に着手することを勧む。」とある。

昭和711月といえば、明治41年生まれの内藤は24歳。昭和5年に司法試験に合格し、昭和712月から東京地裁で予備判事として勤務する直前ということになる。

桜友会とは、学習院の同窓会である。桜友会ホームページによれば、「弘化4年(1847)京都で主に公家対象の学習所としてスタートした学習院が、維新後の明治10年(1877)東京・神田錦町に再興されて間もなく、卒 業生有志によって「学習院同志会」が設立されました。その学習院同志会は、明治33年(1900)に、規模を拡大「学習院同窓会」と改称、さらに21年後 の大正10年(19211月には抜本的な組織改変が行われ、今日の学習院同窓会である「桜友会」が誕生しました。」とある。内藤自身、昭和55526日から昭和621130日まで、桜友会会長を務めている。

平成2年に発刊された『櫻友会史』に内藤頼博が登場するのは、昭和5年から7年までの理事就任(841頁)及び昭和8年のことである。『桜友会史』183頁によると、従前卒業生相互の親睦組織であった桜友会が、「時代の変遷とともに大学進学等後輩指導の必要性を生じ、昭和81018日開催の通常総会において事業の一つとして、学生部を新設するに至った」とある。そして、初代学生部委員は「吉田清風、戸田吾郎、松平乗光、渡邊八郎、戸沢冨壽、岡部長景木戸幸一浅野長武三宅正太郎、内藤頼博、長崎守一柴山昌生、林秋義、相澤忠男、榊原政春、山根三郎、鮫島武久、杉浦正三」とある。なお、「時代の変遷とともに大学進学等後輩指導の必要性を生じ」とあるのは、その後の学生部の活動から推察するに、当時熾烈となってきた受験戦争の中で、東大や京大を志望する学習院学生を確保する必要性が生じてきたことを意味するようだ。

桜友会学生部の初代理事には、蒼々たる名前が続くが、注目すべきは木戸幸一、三宅正太郎、内藤頼博の3名であろう。内藤は任官前から、木戸や三宅と知己があったことを裏付けている。

そして、昭和711月に内藤が木戸を訪問したことは、当時桜友会理事であった内藤が、学生部創立の企画や、委員就任について、大先輩(19歳上)の木戸に意見具申や要望を行ったことを示すと思われる。これに対して木戸が「理想のみに走らず実行可能なるものより徐々に着手することを勧む」と応えたのは、若く理想に燃える内藤を、木戸が多少諫めた、というところだろう。

これは、昭和7年の時点で、内藤と木戸がかなり親しかったことを示すエピソードと思われる。

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2014年6月 9日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(60)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

木戸幸一と内藤頼博(1

木戸幸一は、1889年(明治22年)、侯爵木戸孝正の長男として生まれた。明治の元勲木戸孝允(桂小五郎)は、祖母の兄にあたる[1]。学習院高等科では近衛文麿の一学年上で親交があり、卒業後、京都大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。農商務省、商工省を経て内大臣府秘書官長に就任し、1939年(昭和14年)の平沼大臣で内務大臣を歴任。1940年(昭和15年)から内大臣を務め、元老西園寺公望が同年11月に死去した後は、昭和天皇が最も信頼を置く「最後の内大臣」となり、東條英機を首相に推挙したことでも知られるが、戦況悪化後は早期和平に尽力した。終戦後、戦犯として逮捕され東京裁判で終身刑の判決を受けるが、その際証拠として提出された木戸幸一日記は、戦前戦中の実情を記した一級の資料として知られている。

その木戸幸一日記には、内藤頼博との面会記録も記されている。

日記には、戦前戦中に木戸幸一が面会した相手やその内容が克明に記されている。同日記は現在公刊されており、天皇はもちろん近衛文麿など著名人との面会記録については索引が設けられ、検索が容易になっている。ただし、面会の相手は全員が索引に網羅されている訳ではない。そこで、図書館から借りてきた木戸幸一日記の全ページをOCRにかけて文字を読み取り、検索することによって、索引にない人物との面会記録を追うことにした。昨今OCRの性能が上がったとはいえ、「小林」のように画数の少ない漢字は正確に読み取るものの、「内藤頼博」のような画数の多い漢字は誤読しがちである。また、氏名が行をまたぐ場合には認識できない。このような制限付きながらも、いくつかの興味深い記述に巡り会うことができたので、以下、ご紹介したい。


[1] 但し、『木戸幸一日記』3頁には「木戸孝允の孫に当たる」と明記されている。

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2014年5月26日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(59)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

『家永史観』批判(2

戦前戦後の司法権の歴史を学ぶ上で、教科書的位置にあるのが、家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』である。本論考にも、この本の記述を基盤として論を進めた箇所がある。

しかし、戦前の裁判官が時の権力に対抗した一連の裁判を分析してみると、同著に著された歴史観には、異議を唱えざるを得ない。

象徴的なのはこの記述だ。「(裁判所)独立論者は制度の改革に関しては勝利を占めたが、反対論者はそのしかえしとして、細野長良らの最高裁裁判官就任を阻止する策動を行い、その結果裁判所独立のために戦ってきた細野らはことごとく裁判所を追われて下野せざるをえなかったのである。[1]

この記述によれば、細野らを追い落としたのは「裁判所独立の反対論者」だということになる。また、家永によれば、これら「反対論者」は戦争中、消極的にせよ軍部を支持したことが示唆されている。しかし、河合栄治郎事件で無罪判決を書いたため左遷された石坂修一は、反細野派として活動した[2]。資料はないが、石田和外や、岸盛一も、その思想的立ち位置からして、反細野派に属していたものと思われる。また、尾崎不敬事件で軍部に逆らった三宅正太郎は、戦後公職追放されていたが、内藤頼博の述懐によれば、最高裁判所長官の選定では、反細野の立場で活動した。つまり、反細野派は、決して「裁判所独立論」の反対論者ではなかったのであるし、ましてや、戦時中、軍部による裁判所支配を是としていた者でもなかったのである。

家永史観は、故意か過失か、このあたりを全く無視し、反細野派をまるで、裁判所独立を否定する勢力と位置づけてしまっている。しかし、細野派に勝利し裁判所を支配したのが裁判所独立を否定する勢力であるなら、その勢力の中心でとんとん拍子に出世したのが石田和外である説明がつかない。家永史観は、明らかな事実誤認を冒していると断ぜざるをえない。

戦前から戦中にかけて、司法をめぐる勢力分布は、裁判所独立派か反独立派かという二項対立では説明できず、より詳細な分析が必要である。

少なくとも、当時の司法省を牛耳っていた平沼騏一郎と軍部はことあるごとに対立していた。そして、司法内部でも、裁判所は、平沼が支配する司法省との間に、微妙な緊張関係を保ち続けていた。裁判所内部には、進んで平沼に媚を売った両角誠英のような者もいたが、決して平沼になびこうとしない藤井五一郎や石田和外のような裁判官も少なくなかった。また、平沼や軍部に対し面従腹背の態度をとり続け、裁判所独立の機運を伺っていた三宅正太郎は、裁判所の中で隠然たる勢力を持っていた。

細野派と反細野派の対立は、裁判所独立派と半独立派の対立ではなく、裁判所独立派同士による、独立のあり方をめぐる対立と理解するべきである。


[1] 家永三郎『司法権独立の歴史的考察』92

[2] 『ある裁判官の歩み』223

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