2009年9月29日 (火)

著作権法と表現の自由(備忘録)

 米グーグルの絶版書籍電子化に関する和解案に関して、2009年9月28日の毎日新聞朝刊「メディア事情」に、岡村久道弁護士が、論考を寄せている。

 この和解案というのは、作者が異議申立をしない限り、金銭補償を条件にグーグルが絶版書籍を電子化して無断利用できるというものだそうだ。

 私は、この問題については全く疎いのだけれども、論考で目を引いたのが、この和解案は表現の自由を害するという岡村弁護士の指摘である。

 すなわち、「表現の自由」は、「沈黙の自由」を含み、これは書籍を「絶版にする自由」も含むから、著作権法は「増刷時に内容を修正増減する権利」や「絶版する権利」を認めてきた。和解案は、この権利を侵害するというのである。

 私のような凡人は、著作権法を財産権的にしか考えていなかったし、どちらかと言えば表現の自由と対立するように思っていた(紀藤正樹弁護士のブログご参照)。しかし、言われてみれば、著作物も表現の一種であるし、著作権法は財産的価値のない著作物をも保護しているから、著作権法も表現の自由の一つの現れだとする岡村弁護士の指摘は、一理あると思う。もちろん、対するグーグル側の電子化・ウェブ上の公開行為も表現の自由によって保障されているから、ご指摘に従う場合、両者は同じ表現の自由として、対等の関係に立つことになる。著作権を財産権とのみ考えると、表現の自由に一歩劣るとなりがちだが、そうではない、というのが、岡村弁護士の論考の眼目だと思う。

 ただ、著作権法上の絶版の権利は、本当に表現の自由の一内容と考えて良いのか、また、仮に良いとして、絶版書籍の電子化・ウェブ上の公開が、既発行書籍に関する著作権の問題として論じれば足りるのではないか、すなわち、わざわざ絶版の権利との対立関係を持出す必要があるのか、については、私の理解はまだ及んでいない。(小林)

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2009年7月20日 (月)

「テロリズムの罠」 右巻・左巻 (佐藤優 角川新書)

先日有罪が確定して失職し、「起訴休職中外務事務官」の肩書きが取れてしまった佐藤優氏の随想集。氏がマルクス経済学に傾倒していることは前著「国家の罠」で記されているが、本書は、新自由主義の破綻をマルクス経済学の視点から分析している。

すなわち、マルクスによれば、労働者を搾取することは、資本主義の本能である。しかし、労働者を搾取しすぎると、商品購買力がなくなってしまい、資本主義は自らの首を絞めることになる。東西冷戦の時代、資本主義は、共産主義と対立しつつも、労働者の購買力を支えるために共産主義的政策を取り込むことによって、資本主義を止揚し、発展させてきた。しかし、共産主義諸国が崩壊し、敵を失った資本主義は、本能の赴くまま、新自由主義へと突き進み、大量の絶対的貧困者を作り出した。これらの絶対的貧困者は、寄るべき社会組織を持たず、アトム化しているが、ひとたびカリスマ的リーダーが登場してこれを糾合すると、容易にファシズムを生み出す。ファシズムの行き先は、戦争など、全国民の不幸だ。佐藤氏はこのように述べて、アメリカや日本の将来を憂う。

私はマルクス経済学の素養は全くないが、佐藤優氏に限らず、マルクス経済を語る人は、とてもわかりやすく世界を分析してみせる。あまりに分かりやすすぎるので、天の邪鬼な私は、眉につばをつけずにいられない。全部が間違っているというつもりはないが、政治・経済活動のプレーヤーである個々の人間の、とても人間くさい何かを視点に加える必要があるような気がする。本書の中で著者が、当時の福田首相の退陣を予見できなかったり、オバマ大統領の当選を予見できなかったことは、快刀乱麻のマルクス経済学だけでは足りない何かがあることを示しているのではないか。

また、佐藤優氏は、「年収200万円以下の国民が10000万人を超えるというのは尋常ではない」と繰り返し危機感を煽る。絶対的貧困層が少なからず発生し、喫緊の政治的経済的課題であることは私も同感だが、この数字にはやや疑問がある。日本人のほぼ10人に一人が絶対的貧困層であるという実感に欠けるのだ。

私の尊敬するある人が、この話題についてこう言った。「本当に、年収200万円以下の国民が1000万人以上いるなら、なぜ、自殺者が年3万人しかいないのか?」

いろいろケチをつけたが、本書の基底を流れる著者の憂国の思いには大いに共感できる。(小林)

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2009年7月14日 (火)

「自由とは何か~監視社会と『個人』の消滅」 大屋雄裕 ちくま書房

新宿歌舞伎町には50台以上の監視カメラが設置されており,もはや撮影されずに歌舞伎町に行くことは不可能らしい。アメリカでは,1994年以降,性犯罪前歴者の情報は基本的にアメリカ全土において,インターネットで公開されている。また,一部の州では,前歴者にGPS付足輪を装着させ,小学校など一定の場所に近づくと警告を与える制度が実施されている。

このような,先端技術を用いた監視システムに対して,いわゆる人権派から,個人の自由に対する不当な侵害だ監視社会だという非難がなされている。これに対して大屋は,そもそも犯罪を行う自由はないし,一般市民に~被監視者に対してさえ~一定の利益をもたらしているのは事実だし,適切に運用される限り一般市民の自由を不当に侵害することはないと言う。「監視の背後に人々を幸福にしたいという信念や善意があることは,多くの場合に事実であり,我々は,監視が親切であることを認めることから出発しなければならない」。そして,「監視」に対立する「自由」とはそもそも何かと大屋は問う。近代市民社会に想定する人間は,自由で自律的な意思決定が可能なものであることが前提とされているが,それが人間の実態とかけ離れていることは,すでに証明されている。そうだとすれば,こんな観念上の「自由」をそれほど尊重する必要があるのかと。そもそも近代市民社会が想定した個人の自由が擬制であり,個人と社会の幸福実現のツールに過ぎないのならば,監視強化によって個人と社会の幸福が実現できるとき,「自由」は必要なのだろうか。

この問いに対して大屋は共感を吐露しつつ,「自由を擬制し,自由に基づく選択の結果(リスク)を個人に負担させる」という近代社会のシステムは「まだ」尊重すべき価値があるという認識を本書の結論とする。

刺激的な内容が平易な言葉で論じられており(法哲学書に「がちょーん」が引用されるとは…),大変興味深く読んだ。あえて注文を付けるとすれば,この問題を論じる場合,監視技術の(近い将来における)技術的限界点はどこかという問題と,監視技術濫用のリスクをどの程度見るか,という問題を避けて通ることができないのに,本書はあえてこれらの問題を回避しているように見える点である。著者の大屋氏はまだ30代半ばであり,今後のご活躍を期待したい。(小林)

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2009年7月 6日 (月)

「司法改革の時代」 但木敬一 中公新書

バブル経済崩壊からグローバル化を迎え、日本の司法のあり方は大きく変わった。刑事司法の分野でも、国民参加の時代を迎え、裁判員制度が実施されることになったが、司馬遼太郎が言うとおり、日本人の知的水準はとても高いので大丈夫。いままでの刑事司法の良いところを残しつつ、国民から支持される検察になれる。信じて頑張れ若手検事諸君。

だいたいこんな内容の本である。司法改革に対する検察トップの考えを知る上で大変興味深い。当然のことだが、弁護士会が考える刑事司法改革のあり方とは全く違う。もちろん、弁護士会が正しいと言うつもりはない。

たとえば取り調べの録画は、自白の任意性を証明するための手段だから、自白場面の録画で十分、ということになる。違法な取り調べは、録画をしなくても、高潔で厳格な捜査官の職業倫理で防げるというわけだ。

司法改革に関する著者の歴史認識は私と大きく変わらないし、著者のたつ穏健改革派とでも言うべきスタンスも支持できる。ただ、著者が故意に事実と異なることを言っている点を1つだけ指摘しておきたい。日本の治安が悪化している根拠として強盗認知件数の急上昇を指摘している点だ。これは、それまで窃盗として処理されてきたひったくりのうち悪質なものを強盗として処理した結果であるから、事実としての犯罪そのものの増加を示すデータではない。著者は検事だから、当然それを知っているし、同じ本の別の場所で、強盗と同じく暗数の少ない殺人は減少していると言って矛盾を顧みようともしない。問題は、なぜこんないい加減なデータを引用してまで、治安の悪化を強調するのか、という点にあるから、考えてみてほしい。

裁判員制度になっても、日本が誇る精密司法は維持しなければならない、というお立場は理解できるが、裁判員制度と精密司法の両立は無理じゃないかと思う。裁判員制度は原理的に、実体的真実主義から手続的正義方向に重心を移動するものと考えるからだ。そもそも、99%を超える日本の有罪判決率は国際的に異常だし、そんな有罪判決率を維持できなくなったって恥ずかしくない、という視点を検察自体が持ってもよいと思う。そんなに肩肘を張ったら続かないよ、きっと。続けたくないのかもしれないけど。(小林)

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2009年6月28日 (日)

婚外子の相続差別は少子化の一因か?

628日の日本経済新聞社説「日本の『結婚』は今のままでいいのか」は、法的に結婚していない両親から生まれる「婚外子」の割合が欧米諸国で増え続けているのに対し、日本では格段に低いことを指摘し、出生率上昇の障害を取り除くためには、「婚外子の相続差別を無くさねば始まらない」と言う。

さっぱり分からない。

民法9004項は、嫡出でない子(婚外子のこと)の法定相続分は、嫡出子の2分の1と定める。この条文については、憲法の定める平等原則違反だという議論がある。私は、合憲論違憲論とも理解できる。理解できないのは、これと少子化問題を結びつける社説の考え方だ。だって、婚外子の相続分差別のせいで、子作りや出産をためらうカップルって、いるのだろうか?いるとするなら、若いのに、よほど金持ちで、よほど心配性なんだろうなあ。

もちろん、婚外子を作るカップルは、両方若いとは限らない。その典型は、妻子のある男性が愛人との間に婚外子を作るパターンである。相続分の差別が問題になるのも、このパターンが多い。この差別が合憲か、あるいは妥当かという問題は別途議論いただくとして、この問題と少子化との間に、関係があるのだろうか?もし相続差別を撤廃したら、いわゆる不義の子は増えて、少子化問題が少しでも解消に向かうのか?

この二つの例を比べていただければ分かるが、「婚外子」の相続差別の問題は、「婚内子」(こんな言い方はしないのだけれども)がいるから発生する。事実婚を選択したカップルや、誰とも籍を入れていない男女間で生まれた子供は「婚外子」だが、これと相続分を争う「婚内子」がいないから、相続差別は受けない。そして、少子化対策問題と関係する「婚外子」は、籍を入れない若い男女の間の子、すなわち相続差別を受けない婚外子が(少なめに見積もっても)大半だ。だから、理論的に見ても、婚外子の相続差別問題は、少子化問題の一因ですらない。

少子化問題は大事だろうし、家族法を少子化対策の観点から見直すことにも異論はない。ただ、その切り口として婚外子の相続差別をもってくるのは、見当違いだと思う。(小林)

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2009年6月24日 (水)

大津地裁彦根支部執行官室

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井伊直弼の居城でもあった彦根城二の丸にあるこの建物は、どう見ても番屋である。

裁判所は、この建物が彦根市民にどう見られているか、考えたことがあるのだろうか。

そもそも、「執行官」とは、この番屋で何を「執行」する役人と思われているのだろう。「執行」と聞いて「民事強制執行」を直ちに連想できる市民は少数で、多数は別の「執行」を連想するだろう。いっそ、鉢巻にたすき掛けで抜身の日本刀を下げた侍にうろうろさせたら面白い。

「市民の司法」「国民の司法」というスローガンは大いに結構だが、日本の裁判所の多くがなぜお城にあるのか、考えてみることも大事だと思う。〈小林〉

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2009年6月11日 (木)

株主はなぜエライのか?

日本経済新聞の「大機小機」は,匿名ならではの鋭い切り口がウリなのだろうが,稀に,とてもレベルの低いコラムを掲載することがある。

611日の「株主による企業統治を疑う」という大層な表題でコラムを書いた「猪突」氏は,「なぜ上場企業の株主にこれほどまでに大きな権限が与えられているのだろうか,という素朴な疑問」から始まり,「会社の様々な利害関係集団の中でも貢献が目立たないのが株主である。にもかかわらず企業統治に関し過大ともいえる大きな権限が与えられている理由は」株主が会社の所有者であるという「法技術的な解答」や,会社債権者よりリスクが高いという「まっとうな答え」でも説得力が無く,結局「歴史的な経緯でこうなった」のに過ぎないのだろうと言う。

過大か否かはさておき,株主は企業統治に関して大きな権限を持つ。株主総会には経営陣の任免権があり,黒字の会社を潰すことだってできる。その根拠は何か。株主は出資者だからである。「猪突」氏は知らないようだが,こんなことは基本の基本である。出資者とは,起業するときや事業を拡張するとき,起業家の器や事業の将来性に賭けて資本を提供した人だ。つまり会社の生みの親であり育ての親である。芸能人のパトロン,相撲取りのタニマチである。「会社に対する貢献が目立たない」とは何事だろう。こういう手合いを俗に「恩知らず」という。

こういう批判記事を書くとピントのずれた反論をする人がいるからあらかじめお断りしておくが,私は,株主の権限を制限するべきだというコラムの主旨に対して賛成も反対もしない。私が言いたいのは,猪突猛進も結構だが,大層な主張をする前に,基本の基本くらい勉強しないとダメだ,ということである。(小林)

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2009年6月 5日 (金)

「新左翼の遺産」大嶽秀夫著

「新左翼」に関連する本を片っ端から読んだ。なぜか幻冬舎刊が多いが、ご紹介するのは東京大学出版会である。小泉元首相をはじめ、現代日本の舵取りを担う世代が新左翼の遺産を引き継いでいるというのが主旨である。

新左翼とは、共産党・社会党など既成左翼(旧左翼)を批判し、既成左翼よりさらに左に位置する原理的共産主義運動であり、日本では、60年安保から70年安保前後に青春を迎えた「団塊の世代」がこれを担った。平たく言うと、60年安保で共産主義同盟(ブント)の一員として国会議事堂敷地に突入した際死亡した樺美智子に世代的共感を持った当時の若者である。

新左翼勢力はその直接行動主義から「過激派」と呼ばれ、内紛と分裂を繰り返し、1972年の浅間山荘事件を境に衰退していく。

それだけならそれで終わりだ。新左翼はその行動(事件)によって歴史に残ったが、これが新左翼と言える思想体系は何も遺さなかった。しかし、思想といえるほど体系的ではない何か、「気分」とも「風潮」とも言うべき何かが、政治的立場の違いを問わず、団塊の世代を中心に遺された。大嶽秀夫は、これを「新左翼の遺産」という。

その気分とは、例えば理想主義、殉教精神、反権威主義、反パターナリズムであり、弱者や被差別者に対する偏愛と自己否定(加害者意識・自虐史観)、強烈な直接民主主義志向とエリート意識であって、これらが矛盾をはらみながら混じり合ったものである。なにしろ「思想」ではなく「気分」なので、自己矛盾があっても平気なのだ。そして新左翼の遺産は、具体的には、(団塊の世代の)子供らへの丸刈り強制・制服強制反対運動、マイノリティ(ゲイ・レズビアン)擁護、男女平等運動やDV、パワハラ、セクハラ、アカハラ否定運動に結びついていく。

大嶽秀夫はまた、小泉内閣は、一面で新自由主義(ネオ・リベラリズム)的であるが、これが同時に、新左翼の遺産を受け継いだ政権であり、これは例えば、男女共同参画社会の目標化や司法改革(裁判に対する国民参加)などにあらわれているという。そういえば、小泉元首相には、ハンセン氏病患者に対する劇的な対応や、一種の理想主義、革命指向等、新左翼的という説明が可能な行動や思考がとても多いことに気付く。もちろん、小泉だけでなく、この世代の知識人には、政治的立場を問わず、新左翼的「気分」に支配された人がとても多い。特に、福井秀夫など、かなり極端な新自由主義者は、新左翼に分類した方が分かりやすい。

「団塊の世代」は、ここ10年ほど社会の主役として活動し、多くは定年を迎えて引退しつつあるが、社会のリーダー格となった「団塊の世代」は、今後10年は日本の舵取りとして生き残るだろう。ということは、現代社会を読み解くキーワードとして「新左翼」は欠かせないことになる。「いまさら」新左翼を取り上げた大嶽秀夫の問題意識はおそらくこの辺にある。

私の問題意識もとても近い。1998年ころ以降、突如盛り上がった「司法改革」を推進した弁護士たちは、「団塊の世代」であって,「新左翼の遺産」を受け継いでおり,青臭い理想主義、反パターナリズム、直接民主主義、革命指向、エリート意識という「気分」に支配されていたというのが今の私の考えである。そしてこれらの弁護士たちは、ここ数年間、各弁護士会の会長を担う世代となり、今後数年間の弁護士会を支配していくであろう。彼らの行動パターンを読み解くには、新左翼的「気分」への理解が不可欠であると思う。(小林)

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2009年5月16日 (土)

日本国は破産しない…という主張について

2009415日の日本経済新聞コラム「大機小機」の「日本国は破産しない」には、「国の公債が多いということは…国民の金融資産が増えるということだから、国は破産しない」と書いてある。

これに対して、「国の債務が増えても、その分国民の資産が増えるから、バランスシートの総額は変わらない、という趣旨だろうか。」と書いたところ、匿名氏から、「分かりやすくいえば、家族間で金の貸し借りをしても、家族全体が破産することがないということです。」との解説をいただいた。これは、私の解釈が正しいという意味だろう。そうだとすると、最初から書いているとおり、コラム氏の主張は明らかに間違いだ。

これらの解釈の奇妙なところは、「日本国」あるいは「家族」という集団について「だけ」、バランスシートを想定するところにある。現実には、日本国内の政府、国民、企業その他の団体は、それぞれ日本国とは別のバランスシートを持っていて、ほとんどの国民は、他人のバランスシートより、自分のバランスシートを心配しながら生きている。だから、政府に金を貸したにもかかわらず、政府が約束どおり金を返してくれなければ、国民はとても怒る。国民がとても怒れば、政府が倒れる。これは、政権交代で済まないかもしれない。

「家族間で金の貸し借りをしても、家族全体が破産することがない」とのご指摘だが、私は弁護士として、夫婦間で金の貸し借りをしたために離婚に至ったケースをたくさん見ている。

貸した金を返せという国民に対して、「日本国は破産しないからご心配なく」と弁解することは、「貸したお金を返してちょうだい」と迫る妻に、夫が「わが家庭は破産しないからご心配なく」と弁解するのと同じだ。この夫の発言は、家庭の崩壊を招く。国家が崩壊してもよいというなら別だが,そうでない限り,コラム氏の主張は間違いである。

また別の匿名氏から、「国債は銀行に引き受けさせるんですよ。これは事実上半強制的です。銀行は儲かるから引き受けてるわけじゃありません。」とのご指摘をいただいた。これについては、「事実上半強制的」とはどういう意味か?について解説をいただかなければ、お答えのしようがない。この言葉は、「強制」という明確な単語に、「事実上」「半」「的」という曖昧な単語が3つもつけて、全体の意味を、わざと、とても不明確にしているからだ。

なお、匿名氏らに申し上げておくが、私自身が書いていないことについてお答えするつもりは無い。私は、定額給付金について一言も触れていないし、最初のエントリで明確に断っているとおり,国債増発を嫌ったこともない。よその誰かと議論したいなら、よそでどうぞ。(小林)

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2009年4月20日 (月)

自国通貨を刷って国の借金を返すと言っていいのだろうか

「日本国は破産しない…のか?」のエントリに対して,「通りすがり」氏から真面目なコメントをいただいたのでお応えをしたい。

「通りすがり」氏は要するに,「日本国債は円建てであり,自国通貨を刷って借金を返すことができるので,日本国は破産しない」と主張する。

そこで,この主張を検証する。

単純に,政府が10年もので,固定利率1%の国債を売り出したいと思っていると想定してみる。この国債が売れるためには,利率以上に自国通貨を刷り増ししない,と信頼してもらうことが必要である。もし利率を超える通貨の刷り増しが行われたら,購入者が割り負けしてしまうからだ。だから,国債を発行する以上は,政府は,安易に自国通貨の刷り増しをしません,という公約をしていることになる。もちろん,政策上多少のインフレ誘導が必要なこともあるだろう。しかし,国債購入者が合理的に予測できる範囲を超えて,自国通貨の刷り増しをしたら,国は,国債購入者の信頼を喪失する。そうなったら,誰も国債を買わないし,中途解約希望者が殺到する。経済的な信頼を喪失するとは,破綻するということだ。

だから,「自国通貨を刷って,借金を返すことができる」というのは,政府は国債をどんなに発行しても問題はない,と言う理由にならない。政府がそう言ったら最後,誰も国債を買わないし,思っただけでも買わない(政府が思ったことは,思っただけで,大概バレるものだ)。

そう主張する人に聞いてみたいものである。政府があなたの意見に従うとき,その政府から国債を買いますか?と。

なお,「日本のインフレ率は世界最低水準だから,多少自国通貨を刷っても問題ない」という主張は,議論をすり替えている。

「自国通貨を刷って借金を返すことができるから」という「通りすがり」氏前半の主張は,「どんなに国債発行を増やしても日本国は理論的に破綻しない」という結論に結びつく。「政府の借金が増えても,国民の資産が増えるから,国家のバランスシート上,債務超過にならない」という日経新聞「越渓」氏の主張もやはり,「どんなに国債発行を増やしても理論的に大丈夫」という結論に結びつく。私は終始この結論について論じている。今この場で,「国債発行を多少増やしても,現実問題としては大丈夫」という議論は一切していない。これは前のエントリの冒頭でお断りしている。

日本国債購入者の95%が日本人,とは知らなかった。しかし結論には何の影響もない。「三橋貴明さんや廣宮考信さんという方のブログをご拝読ください」とのことだが,現時点で拝読できていないので,あしからずご了承ください。(小林)

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2009年4月15日 (水)

日本国は破産しない…のか?

 本日(2009年4月15日)の日本経済新聞朝刊コラム「大機小機」は意味不明だ。

主旨としては、政府は景気対策のため、赤字国債発行を怖れるな、ということであり、それ自体は一つの考え方として理解できる。分からないのは、「日本国は破産しない」という論拠だ。

コラムによると、「所得を上回る借金を抱え、それが年々増加するなら、民間企業であれば破産する。しかし国の借金と企業の借金とでは全く違う。国の公債が多いということは、国民が公債を買い、その金融資産が増えるということである。だから国は破産しない。」のだそうだ。さっぱり分からない。

文字通り解釈すると、国の債務が増えても、その分国民の資産が増えるから、バランスシートの総額は変わらない、という趣旨だろうか。これは、「日本国」というあるひとつの実体を想定して、バランスシートが1枚しかない、という考えを前提にしている。しかしそれなら明らかに間違いだ。仮に「日本国」という何らかの実体を想定できるとしても、「政府」と「国民」は別のバランスシートを持っている。国が返済期限を過ぎても借金を返さない場合、「日本国」のバランスシート上は全く問題ないが、国債を買った国民は、とても困ると思う。これを「国が破産した」というのだ。もし、「日本国」という1枚のバランスシート上の辻褄さえ合えばよいというなら、国債を全部無効にして、国の借金を帳消しにしても、バランスシートに変動はないから、それでも良いことになるが、コラムの執筆者「越渓」氏は、そういう御意見なのか。

そもそも、国の公債を「国民」が買っている、という前提も間違いだろう。詳細は知らないが、外国政府や外国人・外国企業も、大量に日本国債を買っているはずだ。

あるいは、国民は国債を買ってくれるから、国の返済資金は枯渇しないという趣旨だろうか。しかし、国民が国債を買うのは、国が確実に返済してくれる(利息付きで)という信頼があるからだ。「国民が国債を買うから国は破綻しない」という理論は、「国は破綻しないから国民は国債を買う」という理論を前提としている。つまり循環論法である。

私に経済学の基礎知識がないから、このコラムを理解できないのだろうか。このコラムを読んで、「アメリカの住宅は必ず値上がりするから貧乏人にどんどん貸し付けても破綻は発生しない」という理論とどこが違うのか?と思うのは私だけなのだろうか。(小林)

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2009年1月29日 (木)

民事紛争提訴件数

本日(平成21年1月29日)付日本経済新聞の巻頭コラム「春秋」に,基本的な事実誤認がある。

コラムは,楳津かずおの「ぐわしっ」自宅の景観裁判を巡るものだが,その中に,「『私人間の生活関係に関して生じる紛争』(有斐閣法律学小辞典)である民事事件は,年に二百数十万件も裁判所に持ち込まれるのだ」とある。この数字は明らかに間違いだ。

最高裁判所の平成19年度司法統計中,第1審となる地方裁判所と簡易裁判所の民事事件の新受件数は,地方裁判所が80万4670件,簡易裁判所が140万4952件である。「春秋」氏は,これを単純合計したのだろう。しかし,この中には,上記「私人間の…紛争」に該当しない事件数が多量に含まれている。地裁新受件数のうち万を超えるものだけでも,「控訴」等下級審から継続しているもの(約1万8000件)や,強制執行や配当(約25万件)は重複として,倒産(約19万件),過料や雑事件(約13万件)は「紛争」ではないから,差し引く必要がある。簡裁新受事件数からも,最低雑事件(約21万件)は差し引かなければならない。また,「督促」(約36万件)も,大多数はサラ金など金融機関による申立と思われ,これを「紛争」に分類して良いかは大いに疑問だ。

同じ司法統計から,私人間の紛争に該当しうるものを抜き出すと,地裁では「通常事件」等合計約20万件,簡裁では「通常事件」と「調停」合計約73万件である。これを合計したうえ,多少水増しして,「私人間の紛争」に該当しうる事件の新受件数は年約100万件というところだ。

しかも,「紛争」というからには,新受件数から,争いがなかった事件数を差し引く必要がある。他方,家庭裁判所に対する家事新受件数(平成19年度で約75万件)のうち,紛争性のあるものは加算する必要がある。

結局のところ,「裁判所に持ち込まれる私人間の紛争」は,概数で年100万件は行くかもしれないが,150万件は行かないと思う。

しかし,反論しようと思って司法統計を見ても,明確な数字が出てこないのには,困ったものである。(小林)

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2009年1月22日 (木)

「資本主義はなぜ自壊したのか」 中谷巌 集英社

ソクラテス 「お前は馬鹿だ」

    男 「何だと?」

ソクラテス 「私はお前より賢い。」

    男 「何で?」

ソクラテス 「なぜなら,私は自分が馬鹿だということを知っているからだ」

    男 「じゃ,お前も馬鹿じゃねえか」

ソクラテス 「…」

という相原コージの4コママンガを思い出す。

小渕内閣までの構造改革,新自由主義,市場至上主義の急先鋒であり,担い手であった筆者が放つ懺悔の書。確かに,ソクラテスの論理からすれば,自分が馬鹿だということを知った筆者は,この人や,この人や,この人に比べれば,賢いと言いたいのだろう。

しかし,筆者が自分の馬鹿さ加減を論証すればするほど,その論証に説得力がありすぎて,こんな馬鹿が国家の舵取りを担っていたのかと暗澹たる気持ちになる。

平易に書こうとしたのかもしれないが,筆者の社会認識や歴史認識,人間の本質に関する洞察などは,控えめに言っても平凡なものだ。そのため,読んでいて,「こんなことも知らなかったの?」と突っ込みを入れたくなるところが多々ある。こういった平凡な認識や洞察は,この筆者が書いたのでなければ,見向きもされないだろう。

とはいえ,この本はよく売れている。私も先輩弁護士に勧められて購入したが,4軒目までの書店では売り切れていた。ページは多いが,内容は薄いのですぐ読める。この本を読む上で大事なことは,内容そのものではなく,「筆者ほどの知性の持主が,なぜこんな当たり前のことに気付かなかったのか?」言い換えれば,「高度な知性はなぜ思想やイデオロギーから逃れられないのか?」を考えながら読むことであろう。(小林)

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2009年1月19日 (月)

今度こそ司法の出番だ?

毎日新聞が,年越派遣村を題材に,「今度こそ政治の出番だ」という社説を掲載した。しかし,この社説の述べる「政治」の中に行政府と立法府は出てくるが,司法府は全く出てこない。

つまり司法は忘れられているし,期待されてもいない。日弁連が司法府の一員と自負するなら,年越派遣村のあった日比谷公園に一番近い場所にいるのに忘れられ,期待されてもいないことを,恥と受け止めないといけない。

そしてもう一つ,金融問題についても。

「事前規制社会から事後救済社会へ」とは,司法改革において政府が掲げ,日弁連が掲げたスローガンである。このスローガンに基づいて,政府は規制緩和を推し進めた。日弁連の役割は,規制緩和社会における事後救済を充実させることにある。そのためにも弁護士も増やしたのだ。

いま,規制緩和の二つの負の効果が問題になっている。一つは雇用問題であり,一つは金融問題である。日本の完全失業率を1%押し上げる人数は約60万人。仮にその僅か1%に違法不当な解雇があるとして,6000人が法的救済を必要としている。日比谷公園に集まった500人の比ではない。

また,報道によれば,金融混乱により家計が保有する株や投資信託で100兆円を超える評価損が発生している。このうち3040兆円が,銀行(ゆうちょ銀行を含む)の投資信託業務解禁により個人が購入した投資信託による損失と推定される。つまり規制緩和による被害である。もちろん,原則は投資家の自己責任だから,その全部が事後救済対象ではない。しかし,仮に僅か1%が事後救済を要する違法不当な損失であるとしても,30004000億円である。これらを事後的に救済するのは司法の役割だ。

また,雇用問題に関しては,行政や地方自治体によるセーフティネットが制度として存在し,不十分とはいえ機能しているが,金融問題について,「事後救済」を要する被害者は,制度がないため,その大半が見捨てられている。

雇用にせよ,金融にせよ,被害者を救済するのは個々の弁護士の仕事であって日弁連の仕事ではない,弁護士を増やしただけで,日弁連の責務を果たした,というのは悪質な責任逃れだ。冒頭述べたように,「事後救済社会」を実現することは,日弁連自身が掲げた公約なのだから。会長声明でお茶を濁している場合ではない。それとも,「事後救済社会へ」というスローガンは,空手形なのか。(小林)

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2009年1月 6日 (火)

フラガール(DVD鑑賞)

福島県常磐市の弁護士会を舞台にした実話,感動の映画化。

豊川悦司演じる主人公は,かつて「12人の優しい日本人」の陪審員になったこともある優秀な弁護士だが,弁護士を手厚く保護してきた国の政策が180度転換し,いまや弁護士業は斜陽産業である。彼は福島県弁護士会常磐支部に在籍して,国選弁護事件で細々と食いつなぐ貧乏弁護士となっていた。弁護士会は,時代に応じ変化して生き延びようとする勢力と,旧来の弁護士像を守り抜こうとする勢力とに分裂し,内部抗争のあげく疲弊していく。

そんな中,弁護士会館の地下から湧いた温泉を利用する保養施設を建設し,仕事にあぶれた女性弁護士がフラダンスを踊るという仰天の構想が浮上する。蒼井優演じる妹の弁護士は,兄のような弁護士業に未来はないと考え,家族に隠れてフラダンスの練習に励むが,親バレしてしまう。「おらはお前に腰を振ったり愛想笑いをさせるために高い金出して法科大学院に行かせたんでねえ!」と激高する母親に,蒼井優は言い返す。「腰振ったって,馬鹿みたいに愛想笑いしたって,それでお客さんが喜んでくれるなら,そういう弁護士もあっていいんでねえのけ?」

娘の熱意に母親も折れ,フラダンスショーの成功に協力する。蒼井優がソロで踊るラストは圧巻だ。そして豊川悦司は,新たな弁護士像を切り開く妹を温かく見守りつつ,国選弁護事件を探しに弁護士会館に向かうのだった。(小林)

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2008年12月31日 (水)

THE KINGDOM (DVD鑑賞)

映画が言っていることが本当なら,イスラエルのガザ攻撃は,当分終わらない。興味があるけど忙しいという人は,最初の3分だけご覧下さい。

1932年に建国されたサウジアラビア王国(THE KINGDOM)は厳格なイスラム教国だったが,世界最大級の油田が発見されたことで,思想も体制も全く異なるアメリカ合衆国との結びつきを深めていく。現在,世界最大の産油国はサウジアラビアであり,世界最大の石油消費国はアメリカ合衆国だ。その結果,サウジアラビアの王族はイスラム教の教義を唱える一方で,異教徒から受け取ったオイルマネーで贅沢三昧。純粋な若者はこの矛盾を許すことができずにテロリストになる。映画はイスラム原理主義テロリストの犠牲になった友人の復讐を果たすFBI捜査官の物語として進行するが,その背景にある「本当の悪」を示唆して終わる。

もちろんこの関係は,サウジアラビアとアメリカ合衆国の関係にとどまらず,中東産油諸国と,(西側)先進国との関係に置き換えることができる。先進国は中東産油国から石油を買う。中東産油国が手にした莫大なオイルマネーは,世界中に投資される。投資されたカネの流れの中心にあったのがウォール街だ。投資を元手に先進国は金を儲け,より多くの石油を買う。一見,石油は安い方が先進国に有利と思われがちだが,そんなことはない。石油はある程度高止まりで推移することが,現代世界経済が健全であるために必要である。だから,昨今の原油価格の暴落は,世界経済を枯死させる危険がある。

イスラエルのガザ攻撃により,暴落一方だった原油価格が下げ止まり,上昇の兆しを見せている。原油価格の上昇は,中東産油国にとっても,先進国にとっても,共通の利益である。だから,先進国はもちろん,同胞を殺されている中東産油国にとっても,イスラエルのガザ攻撃は歓迎すべき事態である。そこで,ハマスに武器を供給して紛争を長引かせることにしよう,と彼らは考えている。もちろん,イスラエルがやりすぎない限り,まともに対決する気など無い。なにしろ,イスラエルとその後見人の軍事力は桁違いに強力で,貿易センタービル2棟を破壊しただけで,その報復として中東2国の政府を叩き潰されたのだ。イスラエルもそのへんの事情は百も承知で,ガザに限定した攻撃を行っている。ブッシュ現大統領は,残り僅かの任期中に責任を問われるおそれはないし,テキサスの原油が値上がりするのは歓迎だから,当然事態を放置する。オバマ次期大統領にとっても,最優先事項は国内の景気回復である。誰もがこの戦争が長引いてほしいと思っている。だからこの戦争は,オバマ大統領が就任した後,有効な(と思われる)景気対策が打ち出されるまでの間,終わらない。

日本各紙は,相次いで人権擁護の立場からイスラエルのガザ空爆を批判する社説を掲載した。しかし,イスラエルのガザ攻撃をどう評価するかは,立場によって違うということになる。これも政治というものの一面なのだろう。(小林)

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2008年12月29日 (月)

「できそこないの男たち」福岡伸一著 光文社新書

前著「生物と無生物のあいだ」があまりに面白かったので,空港で即購入。出張の往路で読んでしまった。文章力があれば,どんなマイナーな分野でも素晴らしい本が書けることの証明である。

イブはアダムの肋骨から生まれたとする聖書の記述は生物学的には間違いで,もともと生物の基本構造は女であり,男はその改造品である。このこと自体は,一般市民にも常識となっているが,本書はその常識を,分子生物学の立場から明快に説明する。前著と同様の,名誉と欲望を巡る学者達の人間くさい争いは,実に面白い。その中でも,「人は,知識がなければ,事実を見る(文字通り眼で見る)ことができない」という指摘は鋭いと思う。これは分子生物学に限らず,法律実務を含めた至言であろう。

過去から未来へ遺伝子を受け継いでいく生命の流れの中で,女は縦糸である。男は,縦糸と縦糸を斜めに結ぶ横糸であり,母の遺伝子を別の母の娘に引き継ぐための遺伝子の運び屋に過ぎない。運び屋となるために無理な改造を受けた男の体は,女より弱い。

某国では,王室に過去40年間男子が産まれなかったため,皇位継承を巡る議論が盛んである。男系の伝統を固持すべきとする立場は,生物学的にはY染色体を守れという主張となるが,Y染色体それ自体には,遺伝子の運び屋としての機能しかない。大事なのはY染色体ではなく,Y染色体が運んだ遺伝子であるという主張には,とても説得力がある。もちろん,現代科学が解き明かした範囲では,という限定付きではあるが。

一点だけ気に入らないのは,「男はできそこない」という指摘だ。女を改造した結果,女より弱くなってしまったとしても,だからといってできそこないとは言えないのではないか。改造は一つの進化であり,ある種の機能については,女より優れることになったのではないか(と思いたい)。クロックアップしたパソコンが,熱暴走しやすくて寿命が短くても,ゲームだけはサクサク動くように。

妻が妊娠中,超音波検診で胎児や自分の胎内をつぶさに見てきた帰り,「人間って,本質的に動物だなあ,としみじみ感じた」と述懐したので,私はすかさずこう言い返した。「女は動物かもしれないが,男は違う。」

私がただちにひっぱたかれたのは言うまでもない。(小林)

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2008年12月16日 (火)

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著 講談社現代新書

こんなに面白い科学書は読んだことがない。

生命とは何か?それは自己複製を行うシステムである。これが20世紀の生命科学が到達した一つの答えであった。1953年の論文に,DNAの二重らせん構造が発表されたとき,世界はその正しさを確信した。なぜなら,そのモデルは完璧に美しかったから。

だが,自己複製を行うシステムであるというだけなら,ウィルスも生命である。もし,ウィルスを生命と認めないなら,生命とは何か。筆者は「(自己複製を行いつつ)動的平衡にある流れである」と定義する。すなわち,生物の身体を構成する細胞は,分子レベルで絶えず入れ替わっている。1年前の自分と1年後の自分は,構成分子レベルでは100%別の物質である。それにもかかわらず同一性を保つのが,生命の本質である。たとえるなら,生命とは,川の淀みのようなものだ。

このような考え方が心にすとんと落ちるのは,筆者の文章力もさることながら,おそらく日本人の伝統的な生命観に符合するからだろう。本書を読んで,方丈記の冒頭を思い起こした人は少なくないと思う。そして,この考え方からすれば,自然も,地球も,宇宙も,一種の生命であるし,それは筆者も否定しないのではないか。

宇宙レベルで,さまざまな分子が,エントロピーの法則に従って流れていく中で,DNAに書き込まれた設計図に従い,分子の淀みとしての生命が発生する。人間も淀みの一つにすぎず,時間が経てばバラバラの分子の流れに戻る。ちっぽけな淀みにすぎない人間が,己の名誉と欲望をかけ,時には汚い手をつかって,生命の秘密を解き明かそうと奮闘する有様が,本書のもう一つの見所である。

驚いたことに,本書の筆者が小学校の先輩であったことを,エピローグを読んで知った。松戸市立相模台小学校である。筆者がアオスジアゲハを追いかけていた相模台の同じ野原に,3歳年下の私がいた。人生は思わぬところで交差し,分かれていく。ごく一時にせよ,同じ空気を吸って分子を共有したことは光栄である。(小林)

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2008年12月 8日 (月)

長谷部恭男vs杉田敦「これが憲法だ!」(朝日新書)

気鋭の憲法学者長谷部恭男東大教授に,政治学者杉田敦東大教授が討論を挑み,長谷部憲法学の骨格を探り出す一冊。長谷部教授はいわゆる護憲派とも改憲派とも一線を画しつつ,「憲法は多元主義を容認する(=立憲主義)国家という一つの法人の定款にすぎず,押しつけられたかどうかとか(所詮どんな憲法でも押しつけられた一面を持つし),最高規範性や正統性の有無は,あんまり関係ない。統治機構の部分は必要に応じて改憲すればよいが,人権の部分は極端な話,無くても構わないし,まして,改憲は不要である。解釈という『芸』によって立憲主義の目的は達成できる。同様の理屈により,9条を改正する必要もない」などという,刺激的かつ斬新な言葉を連発し,読む者を飽きさせない。

しかも,長谷川憲法学に対して杉田教授は,「憲法が多元主義に立脚するなら,外国人は在留資格の範囲内でしか人権を保障されないという憲法解釈は間違っているのではないか」,とか,「学者や裁判官の憲法解釈という『芸』って,信頼できるの?」などという容赦ない突っ込みを入れ,長谷川教授の「逃げ」や「開き直り」をあぶり出している。

結論としては,長谷部教授の見解におおむね賛成するものの,たとえば,「憲法の理念である立憲主義は人権の部分が無くても達成できる」とする長谷部教授の立憲主義的な見解は,しかし,ご自分が憲法の人権の章を一生懸命勉強した結果として身につけたものではないのか,という疑問や,憲法はただの定款であるとして,正統性やイデオロギー性をことさら軽視する長谷川教授が,「立憲主義」や「国民国家」というイデオロギーに対しては,無批判に所与の前提としていることに矛盾はないのか,また,国民の大多数が立憲主義的とは言えないという認識に照らせば,教授の主張は結果的に危険な現状追認主義とならないか,などという点に,やや疑問を持ったことも事実である。しかしまあ,対談という形式にこれらの疑問の解答まで求めるのは贅沢かもしれない。時間を見つけて,長谷部教授の体系的な書物を読むこととしたい。(小林)

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2008年12月 1日 (月)

飯尾潤著「日本の統治構造」

国会のねじれ現象などによって,リーダーシップ不在が問題になるとき,首相公選制や大統領制への移行が議論されるが,それは誤解であると,この本は説く。日本国憲法の採用する議院内閣制は,本来,権力集中と迅速かつ強力なリーダーシップを可能にする制度であった。これを阻害していた最大の要因は中選挙区制であり,ついで官僚内閣制であり,本来一体であるはずの政府・与党二元体制と,政権奪取意欲のない野党による55年体制であった。

特に中選挙区制は,同一政党の候補が同一選挙区に複数立候補するため,選挙は必然的に「候補者」の選択になり,「政党=政策」の選択ではなくなる。そのため国民は政策の選択に参加し得ず,その欲求不満を紛らわすものとして同一政党内での首相交代劇が演じられてきた。

しかし細川内閣で中途半端ながら小選挙区制が導入され,マニフェスト選挙が定着してきた今,これを推し進めるならば,議院内閣制は本来のあり方を実現し,健全な民主主義体制が実現される可能性があるというのが本書の主旨である(たぶん)。この立場によれば,小泉郵政選挙は,一見反則であるが,議院内閣制の本来のあり方に即したものだったことになる。司法についてはごく簡単に触れられているだけだが,政治における権力集中が制度的に実現する以上,チェック機関としての司法の役割も増すと指摘されている。

総じて,そうだったのかと「目から鱗」の指摘と,そうそうと「ハタと膝を打つ」(古い!)指摘が満載の,刺激に満ちた書物であった。著者は私と同い年。大したものである。(小林)

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2008年11月25日 (火)

厚生元次官宅襲撃事件雑感

この事件は現在,出頭した容疑者に背後関係があるか否かが最大の争点になっている。私も報道された限りでしか知らないが,小出しにされる警察報道には,あまり価値がないと思う。報道されていないことにこそ,注目した方がよい。

たとえば,弁護士が容疑者と接見したという報道が一切ない。もし背後関係があるならば,その組織は容疑者の口封じと情報収集を兼ねて,息のかかった弁護士を差し向ける可能性がある(ゴッドファーザーⅡの見過ぎか?)。しかし,依頼を受けた弁護士が接見したという報道はない。

他方,背後関係が無いときでも,東京の弁護士会は,重大事件の場合,容疑者の要請を待たず,弁護士を接見に派遣する制度を運用しているはずである(まさか,銃刀法違反という微罪だから派遣しない,なんてことは無いよね)。それも報道されないところを見ると,容疑者は,派遣弁護士との接見を拒否していると思われる。

現時点でもう1点報道されていないのは,事件直後に報道された不審車両との関係である。背後関係の解明には,逃走を含む二つの犯行や下調べが,徹頭徹尾容疑者ただ一人によって行われたか,という綿密な裏付け捜査が重要である。不審車両に関する捜査は,背後関係解明の突破口になる可能性があり,注目される。

現時点では背後関係を疑う声が多数だろう。確かに,犯行動機や出頭動機に関する容疑者の説明には,不自然な点が多い。しかし他方,背後関係が政治目的なら犯行声明が無いのは不自然だし,カネ目当てなら犯行との因果関係が不明だ。

背後関係の有無にかかわらず,この容疑者が実行犯となれば,死刑の求刑される可能性が高い。この裁判が裁判員裁判の対象になり,弁護人が,「この事件には背後関係がある。死刑にすれば,背後関係への糸口が永遠に封印される」と弁論したら,裁判員はどう判断するのだろう。(小林)

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2008年11月24日 (月)

棚瀬孝雄編著「市民社会と法」

本書には,現代日韓両国が直面する社会の変容と,これが法制度に及ぼす影響に関する,両国の論考が収録されている。我々法律家は法律を道具にご飯を食べているわけだが,その法律は絶対的なものではない。社会の変容は国家のあり方を変え,国家の産物である法律や法制度を変える。法曹人口問題を含めた司法制度も例外ではない。

例えば,国際的な人口の流動化は「国民国家」のイデオロギーを崩壊させ,血統主義を取る我が国の国籍法制のあり方に影響を与えずにおかない。また,個人→家族→地域という同心円状の社会構造の崩壊は,むき出しの個人を国家と対立させることにもなりうるし,NPO法人など,市民活動の新たな拠り所を活性化させることにもなりうる。この二つの問題は,「女性」という一つの概念でクロスしている。すなわち,少子高齢化社会における新たな労働力としての女性と,伝統的家族形態の中核にあった女性である。

そして,韓国は軍政後の民主化の一環として,日本はバブル崩壊脱出の手がかりとして,社会の変容を見越した司法改革に取り組んでいる。

学者ばかりの大所高所からの論考なので,目前に迫った問題の解決には何の役にも立たない。しかし,日々の事件処理や,せいぜい法曹人口問題を見渡す視野しか持たない我が身にとってこの本は,我が職業の将来を照らす探照灯として,大変貴重な示唆を与えてくれるように思う。(小林)

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2008年11月 9日 (日)

関岡英之「拒否できない日本」(文春新書)

フジテレビの「サキヨミ」で紹介されて以来話題の本である。

1994年(平成6年)以来毎年,日米間では「年次改革要望書(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)が交換されているが,その内容はアングロ・サクソンの独善的価値観に基づくアメリカ国益の一方的な押しつけと内政干渉であり,要請のほとんどは日本政府によって実現されているにもかかわらず,日本政府もマスコミも,年次改革要望書の存在を故意に報道しなかったと告発する。これは陰謀でも何でもない(要望書の存在と内容はアメリカ大使館によって和訳され公表されている)し,アメリカ政府が自国民の利益のため行動することは当然の責務でさえある。問題は,日本の犠牲の下でアメリカの国益を唯々諾々と実現する日本のリーダーにあるという。例示として,建設,企業会計,司法の三分野におけるアメリカの世界戦略と対日圧力が実現されてきた過程を概観している。

司法改革以外は専門外だが,「さもありなん」という内容ではある。司法改革について,200069日にアメリカ政府が「司法制度改革審議会に対する米国政府の意見表明」を発表していることを以前ご紹介したが,これが年次改革要望書という形で,制度的に継続されているとは知らなかった。

問題はアメリカにではなく,日本にあるという指摘には同感である。ただ,本書において残念なのは,「アメリカによるアングロ・サクソン価値観の押しつけを,日本のリーダーが唯々諾々と受け入れるのは,それが日本の国益にかなう(と日本のリーダーが思っている)からではないか」という視点がほとんど検証されていない点だ。言い換えると,関岡氏は,「アメリカ政府が言い出したことである以上,それは米国人やアメリカ企業が言わせているに相違なく,それはアメリカの利益に合致し,日本の国益に合致しない」という思いこみに支配されている。この思いこみは,例えば司法改革推進派の弁護士や政治家をネオリベの走狗とラベリングして思考停止に陥る連中と同レベルで,ややがっかりである。政治はもっと複雑なものだ。

おそらく年次改革要望書のかなりの部分には,日本のリーダーが,アメリカから買収されたからでも洗脳されたからでもなく,自ら信じる正義に従って米政府に陳情した結果が反映されている。そうでなくても,日本のリーダーが年次改革要望書に唯々諾々と従うのは,それが日本国民の利益にかなうと受け止めたからである。これを軽薄と誹るのは容易いが,重要なのは,このような日米間の権力構造や国内的・国際的政治的意思決定過程の解明であろう。もっと過激な仮説を述べるなら,国家の意思決定が,国家の内部(国民)のみによってなされており,また,そうあるべきという考えこそ,国民国家というイデオロギーに支配された思いこみかもしれないのだ。関岡氏には,次回作で是非,このあたりに踏み込んで頂きたいと思う。(小林)

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2008年11月 3日 (月)

東浩紀は若者の怒りの代弁者になるのか?

大塚英志+東浩紀の対談「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」(講談社現代新書)を読んだ。2001年から2008年まで4回の対談が収録されているが,つかみ合いの一歩手前とさえ言える2007年の対談が面白い。

東浩紀は,批評家・言論人として,自らの信じるところを発信したいが,それが読者を啓蒙・感化することはあっても,社会全体を動かすことなどあり得ないし,動かす気もない,という。大塚英志は,それなら批評家・言論人をやる意味がないとシツコク噛みつく。無数の小集団が好き勝手なベクトルを持ち,社会全体として均衡が取れているときは,東浩紀的社会観でもよいが,たまたま全ベクトルが同じ方を向くと,破滅である,そうでないとしても,東浩紀の主張は,結局現状肯定主義として支配者に便利に使われてしまうと反論する。

東浩紀も偽悪家ぶっているところがあって,使命を認識しつつ,同世代ほぼ唯一の批評家・言論人であるからといって,そんな重い役割を押しつけないでよと言っている感もある。ところが,20086月に秋葉原で起きた無差別殺人事件は,東浩紀に否応なく公的な使命感を持たせたとして,それがこの対談集の一応のオチになっている。

東浩紀は言う,若いやつらはとにかく怒っている。それはおそらく日本という国全体が滅びかかっていることと深い関係がある。年金にしろ財政破綻にしろ,俺たちが年取ったときに国が滅びてるぞ,という感覚がけっこう広がっていて,若い世代ほど無力感が蔓延している。しかしこの国では,若い世代にしか分からないリアリティがあるのに,それが社会や政治の言葉に翻訳されず,いつまでたっても「おまえら大人になれ」ということばかりが言われ続けている,この状況に対する不満がとても大きい。

この怒りは,筆者の怒りと共通するから,東浩紀個人が同じ怒りをいだいていることはよく分かる。ただ,若者全体が同じ怒りを持っているのか,まして,その怒りを極端な形で体現したのが,秋葉原に突っ込んだ件の男性なのか,という点については疑問に思う。以前書いたが,筆者が見る限り,今の若者には怒りの文化がほとんど無いと思う。また,犯人が若い世代が大人世代に対して持つ怒りの具現者として凶行に及んだのなら,秋葉原ではなく,銀座や巣鴨に突っ込んでも良さそうなものなのに,彼の怒りと言うより嫉妬は,同世代の「勝ち組」(勝ち組といっても,秋葉原に遊びに来られる程度の勝ち組)に向けられた。例えば宮崎勤事件は確かに一つの時代の一つの何かを体現していたが,秋葉原事件はそこまでのものか。宮崎勤の名前は10年以上経っても忘れられることはなかったが,秋葉原に突っ込んだ件の男のフルネームを今思い出せる人はどれだけいるだろう。

もちろん,この認識のズレが,東浩紀の言う「若者の怒りが社会や政治の怒りに翻訳されていない」ということなのかもしれない。麻生総理大臣がかつて秋葉原で演説したのは,それなりの政治的直感なのかもしれない。それならば,好むと好まざるとに関わらず,東浩紀には通訳の使命が課せられたことになる。通訳としての東浩紀の言動に,今後注目してみたい。(小林)

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2008年10月31日 (金)

中谷内一也著「安全。でも安心できない…」(ちくま新書)

50年前と現在の日本を比べてみると,有害科学物質の環境濃度は低下し,食中毒による志望者も減少し,平均寿命は延び,治安も改善している。それにもかかわらず,現代人の不安は増している。つまり,安全であるからといって,安心とは限らない。著者は,現代社会において生活の外部依存性(つまり生活の分業処理)が極大化しているにもかかわらず,分業担当者(リスク管理者)を信頼できないことが,不安の原因であると説く。そして,リスク管理者に対する信頼を獲得するためには,①リスク管理者が担当分野に対して高度の専門性を持っていること,②真面目にリスク管理に取り組む姿をアピールすること,③リスク管理者と動機を共有できること,つまり,リスク管理者が勤務先や特定業界の利益ではなく,消費者一般の利益を指向していることが明示されていること,の3点が必要であるとする。

ごく当たり前の結論ともいえるし,今までこのような整理がなされていなかったともいえる。このような心理学的アプローチからすれば,食の安全も,次世代ロボットの安全も,ユビキタス社会における情報安全も,監視カメラ社会における安全も,根っこは同じ問題となり,大いに参考になる。(小林)

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2008年9月21日 (日)

デューク東郷におかっぱ頭は似合うか?

DVDで「ノー・カントリー」を鑑賞した。例に漏れず,あのラストにひっくり返った。この終わり方は,「俺たちが何を言いたいのか,あとは自分で考えろ」という監督の強烈なメッセージだろう。意地悪教師の理不尽な宿題のように,ここ数日間,このメッセージが頭から離れない。仕方がないから考えた。以下多少のネタばれを含む。

物語は,偶然,麻薬取引現場で大金を発見して持ち帰ったベトナム帰還兵の「モス」,これを追う殺人鬼「シガー」,事件を捜査する保安官「エド」の3人を中心に進行する。主役はトミー・リー・ジョーンズ演じる保安官だが,アカデミー助演男優賞を獲得したハビエル・バルデムの怪演が光る殺人鬼「シガー」が印象深い。

もちろん,殺人鬼あるいは冷酷非情な殺し屋は,映画などにしばしば登場するキャラクターである。近いところでは「コラテラル」のヴィンセントや「レオン」,有名どころでは「羊たちの沈黙」のレクター博士,そしてゴルゴ13ことデューク東郷。しかし,「ノー・カントリー」の殺人鬼「シガー」は,屠殺銃を振り回して死体の山を築くおかっぱ頭の大男,という類い希な造形に成功し,歴代殺人鬼の中でも異彩を放っている。特に,屠殺銃とおかっぱ頭,という二つのアイテムは,この殺人鬼の本質を象徴している。

屠殺銃は,牛の処理に使用される圧縮空気銃である。このアイテムは,「シガー」が殺す相手を人間扱いしていないことー正確に言うと自分と同類扱いしていないことーを意味する。人間を殺すのでないから,正当理由も美学も不要である。この点はレクター博士と決定的に違う。レクター博士にとって,殺す相手は「人間」でなければ意味がない。博士はこう言うだろう。「人間の肝臓だと思って食べるから美味いのだ。殺されるときの恐怖の表情を思い出しながらね。じゅるじゅるっ」。

おかっぱ頭は,幼児的な精神性の象徴である。幼児といっても十歳前後か。大人と会話することは可能だが,人生の本質は理解していない年代。あるいは,ザリガニを線路に置いてひき殺すことに躊躇も覚えない年代。但し,「幼児性」と「未熟」を同視することなかれ。本質的に人外の存在であるシガーは,十分成熟しているのだ。そしてこの「成熟した人間でない」という点において,「シガー」は他の映画の殺し屋と全く違う。ヴィンセントもレオンもデューク東郷も,得意分野がやや特殊なだけで,その本質は超一流のプロフェッショナルである。大人の象徴は,短髪だ。だから,デューク・東郷におかっぱ頭は似合わない。

傑出した造形の殺し屋「シガー」だが,しかしこの物語の主人公ではない。主人公は「成熟したまともな人間」の代表として登場する保安官だ。保安官一族に生まれた彼は,人は世の中を良くすることができると何の疑いもなく信じていた。しかし世の中は悪くなる一方で,シガーのような理解不能の殺人鬼が横行する始末。神の差配した偶然によってさえ,シガーを葬ることはできない。なぜならこの世は地獄だからだ。無力を痛感した保安官はバッヂを外すが,老人となった彼には,もはや居る場所がない(この映画の原題は”No Country for Old Man)。ラストで彼が語る夢は,明らかに死への甘美な憧れを意味している。彼にとってはもはや,「どうやったら苦しまずに死ねるか」だけが問題なのだ。

モスの妻も,死に憧れる「まともな人間」の一人だ。愛する者を続けて失い,経済的にも困窮する彼女には,生きる意味が無い。彼女は殺される理由を求め,自分の生命がコイントスの偶然に支配されることを拒否するが,死は逍遙として受け入れる。保安官もモスの妻は,人生を知る大人の代表だが,人生を知ることは,彼らに何の喜びも,意味さえももたらさない。このろくでもない世界に意味も希望も無く,世界を良くしようとするあらゆる努力は無駄である。トミー・リー・ジョーンズの顔に深く刻まれた皺は人生そのものだが,これに意味を認めてくれるのは,死んだ彼の父親しかいないのだ。(小林)

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2008年8月29日 (金)

大野病院事件について(2)

「大野病院事件について」のエントリに対して,筆者の駄文ブログにしては珍しく多くのコメントをいただいたことに感謝したい。ありがとうございます。

ただ,筆者の文章をやや誤解された方もいらっしゃるようだし,なるほどと思うご指摘もあったので,改めて,筆者の書いたことを3点に分けて敷衍したい。

第1に,筆者は基本的に現行法制度の建前を説明しただけであるから,現行法制度が間違っていると筆者を批判しても筋違いである。現行法制度上,業務上過失致死罪の適用に関して,医師とそれ以外の職業を区別する根拠は存在しない。現行法制が間違っていると国民が考えるなら,法律を改正すればよい。筆者はそれに異論ない。

医師をタクシーの運転手と同列に論じたのが悪いというのなら,お許しいただきたい。他意はない。人命を預かる高度に専門的な職業という意味ではパイロットの方が適切かもしれない。

また,筆者は大野病院事件の被告人医師が無罪となるべきか否かについて,一切論及していないし,そもそも論及できる立場にない。だから,被告人医師は無罪だからお前はけしからんと言われてもお答えのしようがない。逮捕の当否についても同様である。もちろん,逃亡の恐れも罪障隠滅の恐れもない件の医師を衆人環視のもとで連行した警察のやり方は悪質だし(悪質なだけでなく,政治家に比べると不公平である),逮捕・起訴されただけで犯人扱いするマスコミや世論(そして勤務先の病院も?)は間違っている。何人も,有罪判決が確定するまでは無罪なのだから。しかしこのような悪質な捜査手法や,マスコミと世間の思いこみが改められるべきことは,大野病院事件独自の問題ではない。

第2に,医師は職業上,人の死に接する確率がタクシーの運転手と桁違いに高いから,同列に扱うのは間違いだというご批判があった。

しかし,乗客が死亡しても,タクシーの運転手が必ず逮捕されるわけではないのと同様,患者が死亡しても,医師が必ず逮捕されるわけではない。このご批判は,業務上過失致死罪を結果責任と誤解されているのではないか。業務上過失致死罪は結果責任ではない。大事なのは,「死」ではなく,「過失」である。医師が,タクシーの運転手に比べて,過失を疑われて逮捕される可能性が特段に高いとは,筆者には思われない。

「そんなことはない。現に大野病院事件では,無過失の医師が逮捕・起訴されたではないか」というご批判もあろう。しかし,ご主張のとおり無過失ならば,件の医師はまことに気の毒なことであったが,結果としては無罪放免となる。精密司法を誇るとされる日本だが,稀に,無過失の人が逮捕・起訴されることがある(だから,逮捕・起訴されただけで犯人扱いするのは間違いなのだ)。捜査当局には,無辜を逮捕・起訴しないよう細心の注意を払って頂かないといけないが,いかに捜査当局が努力しても,裁判官が別の判断をすれば,無罪判決が出る。そういう制度なのである。でも,稀なことだから(日本の無罪率は1000分の1程度と言われている),これを一般化して心配する必要は全くない。これに対しては,「日本の無罪率は実質的にはもっと高い」という指摘もあるようだ。そうかもしれない。しかし本件において肝心なのは,医師だけが無罪率が低い,ということはないことだ。

無罪事件で逮捕・起訴される訴追リスクは,医師に限らず,もちろん弁護士も含め,国民が等しく負っている。医師だけが高いということはないはずだ。これに対して,医師を他の職業と同程度の訴追リスクにさらすことは,医療を萎縮させ,ひいては国民の健康を害するという主張があるなら,一つの考え方だが,現在は,これを認める法律はない。これが国民の考えなら,そういう制度を制定すればよい。逆に,制度もないのに,医師だけを優遇する運用をすることには,筆者は反対である。それは法治主義や平等原則の理念に反するし,捜査機関に法律の恣意的運用を許す危険を孕む。

第3に,大野病院事件の争点は,極端に確率が低い,あるいは難度の高い症例だったから,比較的過失の明白な交通事故と同列に扱うのは間違いというご批判である。

本件刑事裁判の争点は,ご指摘のとおりかもしれない。前述のとおり,筆者は刑事裁判の内容や判決の当不当に論及していないし,論及できる立場にもない。ただ,もしご指摘の点がこの問題の本質ならば,大野病院事件は,検察官が無謀にも,有罪立証の極めて困難な起訴を行い,案の定無罪となった,というだけの事件となる。「馬鹿な捜査当局が不当な逮捕と無理な起訴をした」ということなら,捜査手法や,逮捕・起訴の判断は大いに批判されるべきであり,捜査当局には深く反省してもらう必要があるし,気の毒な件の医師には適切な補償がなされるべきだが,他方,医師法を改正したり,公的第三者機関を創設したり,という議論にはならないと思う。しかし,各紙社説は,大野病院事件を医師法の改正や公的第三者機関の創設に結びつけた論調であったし,筆者もこの論調を前提として文章を書いた。これを安易な結びつけではないかとする「若手弁護士」氏のご指摘は,確かにポイントを突いている。ただ,理論面としてはご指摘のとおりとしても,現象面としては,この「安易な結びつき」が大野病院事件をめぐる議論の中核にあるようにも思う。(小林)

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2008年8月23日 (土)

大野病院事件について

いわゆる大野病院事件について,福島地方裁判所は被告人の医師に無罪判決を出した。この事件は,医師の強い関心を呼び,マスコミも注目した。テレビでは,複数の医師が,「大野病院事件で逮捕・起訴されるのならば,医師は通常の医療行為を行えない」と主張していた。これは医師の素直な本音だろう。

しかし他方,このインタビューを見て,「思い上がるな。何を甘ったれているのだ」と心中つぶやいた一般市民は少なくないと思う。この市民感覚も,素朴に頷けるところがある。

そこで,筆者なりに,この素朴な市民感覚の解説を試みるとともに,なぜこのような医師の主張が成立しうるのかについて考えてみたい。

業務遂行上の過失によって他人を死亡させれば,業務上過失致死罪という刑事責任を問われるのは,医師であると否とを問わず,当たり前のことである。業務上過失致死罪を疑われれば逮捕され,起訴されることも,同様に当たり前だ。医師だけを特別扱いする制度上の根拠は存在しない。

現行犯以外の逮捕権限は警察官と検察官が,起訴権限は検察官が,裁判する権限は裁判所が独占している。つまり,刑事責任の有無を判断する権限を,司法権が独占している。これは,刑事罰という強力な国家権力の行使を公正に行うための制度的保障だ。とはいえ警察官も検察官も人間だから,間違いもする。間違いでなくても,人による評価の違いもある。警察官と検察官が「過失あり」と判断して逮捕・起訴しても,裁判所が「過失なし」と判断すれば無罪になる。それだけのことである。大事なことは,この一連の刑事司法手続きに関して,他の職業人に比べ医師だけを優遇する法制度上の根拠は,何一つ無いということだ。

つまり,「大野病院事件で逮捕・起訴されるなら,医師は通常の医療行為を行えない」という主張は,法律的に見る限り,「交通事故で逮捕・起訴されるなら,仕事はできない」とタクシーの運転手が主張することと全く差異がない。医師であろうがタクシーの運転手であろうが,業務上過失致死罪と判断されれば逮捕・起訴されることもあるし,その結果,有罪になることも無罪になることもある。業務上過失致死罪で逮捕・起訴されるリスクを負うのは,人の命を預かる職業である以上,当然負うべき責任である。同じく人の命を預かるのに,医師だけが優遇されるのは不公平である。医師の主張を聞いて「甘ったれるな」と素朴に感じる市民感覚は,この不公平感に根ざしている。この感覚はとても真っ当なものだ。

しかし筆者は,医師の主張が甘ったれているか否かという視点でこの事件を論じても,あまり意味がないと考える。大事なポイントは,医師の主張が甘ったれているか否かではなく,なぜこのような主張が成立し,かつ,医師以外からも支持されるかという点である。実際,判決翌日の各紙社説は無罪判決に好意的であり,また,医療事故に対して司法は抑制的であるべしと主張する社説も見受けられた。なぜ,法律上の根拠がないのに,医師の過失だけが大目に見られなければならないのだろう。

その答えも既に報道されている。慢性的な医師不足,特に産科医の決定的な不足である。とりわけ,大野病院事件は,その後の「産科離れ」を加速したと報じられている。加えて少子化対策は,現代日本の国家的命題である。不公平だろうが依怙贔屓だろうが,産科医を優遇して増やさないことには,日本は存亡の危機に直面する。このような共通認識が背景にあるから,マスコミも世論も,医師の主張に好意的なのだ。

筆者は先日,「公的資格制度論で忘れられたもの」で,「公的資格制度は,人材特権責任の三本柱で支えられている。特権を薄くし,責任を重くすれば,人材は去ってしまう」と書いた。大野病院事件を整理するにつけ,この思いを強くする。

医師は,通常の過失では刑事責任を問われないという「不逮捕・免責特権」を事実上保障されている,と思っていた。法律実務家の感覚で言うと,別段医師に特権を保障したのではなく,有罪立証の困難性から逮捕・起訴に及び腰になっていたに過ぎないのだが,医師側は,不逮捕・免責特権が保障されていると漠然と信頼していたのだろう。この信頼を裏切り,特権を剥奪して刑事責任を問うたのが大野病院事件だった。その結果,産科医という人材が,大挙して去ってしまい,少子化対策上,重大な支障をきたすに至った。人材を取り戻すためには,医師の刑事責任を軽くし,特権を厚くして優遇しなければならない。大野病院事件を巡る世論の動きは,こう整理できる。

大野病院事件を契機として,現在,異状死体の警察署への届出義務を医師に課す医師法21条を廃止し,代わりに医師を含めた第三者委員会を設立することが検討されている。各紙社説も,この委員会設立に好意的だ。この委員会は,国内法上国会議員にしか保障されていない不逮捕・免責特権という最高度の特権を,部分的にせよ医師に正式に保障するものとなるだろう。それは例えば産科医増加というメリットを生むかもしれないが,デメリットもあろう。例えば医療過誤事件で医師の民事責任を問うのは,今まで以上に困難になるだろう。こうしたメリットデメリットを勘案した上で,医師を優遇するという国家的意思決定をするなら,筆者は特に反対しない。

ところで,日弁連はかつて,「弁護士の特権を剥奪したら,地道に人権活動を行う弁護士がいなくなる」と主張した。今も,いわゆる反主流派の弁護士がこのような主張を行っている。この主張は,論理構造としては,大野病院事件に対する医師の主張と同じである。しかし,世論は医師の主張を肯定し,他方,日弁連の主張を「思い上がるな。何を甘ったれているのだ。」と罵倒した。この差はなぜ生じるのだろう。大野病院事件は,いくつかの示唆を含んでいると思う。(小林)

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2008年5月29日 (木)

船場吉兆廃業

大阪地方裁判所から南へ,つまり大阪中之島から北浜へ,北浜から船場へ下ると,視覚的に,大阪の伝統的な産業構造を知ることができる。

大阪地方裁判所の敷地は,佐賀藩の領地だった。このあたり一帯は,江戸時代,各藩の蔵屋敷が集結していた。

大阪地方裁判所を出て橋を渡ると中之島である。中之島は商都大阪における物流の中心地であった。いまも,日本銀行大阪支店は中之島にあるし,中央公会堂は北浜の風雲児と呼ばれた相場師,岩本栄之助が建てた。

中之島から再び川を南に渡ると北浜である。北浜はもともと金融街だ。日本生命や住友グループ,大阪証券取引所をはじめ,銀行,証券,先物業者が北浜に集結している。

そこから一筋南に下ると,商社・流通業者の街となる。大中小の商社が軒を並べている。その中心にはかつて日商岩井があったが,いつのまにかオフィスビルになってしまった。

そしてその南は問屋街。いわゆる「船場の問屋街」である。「船場」の名が示すとおり,船場には船着き場があり,北浜とは運河で結ばれていた。

船場を発つ小舟に積み込まれた商品は,流通を司る商社と金融を司る銀行・証券街を抜けて運河を北上し,北浜から中之島に出て大型船に積み込まれ,全国に運搬された。これに逆流するように,金と注文は中之島を出て北浜を経て船場に向かう。途中の金融街と商社街がこれを仲介した。

そしてもちろん,大阪商人は商品と金の流れに寄り添うように北浜と船場の間を北上・南下し,料亭で商談を交わしたことだろう。

さて,船場吉兆は,船場の問屋街と商社街の間にある。運河が大阪の物流を支えたように,船場吉兆は,大阪の人脈を支えた。その船場吉兆が,昨日廃業した。

思い起こせば,かつて筆者が再生弁護団の一員を努めた流通準大手のマイカル本社も,商社街の一角にあった。筆者の法律事務所は北浜にあり,マイカルに向かう道すがら,毎日のように船場吉兆の前を通ったものである。そのマイカル本社も今はなく,コインパーキングになった。

船場吉兆が廃業したことについて,同情の余地はみじんもない。社長自ら偽装を指示していた点において,船場吉兆事件は企業コンプライアンス以前の問題であり,分類としては不二家の例よりミートホープ社に近い。

しかし,それでもなお,船場吉兆の廃業は,大阪にとって,象徴的な意味で,とても大きな打撃であると思う。(小林)

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2008年5月 2日 (金)

セキュリティポッドは監視社会の夢を見るか? ~伊坂幸太郎著「ゴールデンスランバー」を読んで~

伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」を読んだ。作者は大学の後輩で,舞台は郷里の仙台,ハイテク監視社会がテーマとあれば,立場上,読まないわけにいかない。

首相暗殺の濡れ衣を着せられた平凡なもと宅配ドライバーが,ハイテク監視社会となった仙台市を逃げ回るお話である。

第5回本屋大賞を受賞しただけあって,ハイテク監視社会の描き方にも,とてもリアリティがある。舞台では,R2-D2みたいな形をしたセキュリティポッドと呼ばれる監視装置が街中に設置され,通行人を24時間撮影するほか,肉声や携帯電話の電波も傍受する。セキュリティポッドが設置されたきっかけは,通り魔事件の頻発だが,それは口実に過ぎなかったという設定にも,実社会に通じる現実味がある。しかし,ハイテク監視装置といえども,機械的な限界があるし,運用したりメンテナンスするのは人間だ。組織としては恐ろしい公安警察も,一人一人は勤勉で実直な普通のおじさんである。運用するのが人間である以上,人間の力で立ち向かうこともできる。

ゴールデンスランバーとは,ビートルズ晩年の曲。すでにバラバラになったメンバーが別々に作った曲を,ポール・マッカートニーがメドレーにして,最後に「昔は故郷に帰る道があった」と歌う。主人公はポールと重ね合わせて,今の自分はひとりぼっちだと考えている。しかし,馬鹿げた大学生活を一緒に過ごした友人や,主人公の平凡な優しさに飽きて別れた恋人が,命をかけて監視装置を出し抜き,主人公を救おうとする。つまるところこの小説は,監視社会を支える人間のネットワークに,青春の記憶で結ばれた人間のネットワークが立ち向かうお話である。

読後感はとても爽やか。是非ご一読をおすすめしたい。(小林)

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2008年2月29日 (金)

2月29日生まれの彼女には,閏年でない年の何月何日にプレゼントを渡すべきか?

この問題についての法律解釈は,次のとおりとなる。

まず,年齢計算に関する法律,という明治35年に制定された法律があり,この1条には,「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」とある。これにより,年齢は,何時何分生まれかを一切問わず,生まれた日を第1日目として数え始めることになる。

次に,この法律の2条が準用する民法143条によると,1年間という期間は,「起算日に応当する日の前日に満了する。ただし,応答する日がないときは,その月の末日に満了する」とある。

つまり,例えば4月1日から1年間を起算するときは,翌年の3月31日の満了をもって一年経ちますよ,というわけだ。まあ,当たり前ですね。

ここからが少しややこしい。4月1日生まれの人は,翌年の3月31日の深夜12時に一つ年を取る。これは同時に4月1日の午前0時だが,法律上は,あくまで3月31日に一つ年を取るのだ。

2月29日生まれの人は,この条文により,応当する日である2月29日がその翌年には無いので,その月の末日,つまり2月28日深夜12時をもって一つ年を取る,ということになる。

以上のとおり,法律上は生まれた日の前日に一つ年を取るのだが,普通,年を取った日の翌日(つまり,生まれた日)に誕生祝いをするのが一般的だ。すると,2月29日生まれの人が一つ年を取るのは,2月28日深夜12時だが,誕生祝いをするのは,3月1日ということになる。

従って問題についての答えは,プレゼントを渡すべき日は3月1日ということになる。

これが法律解釈としては正しいはずだが,感情的にはどうもしっくりこない。だって,2月29日と3月1日の両方が誕生日になる人は,2月生まれか3月生まれか分からなくなって,占いなどでも困るだろう。どちらかといえば,2月28日にプレゼントを渡した方がいいような気がする。3月1日説は,誕生日を忘れてしまって彼女に責められたときの言い訳に取っておこう。(小林)

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2008年1月 3日 (木)

ルート225

中村義洋監督の「ルート225」をDVDで鑑賞した。映画「ヒノキオ」やCM「南アルプス天然水」等で注目の若手女優,多部未華子狙いのスケベ心で借りたDVDで,映画の内容には期待していなかったのだが,意外にも後味の良い佳作であった。

主人公は中学2年生の普通の女の子。早朝出勤・深夜帰宅で「いるんだかいないんだか分からない」父親と,「ありえねー」手抜きシチューを作る母親,ヘタレの弟との4人家族で,郊外の一戸建てに住んでいる。かといってグレているわけでもなく,帰宅の遅い弟を迎えに行く優しさもある,要するに普通の14歳である。そんな主人公と弟が,ある日突然,パラレルワールドに迷い込んでしまう。そこは一見,今までと同じ世界なのだが,友人関係が微妙に違っていたり,死んだはずの幼なじみが生きていて普通に登校したりしている。何より自宅に両親がいないのだ。主人公と弟は元の世界に帰ろうと奮闘するが,切ない結末を迎える。

この映画は「世にも不思議な物語」系の語り口をとりつつ,実際に描いているのは思春期特有の疎外感だ。人は大人になる過程で,社会や他人との疎外感,言い換えれば他人との付き合い方に悩みつつ,自分に合った距離感を体得して,社会の中での「居場所」を見つけていく。流行言葉で言うと,「自分さがし」だ。そして,自分と他人の間に一定の距離を取るということは,自分の世界と他人の世界とは異なるパラレルワールドである,ということを認めることに等しい。大人になるということは,友人はもちろん肉親とも,別の世界に住むということなのだ。

映画の中で,「この世界」と「元の世界」をつなぐ唯一のアイテムは,なぜか,読売巨人軍の高橋由伸のテレホンカード(ただし残り度数1)だ。ヘタレの弟はこれを使って元の世界に戻る手がかりを得ようとするが,主人公は「このテレカが元の世界と私たちを結ぶ唯一の物だから,使わない」と言う。これは男と女の発想の違いという見方もできるが,正しい解釈はおそらく,未だ子どもの世界にいる弟と,大人になりかけている姉の発想の違いということであり,そのことは,主人公の最後の選択によくあらわれている。

自分と他人は異なるパラレルワールドに属する住人であるとして,それなら,赤の他人と,友人や肉親を区別するものは何か。それは,「お互いが常にお互いを思いやっているという確信」があるか否かであろう。この確信を絆と言い換えてもよい。この絆さえあれば,別な世界に住んでいても,自分がこの世に存在する理由を実感することができる。主人公は,テレホンカードを別のアイテムに交換することによって,家族との絆を実感することができた。家族はいつか必ず別の世界,この世とあの世にばらばらになる。永遠に会えなくても,お互いを思いやっている確信があれば,ひとりぼっちにはならないのだ。ラストで主人公が見せる笑顔は,この実感を抜きにしては理解できないと思う。

多部未華子は,特別美人というわけでもないのに,時折見せるオーラが強烈で,それを見逃すまいと映画に引き込む不思議な魅力がある。少なくとも,初期の田中麗奈に匹敵する,将来性が大いに期待できる女優である。(小林)

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2007年11月20日 (火)

「ザ・インタープリター」を見て(DVD鑑賞)

国連総会の通訳をしているシルヴィアは,偶然,アフリカのマトバ共和国大統領暗殺計画を聞く。しかし,捜査を開始したシークレットサービスのケラーは,シルヴィアには家族を大統領に爆殺された過去があることを知る。シルヴィアには大統領を殺害する動機さえあるのだ。問いつめられたシルヴィアは,「溺れる男の裁き(Drowning Man Trial)」とよばれるマトバの風習を説く。それは,殺人犯の手足を縛って川に放り込み,溺れさせるか救助するかを遺族の選択に委ねるというものだ。「溺れさせれば,遺族は正義を手にするが,悲しみは一生癒されない。しかし,正義ばかりではないという人生の現実を受け入れて犯人を救助すれば,悲しみが癒される(if the family lets the killer drown, they’ll have justice but spend the rest of their lives in mourning. But if they save him, if they admit that life isn’t always just, that very act can take away their sorrow.)」。シルヴィアは,「復讐心は悲しみの最も愚かな産物だ」と言い,大統領への殺意を否認する。これに対して,その2週間前に妻が間男とともに交通事故死したため,憤りの矛先を無くしていたシークレットサービスのケラーは,「俺なら犯人の頭を押さえつけて溺れさせるよ。」と気弱く言い返す。

私が愛読する「映画瓦版」氏は,「この映画はアメリカという現代の覇権国家がその中心に抱え込んだ,国連という厄介な異物こそが大きなテーマになっている」というが,これは的はずれだろう。映画の主旨は,国連と並んでニューヨークを代表していたWTCビルディングが9.11テロによって崩壊した後のアメリカに,「敵に復讐するのでも,敵を赦すのでもない,敵を救済するという選択肢もある」という提案をしたことにある。「敵を赦す」ことを説く思想は珍しくないだろうが,積極的に「敵を救済する」ことまで説く思想や宗教はあるのだろうか。この映画がアフリカの架空の国を持ってきた理由は,このあたりにあるかもしれない。

もちろん,敵を救済すれば魂の安楽が得られる,という甘々の結論を,映画は慎重に排除している。映画の後半でシルヴィアは復讐心を再燃させ,逆にケラーは救済を説く。二人の感情は螺旋を描くようにもつれ合い,最後にはお互いを理解するが,結局救済は訪れない。しかし,河畔に佇むケラーの背後に広がるマンハッタン島は夕日を浴びて暖かく輝いている。これは,同じくラストシーンの背景にマンハッタン島を据えながら,悲劇的な未来を暗示した「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督)に対する,同じユダヤ人監督であるシドニー・ポラック監督なりの対案なのだろう。

テレビの2時間ドラマばりの安直な解決や,脚本の弱さ,なにより,ニコールキッドマンが美しすぎてテーマから浮いてしまうことなど,欠点の多い映画であるが,それでも,9.11後のアメリカに対して,「敵に復讐するのでも,敵を赦すのでもなく,敵を救済するという選択肢もある」ことを説いたという意味において,この映画は記憶されるべきだと思う。(小林)

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2007年11月15日 (木)

山田洋行元専務,宮崎元伸氏の「横領罪」逮捕と検察庁の狙いは?

先日テレビのニュースを見ていたら,日本ミライズ社に捜索に入る東京地検特捜部ご一行様の先頭に,司法研修所同クラスの男がいてびっくりした。そういえば,村上ファンド代表者,村上世彰氏の公判立会検事も同期の友人であった。どちらの検事の結婚披露宴にも私は友人として出席させて頂いた…って,自慢にもならないか。特捜検事は検事になって15年になる今頃が働き盛りなのかもしれない。友人の検事らの奮闘と活躍を期待します。

とはいえ,弁護士の立場から見ると,宮崎元伸氏の横領罪云々については,報道されている範囲のその一部しか知らないが,やや疑問に思う点もある。

報道によれば,宮崎元伸氏は山田洋行の重役として,20年前から守屋氏をはじめ複数の防衛庁幹部を接待漬けにしたそうである。そして山田洋行は,後発の中小商社でありながら,防衛庁出入り業者としてめざましい躍進を遂げた。山田洋行の躍進と接待が無関係と考える人は誰もいないだろうし,公訴時効の問題など,立証上の困難を別にすれば,賄賂に当たると疑われて当然だろう。

問題は,山田洋行が20年前から防衛庁幹部を接待漬けにした資金は,どのように捻出されたかということである。これは想像だが,今回宮崎氏について報道されているのと同様の工作によって「裏金」が捻出され,これが接待に使用されたと思われる。そうだとすれば,宮崎氏の「悪事」として報道されている事実のうち,「裏金」の捻出それ自体は山田洋行も了承済のことであったことになる。ただ,捻出した「裏金」を,宮崎氏が山田洋行のためではなく,日本ミライズの利益のために使用した,という1点が,山田洋行からすれば「裏切り」にあたることになり,東京地検はこれを「業務上横領」ととらえて強制捜査に踏み切ったことになる。言い換えれば,宮崎氏は裏金を山田洋行の利益のために守屋氏の接待に使えば今回逮捕されなかったのに,日本ミライズの利益のために使ったから逮捕された,ということだ。

法理論的には,たしかにこれは業務上横領だろう。しかし,たとえは悪いがマフィアの会計係がヤミの資金を横領したようなものであり(映画でいうと,「リーサルウェポン2」や「ミッドナイトラン」に,マフィアのマネロン用の裏金を横領して命を狙われる会計係が出てきますね),このような場合の会計係にどの程度の実質的な可罰性があるかは疑問である。日本国民にとって重要なのは,一企業の元専務が会社の裏金を横領したか否かではなく,その企業と防衛庁との間に「黒い癒着」があったか否かであろう。

このように考えてくると,今回宮崎専務が逮捕されたことにより,検察庁の狙いが透けて見えてくるような気がする。

今回宮崎元専務が「業務上横領」罪で逮捕されたことにより,山田洋行は,純粋の「被害者」として,一連の刑事手続に登場することになる。このことは,裏を返せば,山田洋行は,それ以前の裏金作りとその使途についてはお咎めを受けないことを条件に,「被害者」として検察庁に協力するとの約束がなされたことを意味する。これを検察庁の側から言い換えれば,検察庁は,山田洋行が従来行ってきた防衛庁幹部への「賄賂」疑惑を不問に付すかわりに,宮崎・守屋ルートの解明に協力するとの約束を,山田洋行から取り付けたことになる。

この想像が的を射ているとすれば,今回の「守屋事件」は,宮崎元専務と守屋元次官という個人間の贈収賄事件に矮小化されて「それ以上」には行かず,「山田洋行」と「防衛庁」という組織間の贈収賄事件や,「山田洋行」と「防衛族の政治家」という疑獄事件には発展しない可能性が高い。一時,久馬前防衛大臣を始め,歴代防衛庁長官となった政治家の名前が取りざたされたが,現在この手の報道が終息していることも,私の悲観的な予想を裏付けている気がする。本件が「山田洋行」と「防衛庁」という組織間の贈収賄事件や,政治家を巻き込んだ大事件に発展するためには,宮崎元専務は「山田洋行の専務として」「守屋氏に贈賄した」容疑で逮捕立件されることが必要であるし,その場合,山田洋行の社長も逮捕を免れないであろう。逆に言えば,「山田洋行の専務としての贈賄罪」(「日本ミライズの社長としての贈賄罪」ではダメ)で宮崎元専務が再逮捕されるか否かが,本件が「第2のロッキード事件」に化けるか否かのポイントになると思う。(小林)

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2007年8月19日 (日)

「ポチ」の呪い

「ポチ」といっても犬のことではありません。

先日,自宅のインターネット環境をADSLから光ファイバーに変更した。その際レンタルしたルーターやCTUやらと,自宅のイントラとの設定調整作業に6時間かかってしまった。というのは,自宅のイントラについてやや特殊な設定をしており,これに対応する方法がマニュアルに記載していなかったためである。設定作業のうちはじめの5時間を無駄に費やし,袋小路に嵌った挙げ句,NTT西日本のコールセンターに助けを求めたところ,丁寧かつ適切なご指示をいただき,その後1時間で無事終了した。結果論としては,はじめから電話していたら,1時間で終了した作業であったが,私がコールセンターに電話をしなかったのは,「ポチ」の呪いがあったからである。

もう5年前になると思うが,やはりインターネットの設定がわからず,NTT西日本のコールセンターに電話したことがあった。その時はお定まりのようにさんざん待たされ,たらい回しされた挙げ句,応対に出た女性も全く対応する能力がなかった。もっとも,そこまでなら私も想定していたことであったが,最後に,メールアドレスのやりとりをした際,区切りとなる区点「.」のことを,先方の女性が「ポチ」と言ったのである。

…普通「ドット」と読みませんか?せめて「ピリオド」とか。

それを「ポチ」と聞いたとたん,私は「これは駄目だ」と思った。そして,もう二度とNTT西日本のコールセンターには電話しないと心に誓った。その結果,今回5時間を無駄にした。これが「ポチ」の呪いである。

ところが今回は,応対に出た若い女性は私が「どうせ理解できないだろう」と高をくくって始めた説明を半分まで聞かないうちに問題点を理解し,あとは手取り足取り,素晴らしい対応をしてくれた。ちなみに,日曜日であったにもかかわらず,コールセンターが受付をしていたことも驚きなら,全く待たされなかったことも5年前とは大違いであった。これがネット社会の浸透または「高度情報社会化」ということなのかもしれないとしみじみ実感した。NTT西日本様,この5年間信用しなくて申し訳ありませんでした。そして,応対してくれた女性の方にこの場を借りて御礼を申し上げます。(小林)

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