2008年4月30日 (水)

PRIVATE CONVERSATIONとは密談か?

平成20430日の各紙報道によると,砂川事件の最高裁判所判決(1959年)の前に,当時の駐日米大使と田中耕太郎最高裁判所長官が「密談」していたことを示す文書が米国国立公文書館で見つかった。発見者で国際問題研究者の新原昭治氏は,「内政干渉であり,三権分立を侵すものだ」と話しているという。

砂川事件とは,法学部の学生なら「統治行為論」として必ず勉強する有名な事件である。立川米軍基地拡張反対デモ隊の一部が,基地内に数m立ち入ったとして住居侵入罪に問われた裁判で,一審の東京地裁は旧安保条約が違憲であると判断した。これに対して最高裁判所大法廷は,日米安保条約のような高度な政治性のある条約が憲法に違反するか否かの判断は,原則として司法判断になじまず,一見極めて明白に憲法違反でない限り,裁判所の司法審査権の範囲外であると判断した。今回見つかった文書は,この最高裁判所判決の前に,駐日米大使と最高裁長官との間に「密談」があったとするものである。

しかしちょっと待ってほしい。毎日新聞にはこの文書の原文が掲載されているが,この原文によると,「密談」に該当する英文は"SECRET CONVERSATION"ではなく,”PRIVATE CONVERSATION”である。直訳すれば,せいぜい「私的な会話」,もしくは「非公式な意見交換」であろう。直ちには「密談」にはならない。もしかしたら,「米国政府内文書に,”PRIVATE CONVERSATION”とあれば『密談』を意味する」というお約束があるのかもしれないが,それなら,そう書いてもらわないと困る。それに,会話の内容は「最高裁大法廷の判断までに少なくとも数ヶ月かかる」というごく一般的かつ抽象的なものであり,最高裁長官でなくても答えられるレベルのものである。毎日新聞によると,奥平康弘東大名誉教授は「話の内容が何であれ批判されるべきことだ」とコメントしたそうだが,最高裁長官たるもの,駐日米大使とこの程度の会話をしてもいけないのだろうか。

筆者は密談の存在自体を否定するつもりはない。それもあり得る話だと思う。しかし,”PRIVATE CONVERSATION”だけで「密談」と決めつけるのは短絡的すぎる。例えば,最高裁長官を米大使館に呼びつけて会話したなら確かに大問題だし,最高裁長官に直接電話をかけて聞いたのでも問題であろう。しかし例えば,何かのパーティでワイングラスを片手にこの程度の会話を交わすなら特に問題はないと思う。逆に,裁判係属中だからと言って一切の会話を拒否するのも,一国の最高裁長官の取るべき態度としては大人げないと思う。つまり,大事なのは”PRIVATE CONVERSATION”かどうかではなく,そのシチュエーションなのだ。新原昭治氏は,せっかく昭和史上の大発見のすぐ近くにいる(のかもしれない)のだから,もう少し慎重に調査して発表すべきだったのではないか。”PRIVATE CONVERSATION”程度で「密談」と大騒ぎするのでは,勇み足との誹りを免れないだろうし,共産党の政治宣伝と勘ぐられてもやむをえないだろう。(小林)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月24日 (火)

機動警察パトレイバー2と20世紀的軍事クーデターと報道の自由

押井守監督の「機動警察パトレイバー2the Movie」を久しぶりに鑑賞した。1993年に公開されたこの作品は,柘植行人というひとりの天才的戦略家が2002年の東京に仮想の戦争状態を作り出す有様を描いたものだ。何回見ても傑作だと思う。もっとも,地下鉄サリン事件(1995年)やニューヨーク同時多発テロ(2001年)を予言したともいわれるこの作品の先見性について,筆者には解説する見識も能力もない。その代わりといっては何だが,発想を逆転して,この映画が描いた2002年の東京には無くて,実際の東京にあるものについて,思うところを記しておきたい。

この映画が描いた近未来(2002年)の東京に無くて,実際の2002年の東京にあるものはインターネットである。映画で柘植行人の部隊は,強力な妨害電波を発信する飛行船を周回させ,橋を爆破し,電波塔と電話線を破壊・寸断して東京を情報的な孤島に陥れる。しかしネット社会となった実際の東京においては,映画に描かれただけの破壊工作では,東京を情報的な孤島に陥れることは不可能であろう。ネット社会は,原理的に,「頭を潰せば全身が麻痺する」という構造になっていないからである。

もちろん,この映画を製作した時点において,押井守監督がネット社会の到来を予測していなかった筈がない(同監督はこの映画の2年後にハイパーネット社会を描いた「GOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を製作している)。しかし,日本中・世界中に張り巡らせたネットの網の目から東京を切り離すためには大規模なサイバーテロを仕掛けなければならない。そこまで描くことはある意味リアルかもしれないが,映画としてのまとまりが無くなってしまう。そこで押井監督はあえて「インターネットの存在しない東京」を舞台に設定したのだと思う。

このような次第で,今回この映画を見て筆者が感じたことは,「現代の日本では20世紀的な軍事クーデターは起こせないだろうなあ」ということであった。なぜなら,20世紀的軍事クーデターは,放送局や報道機関の占拠による情報統制が成功の鍵を握る。ところが,現代ネット社会では,軍を含む特定の勢力が確実かつ長時間情報統制を行うことがおそらく不可能だ。たとえば,2006年のタイ軍事クーデターは記憶に新しいが,報道管制が敷かれる一方,「現在,衛星放送全チャンネル,視聴できません。」という書き込みが何のチェックも受けず,インターネットを通じて全世界に発信された。また,アル・カイーダのホームページが堂々と公開されている現状を見れば,エシュロンやキーストロークといった世界的規模の監視システムも,実効を挙げていないというべきだろう。2.26事件を2002年の東京に再現してみせたこの映画は,2007年の現代から振り返る限り,皮肉にも,現実に再現することは不可能であったことを証明したともいいうる。もちろん,それがこの映画の価値をいささかでも減じるものではないが。

ところで,「不正義の平和と正義の戦争」とは平和ボケした日本を痛烈に皮肉る劇中の台詞である。不正義か否かはさておき,現行憲法は平和主義を柱の一つにしている。もっとも,平和主義を規定しているのは前文と9条等だけではない。憲法21条1項は,「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。」と定める。これは一般に表現の自由を保障するものとして理解されているが,「集会,結社および言論,出版」を表現の自由の代表例として列挙した規定ぶりが示すように,これは政治的言論を主として念頭に置いた規定である。逆に言えば,言論統制への反省から,自由な政治言論こそ平和国家の礎であるとの認識が生まれ,これに基づき,憲法21条が規定されたのである。表現の自由の保障もまた,平和主義の一つのあらわれである。

日本国憲法制定当時,政治的言論のメディアとしては,新聞と出版,ラジオとせいぜいニュース映画であった。これらのメディアは,いずれも,編集局や放送局といった「頭」を支配すれば,全体を統率することが可能であり,その意味では非常に脆弱なメディアであった。その後のメディアとしてテレビジョンが登場したが,これも脆弱性という意味では,従前のメディアと同様である。これら報道メディアの脆弱性は,20世紀的軍事クーデターの標的になってきたのであり,機動警察パトレイバー2the Movieにおいても,端的に指摘されたことである。このように,「非常に重要だが非常に脆弱」であるという特質から,「報道の自由」は,表現の自由の中でも,とりわけ強い保護を受けている。これを「報道の自由の優越性」ということがある。

さて,「報道の自由の優越性」の根拠がその重要性と脆弱性にあるとするならば,現代ネット社会において「報道の自由の優越性」は揺らいでいることになる。すなわち,インターネットという比較的強固なメディアの登場は,従前の報道メディアを優先的に保護する必要性を減少させているという見方が可能である。もちろん,このように言い切れるほど,ネット社会が発展し成熟した状態に現在あるか,については大いに疑問であるが,将来,報道の自由の優越性が相対的に低下していく方向性にあることは間違いない。ネット社会が世界を変えるとは良くいわれることであるが,その具体例は,こういうことなのだ。(小林)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

番組改編訴訟について

 1月30日付の日本経済新聞朝刊によると,「従軍慰安婦問題をめぐる民間法廷を取り上げたNHKの特集番組に取材協力した市民団体が,無断で番組内容を改変されたとして損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決において,東京高等裁判所は製作会社1社だけに賠償を命じた一審判決を変更し,NHKと2社に計200万円の損害賠償を命じたとのことである。NHKは即日上告した。

 この裁判は,番組の内容が内容であるだけに,様々な立場から様々な意見が表明されているが,裁判所は番組の内容の是非には一切無関心であるし,無関心でなければならない。裁判所が問題としたのは,放送番組編集の自由(放送法3条)が,取材対象者との関係でも完全に保障されるのか否か,という点であろう。

 放送法3条は,「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」と規定している。放送は時間という枠に制限されるから,編集権は放送の自由の中でも,とりわけ重要な権利である。取材テープの編集も,当然自由である。

 しかし他方,取材の結果を放送する以上は,最低限,被取材者が言わんとするところのポイントを放送しなければ,少なくとも,放送倫理上は問題である。昨今話題になっている「発掘!あるある大事典」でも,学者のインタビューのうち,番組に都合の良いところだけ放送して,番組に不都合な学者の結論をカットした例があったようだが,放送倫理上はやはり問題である。

 もっとも,放送倫理上問題であるとしても,違法であるか否かは別問題である。実際のところ,特にテレビ放送には編集により,視聴者受けする部分だけを切り取って放送する傾向があり,その結果として,発言者の真意が伝わらなかったり,誤解を受けたりする場合もありうる。そのような場合,特に政治家からいちいち訴訟を起こされるようなことになれば,そのこと自体,報道の自由に対する重大な脅威となろう。そこで,放送法は,憲法の定める表現の自由の保障を受け,いかなる編集を行うかは100%報道機関の自律的意思決定に委ねたとして,完全な編集権を保障したと解釈することも可能である。

 この点,新聞報道によれば,東京高裁は,本件について「NHKは国会議員の意図を忖度(そんたく)して番組を改編した」と認定し,その他の事情も総合した上で,被取材者に対する法的責任を負うと判断したようである。憲法が保障する報道の自由は,いかなる政治的圧力にも屈しないという報道機関の強固な意志が前提であるところ,具体的な圧力もかけられていないうちから,政治家の意思を早合点してそれにおもねるのであれば,報道機関が自ら報道の自由を放棄したということになる。この認定が正当であるならば,NHKは放送法3条及び憲法によって保障された番組編集の自由を自ら放棄したと非難されてもやむを得ないであろう。(小林)

| | コメント (0) | トラックバック (0)